きっともう大丈夫:『秒速5センチメートル』解説②
タイトルの新海誠監督作品の解説・後編になります.前回は,その前半で大人貴樹が限界を迎えたことについて,またあの名曲を主題歌として引用した意図を解説しました.後半では,小説で貴樹の後悔が明らかにされ,同時に別れ際の明里の言葉が貴樹にとって悔いが残るものでもあった,ということを紹介して終わりました.
前編を読む.
この後編は,解説というより考察の色合いを強めます.解釈が求められるからです.読者の皆さんにおかれましては,常に別様の解釈がありうることを念頭に置いて,読み進めていただければと思います.
5.渡せなかった
(1)食い違い?
「あなたはきっと大丈夫」という言葉に報いることができなかったと,貴樹は後悔していました.この彼の後悔を考えるということは,具体的に2人がどうすれ違っていたかを考える,ということでもあります.
したがって,その作業は,2人があのときそれぞれどのようなことを考えていたのかを明らかにしていくものになります.その出発点となるのは,15年前の別れ際に2人がお互いにかけた言葉になります.
明里が欲しかったのはこの言葉ではなかったということ知らなくても,この時点で2人が微妙にすれ違っていることを,なんとなく感じてしまうのが切ないところです.
すなわち,明里の方はこれから自分がいなくなる貴樹を案じていて,それに対し,貴樹は明里を案じてはいますが,それは今まで通りの2人を念頭に置いた言葉になっている気がします.2人とも心配している点は同じなのに・・・
まずは貴樹の方から追っていきましょう.実はこの彼の発言,その前と言動が食い違っています.
前回も引用した,明里に渡すはずだった手紙の最後の部分です.
別れを告げる内容だったことが分かります.貴樹を未練がましいとか言った人,出てきなさい.というのは冗談ですが,このことから,貴樹は別れの手紙を携えていたのに,帰りには「手紙書くよ!」になっていたことが明らかになります.
む,矛盾だ!
もっとも,これは彼が心変わりしたことを意味します.そこで,この心変わりの経緯をみていきます.
(2)世界を変えるキス
まず,手紙のことを言わなかったことについて次のように言っています.
あの口づけが世界を変えてしまい,その結果手紙のことを伝えなかったと.これはいったいどういうことなのか.
まず,そのキスで貴樹は明里の気持ちを感じとります.
台詞の続きも見ていきます.映画にも小説にもある台詞です.
明里の心が「ここ(=自分)」にある.要するに彼女が自分を好いてくれていることを感じたと理解できます.
いったん整理すると,初めてのデートで初めてのキスをしてお互いの気持ちを確認できたのなら,13歳にとってそれはもう「世界の何もかもが変わってしま」う出来事ということになります(初めてのデートというのは小説164頁).
もっとも,初めての体験で新しい世界が開かれたことと同時に,貴樹の方針も変わったという意味が「世界の変化」には込められているわけですが,台詞に表れている彼の戸惑いからは,唇から感じたその明里の気持ちになんとか応えたい彼の心情も読み取ることができましょう.
つまり,さよならの手紙を携えながらも,逆に彼女を気にかけている点に,貴樹の変化の端緒を見出すことができます.これが1つのポイントだと思われます.
もう1つは,別れ際に「貴樹くんはきっと大丈夫」というときの明里が,そんなに大丈夫ではなさそうに見えることです(上記画像).明里としては,手紙のこと,彼に伝えたいこと,伝えなければいけないこと,などあれこれ悩んでいたのだと思いますが(詳しくは後述),こうした様子は貴樹には心配に見えたと思います.
以上,彼女の気持ちに応えたい思いと彼女への心配.これらから貴樹としては,明里がさみしい思いをしないよう,「さようなら」を綴った手紙のことを告げることは避け,また,文通を続けることにしたとここでは考えたいと思います.手紙のことを伝えたら必然的にその内容に触れざるを得ず,心配な彼女にそれは伝えられないと考えても不思議ではありません.
