団塊ジュニアのテツ

昭和50年代前半。それが僕らの少年時代だ。 その頃は、ネットもないし、スマホもない。フ…

団塊ジュニアのテツ

昭和50年代前半。それが僕らの少年時代だ。 その頃は、ネットもないし、スマホもない。ファミコンすらなかった。 あるのは、原っぱと裏山と近所の駄菓子屋だけだった。 でも、僕らは想像力を精一杯駆使して遊び、楽しみ、走り回っていた。 それでは、団塊ジュニアの少年時代をご堪能あれ。

最近の記事

魔女の家

僕の家から15分ほど歩いた町のはずれに、木々が生い茂った家が建っていた。 入り口には大きな黒い門がそびえ、庭にはこの辺りでは見たこともない草花が生え、樹木で隠された家屋には日が入ることさえない様子だった。 そして、その家には黒い犬が2匹放たれていた。 赤い首輪を付け、僕らが近づくと決まって吠えかかってきた。 夕暮れ時になると、その家に一人で住んでいるおばさんが、犬を散歩に連れ出した。 彼女は犬と同じ色の衣装だったのを覚えている。 黒いジャケットに黒いスカートを身に着け

    • 蚕の森

      僕が小学生だった頃、僕の家の近くでは養蚕を行なっていた。 テニスコート2面分ほどの広さの建物に、たくさんの箱で仕切られた蚕の部屋があり、桑の葉が敷き詰められていた。 その部屋に入ると、シーンとした厳粛な空気の中で、蚕が葉を食べるサワサワという音だけが聞こえた。 それは心地よい音で、雨の日の休日を連想させた。 その音を聞くとなぜか神聖な気持ちになるのが不思議だった。 父の知り合いだったその養蚕所のおじさんに頼んで、蚕を触らせてもらうのが好きだった。 掌に載せると、吸盤の

      • 林間学校のバス車中

        春田君と知り合ったのは、小学4年生の時だった。 夏休みの自由研究で、僕は「氷の溶け方」を題材にして発表した。 それを見た先生が、別のクラスだった春田君の「氷のでき方」と併せて、県の発表会に出すことを提案してくれたのだ。 というわけで9月の前半2週間ほど、僕と春田君は共同制作のため、お互いの家を行ったり来たりすることになった。 もともとそれぞれの自由研究は出来上がっており、それをひとつにするだけだったから、比較的早くその作業は終わった。 けれども、なんだかんだ理由をつけ

        • 虫 虫 虫 蟲

          昭和小学男子といえば、虫である。 彼らは、虫を愛し、虫に愛され、虫になりたいとさえ思っていた。 定番のカブトムシ、クワガタはもちろん、カマキリ、ショウジョウバッタ、カミキリムシからダンゴムシまで、その愛好する虫の範囲は銀河のごとく広大だ。 ある時、どの虫が最強かを真剣に話し合い、最終的にはオケラという結論に達した。 オケラは地中を掘り進み、水上を泳ぎ、空を飛び、地上を歩くという、様々な環境に対応したスーパー昆虫だからだ。 たぶん今だったらクマムシがスーパーエリート生物

          久米島先生のこと

          小学校の先生で一番印象に残っている先生は誰かと聞かれたら、僕は久米島先生と答えるだろう。 たぶん、同級生でも同じ意見の人が多いのではないだろうか? 久米島先生は僕が4年生の時の担任で、20代後半の運動好きな男の先生だった。 黒縁のメガネをかけ、いつもアディダスのオレンジジャージを着ていて、朝の運動場まわりでは率先して走っていた。 声は大きいが、生徒を上から見るのではなく、同じ目線で話してくれるのが印象的だった。 授業以外の時間は、率先して生徒の輪の中に入って僕らを楽しま

