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北九州キネマ紀行【小倉編】黒澤明も関心を寄せた? 幻の清張映画「黒地の絵」


小倉祇園太鼓も絡む小説「黒地の絵」

松本清張(1909〜1992)は、現在の北九州市小倉北区出身の作家。
「黒地の絵」は1958(昭和33)年に清張が発表した小説。

「黒地の絵」の舞台は戦後間もない小倉。
地元の有名なお祭り・小倉祇園太鼓もストーリーに絡む。

清張は「黒地の絵」の映画化を望んでいた。
しかし、結局、それは実現しなかった。
幻となったプロセスをたどると、あの黒澤明(映画「七人の侍」などの監督)も登場する。

「黒地の絵」が映画化されていれば、〝北九州映画〟を代表する一本になっていたかもしれない‥‥。

舞台は戦後間もない小倉 黒人兵が集団脱走する

「黒地の絵」は、こんな物語。
1950(昭和25)年、朝鮮戦争が始まる。
小倉の「ジョウノ・キャンプ」から、朝鮮戦争の前線に送り込まれる黒人兵が集団脱走する。
彼らは周辺の民家に押し入り、略奪や暴行などの犯罪行為に走る。
住民である前野留吉は、妻を集団暴行される。

時は流れて‥‥。
ジョウノ・キャンプでは、戦死した米兵の遺体を本国に送り返すための死体処理が行われている。
ここで仕事をするようになった留吉。
ある時、妻を襲った黒人兵の遺体を見つける‥‥。

小倉祇園太鼓は小説の冒頭に登場。
7月の暑いころ、ジョウノ・キャンプにも小倉祇園太鼓の音が聞こえてくる。
絶望的な前線に送り込まれる黒人兵たちは、太鼓の音に誘発されるように、脱走する。

集団脱走事件は実話だった

この集団脱走事件は実話だった。
脱走したのは、200人ほどに上ったといわれる。
ジョウノ・キャンプがあったのは、現在のJR日豊線・城野駅(北九州市小倉北区)の近く。
(いま辺りは、きれいに整備された商業・住宅地になっていて、当時を思い起こさせるものは何もない)

JR城野駅


 城野駅の周辺

日本の敗戦によって、米軍が日本に駐留。
ジョウノ・キャンプは、朝鮮戦争(1950〜1953)に伴い、最前線に送り込まれる兵士の派兵基地になっていた。

実際の事件が起きたのは1950(昭和25)年7月のこと。
しかし、この事件が広く知られることはなかった。
なぜなら、当時の日本は占領下にあり、自由な報道が許されていなかったから。
このため、現場付近の住民を除き、事件が広く知られることはなかった。

新聞はどう伝えたか

ただ、北九州という、ごく限られたエリアではあったけれど、小さな新聞記事は出た。
(当時のメディアといえば、新聞とラジオくらい)

だが、その記事は(現在の感覚からすれば)〝異色〟のものだった。

1950(昭和25)年7月15日の朝日新聞北九州版。
ベタ(1段)見出しで、15行ほどの記事。
見出しは「〝逃亡兵は報告を〟小倉憲兵隊から」

記事は、こんな内容。
小倉地区憲兵司令官、ジョージ・O・ロバーツ大尉が北九州市民に次のように要望した

  • 数人の黒人兵と白人兵が所属部隊に帰っていない

  • 黒人兵を見つけたら、小倉憲兵隊室長か警察に連絡してください

これだけ。
これでは、いったい何が起きたのやら、よくわからない。

その3日後には「米軍が遺憾の意を表明」という見出しの、これまた小さな記事が同紙北九州版に載った。
記事は「在小倉PIO(渉外部)発表」のクレジットで始まる。

内容は

  • 当地区米占領軍司令官は次のように語った

  • 当地の米軍にとって不吉な事件が発生したことは、それがいかなるものであっても、遺憾の極みである

  • すべての違反事件は(米)陸軍当局によって起訴され、裁判に付されるだろう

「不吉な事件」と言われても、これも具体的なことは何も書かれていない。
読者は、何か事件があったらしいとは分かるものの、具体的に何が起きたのか、さっぱり分からない。

清張は事件現場の近くに住んでいた

清張は事件の起きた時、40歳。
朝日新聞西部本社(小倉)の広告部で働いていた。
(小説「或る『小倉日記』伝」で芥川賞を受賞するのは、事件のあった3年後)

清張はジョウノ・キャンプの近くに住んでいた。
現在の北九州市小倉北区黒住くろずみ町で、ジョウノ・キャンプに隣接していた。

清張は発生当夜、会社から帰宅した時は何も気づかなかったが、
翌朝、家の周辺が騒々しい。それで事件を知ったという。

脱走した黒人兵の人数はよく分かっていないが、二百人くらいだったという。
彼らはカービン銃を持ち、手榴弾携行という完全武装だった。
気の合った者どうしで組み、各地で暴行を働いたのだった。

松本清張「半生の記」

清張は後年、上京。
この事件のことを人に聞いても、誰も知らない。
(全国的には報じられていないのだから無理もない)
清張は、こう書いている。

この騒動のことが動機になって、私は占領時代、日本人が知らされなかった面に興味を抱くようになった。

「半生の記」

映画化は「一度としてOKが出ない」

清張は「黒地の絵」の映画化を考えていた。
このため、清張は1978(昭和53)年、映画監督の野村芳太郎(清張作品の監督作に「張込み」「ゼロの焦点」「砂の器」など)らと、映画制作会社「霧プロダクション」を立ち上げる。

