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北九州キネマ紀行【門司港編】戦地に赴く小林正樹監督が置いた〝遺書〟をめぐる物語


この記事に書いていること


小林正樹(1916〜1996)という映画監督がいた。
「人間の條件」や「東京裁判」などの作品で知られる。
北海道小樽市出身の人だが、九州最北端のまち・福岡県北九州市の門司港とは、一つの〝縁〟がある。

映画「人間の條件」予告編( 約3分)

その縁とは‥‥。
1941(昭和16)年12月8日、太平洋戦争が始まった。
小林はその年の5月、松竹大船撮影所に入社していたが、徴兵され
1944(昭和19)年7月、戦地へ移動の途中で門司港に上陸した。
当時28歳。

明日は知れない命。
小林は時間がない中、門司港のある建物の洗面所に、風呂敷包みを置く。
中に入れたのは、自身が書いた映画のシナリオなど。
そのシナリオは〝遺書〟のようなものだった。

この風呂敷包みを、誰か親切な人が拾ってくれるかも知れない。
拾ってくれた人は、これを東京にいる父親に郵送してほしい‥‥。

郵送代として10円札を貼ったシナリオには、そんな走り書きをした。
そして、そのシナリオは無事に東京の家へ着いた。

小林が風呂敷包みを置いた門司港の建物は、当時の門司税関。
今は「旧大連航路上屋きゅうだいれんこうろうわや」となっている。
旧大連航路上屋は今、観光スポット・門司港レトロの施設の一つ。
そして、ここには映画と芸能の資料館「松永文庫」が入っている(入場無料)。

小林監督がシナリオを置いた旧門司税関。今は観光施設・旧大連航路上屋となっている。
1階に映画と芸能の資料館「松永文庫」が入っている。JR門司港駅から歩いても近い

松永文庫が旧大連航路上屋にグランドオープンしたのは2013年。
この時、小林がかつてここに置いたシナリオが記念展示された。
69年の歳月を経て、置かれた元の場所に〝帰って〟きたのだった。

「南方に行くので最後になるかも」

小林は早大卒業後の1941(昭和16)年5月、松竹大船撮影所に入社(当時25歳)。
清水宏や大庭秀雄といった監督に付いたが、その年の12月に太平洋戦争が勃発し、翌年出征した。

小林は、旧満州(現中国東北部)へ。
南方への移動を命じられ、釜山からいったん門司港に上陸する(その後、宮古島へ)。
小林が門司税関の洗面所にシナリオ入り風呂敷包みを置いたのは、この時だった。

小林は当時の状況について、次のように述べている。

(風呂敷包みの中に入れたのは友人らへの手紙のほか)「われ
かん」と「防人さきもり」の脚本です。
「防人」の表紙には
(東京の)おやじの住所と名前を書き、10円札を貼りました。

(中略)

門司に入っても郵便局に行くような時間はありません。
包みを港の建物の洗面所に置きました。
もしかしたら誰か親切な人が発送してくれるかもしれない。
それを期待したのです。
もちろんあとで知ったことですが、ちゃんと届いてました。
包みを見つけた人が「南方に行くので最後になるかも」という中の手紙を読み、それで送ってくれたのでしょう。

「映画監督 小林正樹」(岩波書店)の「小林正樹 私が歩いてきた道」から/聞き手は関正喜氏

映画化を聞かれ小林監督は号泣した

上に引用した「映画監督 小林正樹」(この本は大変な労作)には、門司港でのエピソードについて次のように補足されている。

(「防人」の)扉には父雄一宛に脚本をタイプした上で松竹に送ってほしい旨の依頼とともに「永久にあへないかも知れませんが、この脚本が残っただけでも満足です」等が記されている。
梶山弘子の調査によると、小林が風呂敷包みを置き残したのは門司港の税関の建物で、包みに気づき送ったのは税関に駐在していた憲兵だったようだ。

ここに名前が出てくる梶山弘子さんは、小林映画のスクリプター(撮影記録係)だった人で、この本の共同編集者。
自身も「小林監督の置き土産」という章を執筆しており、ここで興味深いエピソードを明らかにしている。
その部分を要約すると‥‥。

