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人本旅「手塚治虫と福井英一」

ヤフオクで「イガグリくん」を入手するまで

たまたまNHK+で『まんが道』最終話が候補に上がっていたので視聴した。後半、手塚治虫が上京してきた藤子不二雄に食事をふるまう席で、福井さんの訃報を知らされ飛び出してゆくシーンがあった。そこで初めて『福井英一』という漫画家の存在を知ることになる。
検索すると、福井英一氏は当時手塚治虫が最もライバル視していた人気の漫画家だった。その作品は昭和27年連載開始の『イガグリくん』という柔道漫画であり、手塚氏の対抗心をあおり、昭和29年「イガグリくん事件」が起こる。

そこまで手塚治虫に対抗心を煽った作品が気になり、著書の入手を模索、探した所ヤフオクで発見。アース出版局の初版を入手した。後で分かったが現在は以下のサイトで無償で読むことができる。

戦後GHQは、サンフランシスコ平和条約締結までは、柔剣道や時代劇などをテーマにした漫画を禁止していた。その解禁第一号が、イガグリくんだった。著者の死後60年が経過しJコミ初の著作権消滅作品となったとのこと。

手塚治虫は当時どんな漫画を描いていたのか

1952年で検索すると以下のような作品がヒットした。

いやもう1952年だけでこのラインアップ。すごいです。後年鉄腕アトムにつながる「アトム大使」や、ロック冒険記など、手塚氏の空想力が発揮されているように見えるのですが、そんな彼がなぜ「イガグリくん」に嫉妬したのでしょうか皆目わかりません。ただ、Wikiに記載あるエピソード、

手塚は持論として「ストーリー漫画家はページ数を稼ぐために無駄なコマや不必要な絵を描く」と批判し、「悪い例」として「イガグリくん」の絵を描いたのである。これを見た福井は「手塚はこのイガグリを悪書漫画の代表としてこきおろして、天下にさらした」と激怒した。福井は手塚がいた少年画報社を訪れて抗議の意を示し、その後場所を移した居酒屋(馬場のぼるが同席)で「どこに無駄な絵があるのか」と手塚に詰問、「無関係な架空の漫画」という手塚の弁解を許さず、手塚は福井に頭を下げた。「福井氏の筆勢を羨んでいた」手塚は自己嫌悪に陥ったという

Wikipedia 福井英一 手塚治虫との関係

の部分と、制限されていたテーマをいち早く採用した事、当時の人気ぶりを重ねて考えると、描き方は違えど、東京育ちで読者層と作品指向性が似ていて勢いがある7歳年上の福井氏は、本気で喧嘩できる相手だったかもしれず、それが若さゆえの過ちでタダの「やっかみ」になってしまったのではないか。

イガグリくんの中にある手塚氏と手塚作品の痕跡

「やい、この大阪人、あんまり儲けるなよ」と絡んだ福井氏だが、亡くなった後で、手塚作品を全部買って揃えていた事を手塚氏自身も知ることになる。また、手塚も生前、自作の『弁慶』に対して「やりやがったな、うめえ」と一度だけ褒められたエピソードも残る。そんなやり取りを垣間見るとお互い認め合い、悔しがる紛れもないライバルだったといえる。そんな2人関係を垣間見えるシーンを抽出してみた。

主人公伊賀谷栗助(いがやくりすけ)を追いかけて汽車に乗ってきた少年とのやり取り。主人公の履歴を漫画を読んで知った。という下りは手塚氏も時々使う。
1つの画面がそれぞれのコマで表現されている。びっくりした伊賀谷を見た読者は、その目線の先にある仲間の状態を目にするような映画のような動き。
仲間の戦い場所へ向かう伊賀谷。背景に暗雲が立ち込め、雷と閃光が近づいてくる。これから起こる不安をシーンだけで表現している。
右腕を負傷した相手に、伊賀谷も右腕は使わず最後まで試合を続けた。その姿勢に相手も負けを認めるシーン。
手塚外科医院の手塚先生
決闘場所は手塚っ原
手塚先生が思いっきり投げ飛ばされる
閃光で一瞬だけ真剣な表情が垣間見えたような演出

同じ時代の作品を比べても手塚治虫の表現力はすごいと感じる。そして、匠に自身の存在を示した福井英一氏の存在は、手塚治虫のその後の活躍の礎の一つになっていると感じる。
興味を覚えて入手に至った「イガグリくん」だが、面白い2人の歴史を旅することができた。


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