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          恋する昭和おバカ男子

          昭和時代の小学男子がいかにおバカかを伝える逸話は、今でも枚挙にいとまがない。 彼らは空き地の土管を秘密基地に見立て、教科書の偉人の顔に意味もなくひげを書き、その机の中にはしわくちゃのプリントとカビの生えたパンが息づいていた。 指立てピストルの打ち合いでは絶対に当たってないと言い張り、どうしたら仮面ライダーになれるかを本気で考え、女の子はスカートをはいた宇宙人だと思っていた。 この話はそんな昭和おバカ男子3人組の顛末である。 小学3年生当時、僕はひどいアレルギー性鼻炎に

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          耕平君との帰り道

          子供と大人の違いって何だろう。 体が大きくなること? でも、小柄な大人はいるし、大人顔負けの体格の子供もいる。 精神的に成熟すること? でも、幼稚な大人はいるし、立派な考えを持った子供だってたくさんいる。 異論もあるだろうけれども、子供と大人の違いのひとつの答えは 「大人は自分がやってしまったことに、責任を負わなければならない」 ということではないだろうか。 子供は何か失敗をしてしまっても、まわりの大人たちが対処してくれる。 子供は悪いことをしてしまっても、刑事責任は

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          ショクヨウガエル捕り-後編

          ケンと一緒に立てた作戦はこうだ。 <作戦1> カエルが鳴いていたらその音を頼りに近くまで行って網で捕まえる。 川底に潜んでいるようだったら、タコ糸で縛った煮干しを近くに投げて吊り上げる。 <作戦2> 鳴き声が聞こえなければ、懐中電灯で橋の下をくまなく点検し、潜んでいそうな所に煮干しを近づけてみる。 <作戦3> 万が一逃げられそうになったら、爆竹を鳴らして気絶させて捕まえる。 完璧だ。 これなら絶対捕まるはずだ。 ドブ川に着くと、僕らはさっそく耳を澄ませた。 残念ながら

          ショクヨウガエル捕り-後編

          ショクヨウガエル捕り-前編

          僕が生まれたのは、埼玉県の川越市。 江戸時代は城下町として栄え、蔵造りと呼ばれる土蔵の街並みで知られている場所だ。ご存知だろうか? 今でこそ年間700万人以上の人が訪れる観光地としての地位を誇っているけれど、僕らが子供の頃はそんなことはなく、鄙びた城下町という印象だった。 氷川神社や喜多院といった神社仏閣は数多くあれど、デパートは丸広百貨店だけ。「銀座通り商店街」という名前だけは立派なアーケードが一番の繁華街だった。 西武新宿線と東武東上線が通ってはいるが、国鉄川越線は

          ショクヨウガエル捕り-前編

          風船葛の思い出

          小学生の頃の僕の家には、けっこう広い庭があった。 園芸が好きな母は、毎日のように草木の世話をし、季節ごとに咲く花々を楽しげに眺めていた。僕が小校5年生から飼い始めた、犬のジョンにあちこち掘られてしまうまでは…。 だが、この話はジョンが来る前のことだ。 手入れされた庭はきれいに整い、折々の花の香りが常に漂っていた。 また、庭の片隅にはシソやユキノシタ、ミョウガといった香味野菜が植えられ、食事の薬味として食卓を豊かに彩っていた。 僕は特にユキノシタの天ぷらが大好きで、葉が大き

          思い出ツラツラ-団塊ジュニアの少年時代

          団塊ジュニア 日本で1971年から1974年に生まれた世代を指す。最多は1973年出生の210万人で、団塊の世代の最多である1949年出生の270万人より少し少ない。第二次ベビーブーム世代とも呼ばれる。 -Wikipedia 昭和50年代前半。それが僕らが少年時代を過ごした季節だ。 その頃は、ネットもないし、スマホもない。ファミコンすらなかった。 あるのは、原っぱと裏山と近所の駄菓子屋だけだった。 でも、僕らはその小さな世界で遊び、楽しみ、走り回っていた。想像力を精一杯駆

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