花苗が言うように,やさしい貴樹でした.
(3)やさしい貴樹
こうした理解を支えるものか分かりませんが,次の台詞があります(映画).
これは帰りの電車での台詞です.明里のことをつい心配してしまう,守りたい,といった関係性が2人の間にはありました.教室で2人がからかわれたシーンとかもそうですよね.
さて,筆者は以上のように理解しましたが,実は自信がありません.というのも,桜の木の下で貴樹は2人の関係が終わることもまたはっきりと分かっていた,という事実をうまく拾えていないと感じているからです.彼が終わりを知っているというのは,キスのシーンにおける次の台詞です.
上記の説明はこの事実をうまく位置づけられないまま書かれています.別れを知りながらも「手紙書くよ」とはどういう心境なのか.彼は何か中途半端なことをしているような気がします.
ちなみに上の台詞の後段は,小説で次のように言い換えられています.
これは作者による,2人が続かなかったこと(あるいは初恋,または遠距離恋愛が続かないこと)の説明です.
さて,貴樹についてはこれくらいにして,次に進みたいと思います.
6.渡せなかった②
(1)明里の場合
さて,話をあの夜の桜の木の下に戻します.あそこで貴樹の意向が変わった一方で,明里の方も同じく変わったのであり,そのことに触れなければなりません.
すなわち,明里も渡すつもりの手紙を携えていましたが(小説では駅で待っている間に書いたとあります),結局,渡しませんでした.
彼女が渡さなかった理由は小説に書かれています.
貴樹と同じくキスをきっかけとするようです.ということは,明里の方も彼の気持ちを感じ取っていたわけですが,実は,このことは小説よりも前に予告でそれとなく伝えられています(下記動画は再上映版ですが内容は当時のものと同じです.こちらの方が音質がいいので).
字幕は貴樹視点で,音声は明里視点で「彼の心がどこにあるか,わかった気がしたのに」と.この明里の音声は本編にありません.したがって,これは予告のために録ったものなのかそれとも…と気になるところ(情報求む).
さて,これが明里が渡さなかったことにどう結びつくのかですが,それにはさらに手紙の内容を知る必要があります.長いのでこちらで勝手に要約すると,貴樹と出会ってから,明里がいかに彼に救われていたかが綴られています.彼なしに今の生活はありえなかったと.
また,
そして,次の言葉で手紙は綴じられています.
これらを踏まえると,明里が渡さなかった理由とは次のようなことものだと思います.
すなわち,唇を重ねて貴樹の気持ちを知ることができた.このことで十分なんだ,というもの.貴樹のいない生活に順応しなければならないことを考えると,これ以上気持ちを伝えるのはただお互いつらくなるだけだ,ということ.
(2)明里の後悔
手紙を渡す,渡さないの葛藤は,先ほどの「彼の心がどこにあるか,わかった気がしたのに」の語尾にも看て取れます.貴樹が自分のことを想ってくれているその気持ちに,明里は自分の気持ちを綴った手紙で応えたかったはずなのです.
そして,後々明里は手紙を渡さなかったことを後悔しています.小説では,中学の卒業式に思い切ってブリキ缶?にしまうまで(筆者も見覚えのある洋菓子らしきもの),ずっと鞄から出せずに持ち歩いていたとあります(163頁).なんの後悔もなければ手紙をとっておくことはしないでしょうし,このように散々悩んだあげく強引に断ち切る様は,先ほどの貴樹の手紙の文面に通じるものがあります.つまり,これは貴樹を見るに,後悔を残すことになる稚拙な方法として描かれたと考えられるのです.
また,大人になって実家の部屋を片付ける際に見つけた手紙を,少しだけ読むもすぐやめてしまいます.「いつかもっと歳を取ったら,もう一度読んでみようと思う。まだきっと早い」(175頁)とあります.読めばきっと胸が痛くなるからでしょう.痛むのはそこに後悔が滲む思い出があるのです.
