北九州キネマ紀行【高倉健を「読む」編】健さんと江利チエミが見た映画「哀愁」〜そして健さんの映画で流れた「テネシー・ワルツ」
この記事に書いていること
北九州とゆかりのある映画俳優、高倉健(以下、健さん)は2014年11月10日、83歳で亡くなった。
健さんは1959(昭和34)年、歌手の江利チエミと結婚。
健さんは28歳、江利は22歳だった。
二人は1971(昭和46)年、離婚。
江利は1982(昭和57)年、45歳の若さで亡くなった。
二人が知り合う遥か前、高校生の健さん(高校は現在の北九州市にある東筑高校)は、アメリカの恋愛映画「哀愁」を見て感激した。
一方、歌手デビューしていた江利チエミも、九州から遠く離れた札幌で、「哀愁」を見て感激。
「素敵だな、ああいう恋をしてみたい」と言っていた。
お互いのことを知らないまま、二人が別々の場所で見た映画「哀愁」。
やがて二人は結ばれる。
江利が亡くなったのち、江利のヒットナンバー「テネシー・ワルツ」のメロディーは、健さんの主演映画「鉄道員」で使用された。
使用を提案したのは、健さんだった。
ヴィヴィアン・リーに憧れた
映画「哀愁」は、1940年のアメリカ映画(マーヴィン・ルロイ監督)。
第一次世界大戦下のロンドンを舞台に、英国将校(ロバート・テイラー)とバレリーナ(ヴィヴィアン・リー)の悲恋を描いた。
日本公開は1949(昭和24)年。
日本は戦争が終わって、わずか4年。
占領下にあって、アメリカ映画が次々に公開され、娯楽に飢えた人たちは映画館に詰めかけた。
健さんも、その一人だった。
健さんは自著「あなたに褒められたくて」で、その頃ヴィヴィアン・リーやヘンリー・フォンダに憧れたことを明かしている。
健さんは当時ボクシングに夢中になり、学校にボクシング部を創設。
これが縁になって、小倉(現在の北九州市)に駐留していた米軍司令官の息子、シュルツ君と友達になり、英語に磨きをかける。
アメリカは希望の地のように見えたことだろう。
「『哀愁』には痺れた」
映画「哀愁」の公開時、健さんは18歳。
見たのは、映画館が多くあった八幡か小倉だったと思われる。
健さんは「哀愁」を見た時の感想をこう述べている。
このエピソードについて、健さんは別の著書や雑誌の対談などでも語っている。
健さんは戦時中、〝鬼畜米英〟の教育を受けた。
男女の恋愛なんて、大っぴらに語ると非国民扱いされた時代。
それだけに、戦争が終わって、「哀愁」を見た時の衝撃は大きかったのだろう。
健さんはアメリカへの憧れを募らせる。
アメリカ密航も考えた
健さんの高校時代の親友に敷田稔さんという人がいた(2017年に85歳で死去)。
東京地検や最高検の検事などを経て、国連アジア極東犯罪防止研修所の設立に携わるなど、犯罪防止に尽力した人。
(有名になった健さんは、敷田さんの求めに応じ、何度も刑務所で講演したという)
健さんと敷田さんは高校時代、アメリカに憧れすぎて(?)、若松の港から密航することを企てたほど。
健さんと敷田さんは「哀愁」を見た当時のことを、雑誌の対談で次のように語り合っている。
ああいう恋がしてみたい
さて、一方の江利チエミ。
昭和歌謡史に欠くべからざるシンガーの一人。
よく知られているのは、15歳の時(昭和27年)のデビュー曲「テネシー・ワルツ」。
江利チエミは1937(昭和12)年、東京生まれ。
戦後、小学生の時から米軍キャンプで歌い始め、15歳の時に「テネシー・ワルツ」でデビュー。
映画にも出演し、1956(昭和31)年公開の映画「恐怖の空中殺人」で、当時無名の健さんと共演した。
藤原佑好氏の著書「江利チエミ物語〜テネシー・ワルツが聴こえる〜」には、江利チエミが映画「哀愁」を見た様子が次のように記されている。
これは江利の前座歌手をしていた大津美子さんの証言。
要約すると‥‥。
札幌で「江利チエミショー」が開かれた際、江利が「『哀愁』をどうしても見たい」と大津さんを映画に誘った
映画を見終えて外に出ると、雪が降っていた
「チエミさんは降り積もった雪の中を転げながら〈素敵だな! ああいう恋がしてみたい〉と声をあげて、大粒の涙を流していたのを今でも忘れません」
大学生の頃から江利チエミのファンだった
15歳の江利が「テネシー・ワルツ」でデビューした1952(昭和27)年、健さんは21歳、明治大学の学生だった。
この曲は、その頃から健さんのお気に入りのナンバーだったようだ。
そのエピソードが、森功氏の著書「高倉健 七つの顔を隠し続けた男」に紹介されている。
語るのは、健さんの妹。
要約すると‥‥。
兄(健さん)は「これからは英語を勉強しないといけない」と言っていた
兄は大学入学後の夏休み、帰省した際に江利チエミの「テネシー・ワルツ」のレコードをくれた
兄は英語の歌詞を書き「これで勉強しないか」と言った
兄はこの頃から江利チエミのファンだった‥‥
健さんと江利チエミは1971(昭和46)年に離婚。
結婚生活は12年ほどだった。
江利チエミは1982(昭和57)年、45歳の若さで亡くなった。
脳出血を起こし、吐いたものが気管に詰まったためだったという(「江利チエミ物語~テネシー・ワルツが聴こえる~」)。
テネシー・ワルツは「胸がキューっとなる」
健さんと江利チエミにとって、特別な意味を持っていたであろう「テネシー・ワルツ」。
この曲は、健さんの主演映画「鉄道員」で用いられた。
健さんと妻役の大竹しのぶの夫婦愛を象徴する場面で、大竹がハミングするBGMとして何度も流れた。
「鉄道員」は1999(平成11)年の公開。
当時、健さんは68歳。
江利チエミとの離婚から28年、江利の死去から17年が経っていた。
この「テネシー・ワルツ」を「鉄道員」に使うことを提案したのは、他ならぬ健さんだった。
健さんは「テネシー・ワルツ」のことを、「ドキッとして、胸がキューっとなる歌」と言っている。
健さんと江利チエミが共に暮らしていた頃、二人は映画「哀愁」のことも語り合うことがあったのだろうか‥‥。
二人をめぐる北九州に関する補足
ところで、江利チエミのディスコグラフィーの中に「北九州音頭」という曲がある。
5市合併によって北九州市が発足した1963(昭和38)年の発表と思われる。
下に貼らせていただいた映像の音源が「北九州音頭」(約4分)。
映像は、八幡製鉄所を舞台にした木下恵介監督の映画「この天の虹」(1958年)。
なお、「この天の虹」と「北九州音頭」は直接関係ない。
(映画「この天の虹」は、こちらの記事で紹介しています)
「北九州音頭」の歌い手に江利チエミが選ばれたのは、北九州とゆかりのある健さんとの関係もあったからだろうか。
だとすれば、江利は、健さんの実家近くを応援したいという思いもあって、「北九州音頭」のレコーディングを引き受けたのかもしれない。
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