  • 小林監督は、最初の入院(1986年)後の辺りから身辺整理を始めた

  • この中に小林監督が入営直前、川西信夫、中村英雄と親友3人で書き継いだシナリオ「われ征かん」があった

  • これは美術学徒が、無理やり自分を納得させて戦地に行く物語

  • この物語は、監督の最初の遺書という意味合いがある

  • 戦後、このシナリオを映画化する話があったと聞いたが、見送られたという

  • 「どうして映画化しなかったのですか?」と監督に聞いた

  • すると、監督はパッと目を大きく見開いて私(梶山)を見て、突然大声をあげて号泣した

  • その光景はいまも頭から離れない

シナリオは「人間の條件」に生かされた

小林は、なぜ号泣したのか。
この脚本(「われ征かん」)には、いろいろな意味で特別な思い入れがあったのかもしれない。

ところで、小林の代表作「人間の條件」(全6部作)には、俳優・仲代達矢さんが出演。
仲代さんは2016(平成28)年1月、松永文庫を訪問。
仲代さんは当時の松永文庫室長、松永武さんに案内され、洗面所があった場所を見学するなどした。

この時の様子を毎日新聞が伝えている。
記事の中で、小林が風呂敷に入れた「防人」のシナリオについて、梶山さんは次のようにコメントしている。

「『防人』は映画化されませんでしたが、代表作『人間の條件』の第3・4部に生かしたと本人が話していました」

2016年1月28日・毎日新聞北九州版

つまり、小林が門司港に残したシナリオは、監督ののちの仕事につながったのだった。

過酷な戦争体験が反骨の映画人生の根幹になった

松永文庫は2023年7月から10月にかけて「平和を願う戦争映画資料展」を開催。
ここに小林監督の特別コーナーを設け、仲代さんが松永文庫を訪ねた時の写真や新聞記事などを展示した。
風呂敷包みのエピソードにも触れ、次のように紹介した。

(小林監督は)1945年の終戦を宮古島で迎え、米軍の労働要員として沖縄本島嘉手納捕虜収容所に移され、1946年の11月にようやく復員。

運を天に任せて門司港に置き残した風呂敷包みは、奇跡的に父親のもとに届けられていました。

シナリオとともに生きながらえた青年はやがて映画監督となり、過酷な戦争体験が、彼の徹底した戦争反対の意思をあらわにした反骨の映画人生の根幹となりました。

「平和を願う戦争映画資料展」のチラシ

水木しげるも門司港から南方の戦地へ

以上が小林監督と門司港にまつわるエピソード。
門司港と戦争の歴史に目を向けると、ここから戦地へ向かった著名人は他にもいる。
例えば、「ゲゲゲの鬼太郎」などで知られる漫画家、水木しげる(1922〜2015)。

水木は21歳だった1943(昭和18)年、門司港からガダルカナルの補充兵として南方に向かった。
その様子は、水木の自伝漫画「ボクの一生はゲゲゲの楽園だ」などに描かれている。
(水木らを乗せた船が出発するコマには「おーい 日本と最後のお別れだぞーっ」のセリフがある)

あるいは、プロ野球・巨人の投手で、「沢村賞」に名が残る沢村栄治(1917〜1944)。
沢村は1944(昭和19)年、門司港から輸送船に乗り、フィリピンに向かう途中、魚雷攻撃を受け、船は沈没。
乗っていた全員が亡くなったという。

こうした歴史的背景もあって、旧大連航路上屋の近くには「門司港出征の碑」が建立されている。
そこには、こう記されている。

ご存知ですか、先の大戦中、ここ門司1号岸壁から200万人を越す将兵が、はるか南方の戦線に あるいは大陸の戦地へと赴いたことを‥‥

そして半数の100万人の将兵は、生きて再び故国の地を踏むことが出来なかったことも‥‥

門司港出征の碑

松永文庫が入る旧大連航路上屋について
旧大連航路上屋は1929(昭和4)年、門司税関1号上屋として建設された。大連や欧州航路などの国際旅客ターミナルとして、にぎわった。
戦後の1950(昭和25)年、米軍が接収し、ターミナルとしての役割を終えた。
1972(昭和47)年、日本に返還された後、門司税関の仮庁舎などとして2008(平成20)年まで利用された。
アール・デコ調の鉄筋コンクリート造りの建物は、往年の国際貿易港・門司の繁栄を象徴する近代遺産であることから、保存・活用のため、2013(平成25)年に休憩・展望施設として国交省の事業で整備した。

(旧大連航路上屋にある北九州市の説明板より抜粋)
旧大連航路上屋の2階。関門海峡(左側)から吹く風が心地いい

(映画女優・原節子と旧大連航路上屋の関わりをこちらの記事で紹介しています)


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