7.求めた②
(1)言えなかったことについて
ここでは少しメタ的な話をしようと思います.上で貴樹と明里がそれぞれ手紙を渡せなかった理由を検討しました.渡せなかった結果,お互いに2度と相手に気持ちを伝えることはありませんでした.
2人はその後も文通したのに本当ですか?と思われる方のために説明します.
明里については,先ほどの彼女が手紙を渡さなかった理由に鑑みれば,言葉にしなかったであろうこと.また,その手紙を捨てられなかったことからも理解できると思います.このように彼女の場合,心情に沿った説明ができますが,貴樹の場合は,説明にメタ的な視点が必要になります.
1つは,「One more time, One more chance」の歌詞(「言えなかった「好き」という言葉も」)に綺麗につながる,ということです.前回説明しましたが,基本的にこの物語と歌詞の一致は意図されたものです.
もう1つは,そのように理解しないと,先ほど引用した次の台詞が理解できないことです.
この台詞には,貴樹が渡せなかった手紙に執着していたことが読み取れます.手紙を渡していれば,2人の関係が今とは違っていた可能性を考えていた節があります.
これは翻って,あの手紙が気持ちを伝える最後のチャンスだったからということであり,あれ以降の文通で気持ちを伝えることはなかったということです.言葉できちんと伝えなかったことを,このときの貴樹は後悔していた(念のため,この後悔は本解説で課題とするそれとは異なり,それ以前のものになります).
(2)明里が欲しかった言葉
話を戻します.ようやくここで積み残していた,「あなたはきっと大丈夫」に対する貴樹の後悔に取り組みます.
先ほど彼は,手紙を渡そうが渡せまいが2人の結果は変わらないことになんとなく気づいていました.ここまでくればあと一歩です.
まずは,明里の手紙にはあって,貴樹の手紙にはなかったもの.それは相手を心配する言葉,励ます言葉です.明里が貴樹を案じる一方で,彼は自分のことだけでした(前回扱った「明里との約束」).
もっとも,別れ際に貴樹がかけた言葉「手紙書くよ!」は,彼なりに明里を案じた言葉でした.しかし,ここにすれ違いがありました.彼女の心境を貴樹は掬いきれなかったため,彼は後悔しているのです.
その明里の気持ちを考える材料は,先ほど触れてきた,明里はすでに一人立ちすることを決意していたこと.しかし,別れ際の駅で明里があまり大丈夫じゃなさそうに見えること.そして彼女の手紙です.
「ちょっと自信がない」といってはいますが,前回の水野理紗に対する貴樹の後悔を思い出すなら(「すこし辛いんです」),そんなわけはないのです.彼女がとてつもなく不安だったことに私たちは気づかなければなりません.そう,明里の本当の心境とは,貴樹のいないこれからへの不安でした.
これが2人のすれ違いになります.そしてこのことを考えれば,彼女が欲しかった言葉とは,筆者には次の言葉しか思い浮かびません.
「あなたはきっと大丈夫」
明里こそ,この言葉が欲しかったのです.我々のような第三者視点を持たない貴樹ですから,そのことに気づけなくても仕方ないでしょう.
少し話を遡ると,もしかしたら先ほど彼が2人の終わりを確信してもいたという事実は,ここに関係するのかもしれません.つまり,終わりを知っていたはずなのに,そうではない言葉を明里に送ってしまった,というように彼の後悔を理解することにつながります.彼の後悔に気づくきっかけとなる事実として挟まれたのかもしれません.
いずれにせよ,気づいたときには,涙と嗚咽が止まらない15年後の新宿の夜でした.
8.また会えたこと
(1)明里に根拠はあったのか
さて,話は変わります.「あなたはきっと大丈夫」という言葉を送った明里でしたが,その後の貴樹はちっとも大丈夫ではなさそうです.もしかして,言葉にすると実現しないパターンなのでしょうか.
しかし,ここで思い出したいことがあります.それは先ほどの触れた,小学生のときクラスの黒板に2人の名前が書かれ,からかわれたシーンです.あのとき,後から教室に来た貴樹が黒板の前で立ちすくむ明里の手を掴み,教室を飛び出しました.明里にとって救いだったはずです.