しかし、結局いろいろとあって、「黒地の絵」は映画化されることなく、霧プロダクションは1984(昭和59)年に解散。

清張はそのいきさつを、1984年の週刊朝日に「『霧プロ』始末記」と題した手記にまとめ、公表している。
その中から「黒地の絵」の映画化にまつわる、いくつかのエピソードを要約すると‥‥。

  • 「黒地の絵」は、助監督から監督に昇進した若い監督がたいてい映画化に意欲を燃やす原作。しかし、一度として会社からOKが出たことがない

  • 理由は明らかにされていないが、たぶん反米的、反戦的内容とアメリカの人種差別問題を含んでいることなどからだろう

  • 私は(映画化するなら)アメリカ黒人の生活と心情、その平和な日常生活へある日突然やってきた絶望的な戦場への駆り立て‥‥‥といったものがテーマだった

清張は映画化に際して、原作を忠実になぞるのではなく、事件を起こした黒人サイドから描きたかったようだ。

黒澤監督が「乗り気」になった?

清張の手記の要約を続けたい。

  • (題材を探していた?)黒澤明監督の来訪を受け、「黒地の絵」の話をした(プロデューサーが同行)

  • すると黒澤監督は、たちまち乗り気になり、私の目の前でプロデューサーと握手した(しかし、結局、映画化はされなかった)

黒澤監督が清張を訪ねた時期は判然としないが、霧プロ設立(1978年)の直前だとすれば、監督のディスコグラフィー的には「デルス・ウザーラ」(1975年公開)と「影武者」(1980年公開)の間ということになる。

この黒澤監督が「たちまち乗り気に」なったことが、清張に〝「黒地の絵」の映画化に脈あり〟と感じさせたようだ。

黒沢氏の断念の理由は遂にわからなかったけれど、たとえ一時でも大監督が映画化の意欲を起こしたらしい(?)ことが、(清張が映画化に動く)刺激となったのだった

「霧プロ」始末記

野村監督は黒人脚本家にシナリオを依頼

「『霧プロ』始末記」に書かれているのは、設立や解散にまつわるゴタゴタが中心。
ここでは、そこは割愛して、「黒地の絵」の映画化に関する部分を続けて紹介する。

  • 「黒地の絵」を映画化するなら、野村芳太郎監督が適任だと思われた

  • 野村監督はスタッフと渡米し、黒人脚本家にシナリオを依頼した

  • しかし、野村監督はそのシナリオに満足しなかった

  • 日本人のライターも脚本を書き、何度も書き直したが、そのうち野村監督に映画化への情熱が感じられなくなった‥‥

「日本人のライター」のうちの一人は、井手雅人(佐賀県出身の脚本家。清張作品の映画では「鬼畜」や「わるいやつら」など)。
井手は「黒地の絵」の脚本の第2稿と3稿を書いた。

映画化を考えた監督は、野村芳太郎や黒澤明のほかに、堀川弘道、熊井啓、山本薩夫、森谷司郎ら。
このうち森谷(映画「日本沈没」や「八甲田山」などを監督)はシナリオまで完成させていたという。

事件の現場付近は「清張文学の原点、発祥の地」

清張は黒人兵の集団脱走事件が起きた時、ジョウノ・キャンプ近く、現在の北九州市小倉北区黒住町に住んでいた。
当時は黒原営団住宅といい、兵器しょうの工員住宅だった家。
清張は復員した昭和20年秋から約8年間、ここに家族と住んでいたという。

黒住町には今、同町を「清張文学の原点、発祥の地」として、清張の名前を冠した「くろずみ清張公園」がある。

くろずみ清張公園(北九州市小倉北区黒住町)

付近を歩くと、普通の住宅街で、当時を想起させるようなものを見つけることは難しい。
40代の清張は、ここから朝日新聞に通い、広告の仕事をしていた。

清張は大手新聞社に勤めていたとはいえ、終戦直後は仕事がなく、家族を養うため、ほうきの仲買商をした。
黒人兵の集団脱走事件が起きた1950(昭和25)年は、清張が週刊朝日募集の懸賞小説に「西郷札」を応募して、入選した年。
これが翌年、直木賞の候補になり、人気作家への足がかりをつかんでいく。

清張が「黒地の絵」を経て、「日本の黒い霧」(戦後、日本で起きた怪事件の数々を取り上げたノンフィクション作品)などを手がけたことを考えると、確かに黒住町は清張原点の地といっていい。

それにしても映画というものは、わたしたちが実際に目にするまでに、一体どれほど多くの〝構想〟が浮かんでは消えていったことだろう‥‥。

「黒地の絵」は、今でも映画化が考えられていい作品だと思う。

清張を詳しく知るなら、JR小倉駅からも近い北九州市立松本清張記念館がオススメ。
特に清張の東京の自宅にあった書斎や書庫、応接室が移された展示コーナーは、興味深い。
書庫は、ガラス越しに膨大な書籍を見ることができ、それは、あたかも清張の「アタマの中」をのぞいているようで、面白い。


松本清張記念館はJR小倉駅から徒歩15分ほど

参考文献
松本清張「黒地の絵」/「半生の記」
北九州市立松本清張記念館「黒地の絵展 刻まれた記憶」/「松本清張と映画」

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