彼女にとっては,今でもあのときの頼もしい貴樹なのでしょう.これまで彼の不器用な側面を眺めてきたのですが,彼なら大丈夫と思ったことについては,彼女なりの根拠があったとここでは考えたいです.
(2)「生きる速さ」
では,大人の貴樹に戻ります.映画だと彼女と別れ,仕事も辞めていますが,実は大丈夫になりつつあることが分かります.
小説によると,会社を辞めた後,3ヶ月してフリーランスSEとして仕事に復帰します(181頁).映画だと,自宅で何やら作業をしているカットが実はそれです.
ここでキャッチコピーを取り上げたいと思います.
作品の何を表現しているのでしょうか.2つあるように思えます.
1つは,「生きる速さ」ということ.そしてそれが彼と明里とで異なること.例えば,それは2人がそれぞれ一人立ちする時点の違いや,貴樹が彼女と別れる一方で明里は結婚,というかたちで本編では表現されています.
このスピードに着目した場合,タイトルの秒速5センチメートルというのは,桜の落ちる速さだけではなく,貴樹の「生きる速さ」でもあったことが分かります.これについて監督の気になる言葉があるので紹介します.
この話の雰囲気から察するに,秒速5センチメートルであっても,ちょっとずつ前に進んでいるんだ,というメッセージが込められているように思います.
(3)きっともう大丈夫
続いて,キャッチコピーに込められたもう1つの内容です.「どれほどの速さで生きれば,きみにまた会えるのか」における「きみ」とは当然,明里のことです.そして明里との再会に意味がもたされていますが,どういうことでしょう.
映画も小説もラストは例の踏切です.踏切で電車が通り過ぎた後に彼女の姿がないことと,前に進む貴樹の表情が明るいことの2つが注目されますが,ここでは2人が再会したこと自体に注目します.
というのも,明里がいないことと貴樹の表情を理解する鍵となるのが,2人の再会だからです.もっとも,人によっては再会というよりただすれ違っただけですが.
唐突でしたが気が済んだところで,小説には次のようにあります.
再会は奇跡だった.そこで次の問いが立ちます.なぜ奇跡は起きたのか,つまり,どうして貴樹は明里に再び会うことができたのか.
ここにキャッチコピーの「生きる速さ」が関係してきます.つまり,再会は貴樹が明里に追いついたことを意味するのです.
すなわち,明里がくれた「あなたはきっと大丈夫」に込められた思いやりと,同時にそこにあった彼女の不安に,貴樹は後悔というかたちではあるものの,ようやく辿り着いたということ.
ここに来るまで15年かかったわけですが(秒速5センチ),ずっと避けてきた過去を受け止めることのできた貴樹は"きっともう大丈夫".だから明里はそこにいないのだし,彼の表情は明るいのです.ここの明里も「あなたはきっと大丈夫」としての明里なのです(前編参照).
9.終わりに
解説は以上になります.この後編では貴樹の後悔について,また本作がハッピーエンド——監督の言葉らしいですが——である理由について考えてみました.解説と銘打っていますが,取り上げたのはあくまで作品のごく一部分に過ぎないことを指摘しておきたいです.気になった方には,ぜひ小説を手に取っていただきたいです.きっと他にも新しい気づきが得られるはずです.
あらためて思うことは,この作品,映画は1時間程度で,小説は文庫で180ページほどでこの濃密さということ.そして,小説を読まないと監督の意図はおそらくほぼ分からないということ.他の新海作品も同様だとしたらなかなかおそろしいなと思いますが,どうなんでしょう.
それではそれでは,最後までお読みいただきありがとうございました.
画像:©Makoto Shinkai / CoMix Wave Films
※追記(2024/4/7,2024/4/12)
「5.渡せなかった」①手紙のことを告げなかったこと,②文通を継続したことに関する説明を変更.「9.終わりに」の感想に内容追加
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