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かっこいい文章って必要ですか?

noteで記事の執筆を始めてから、約1週間。

まだ自分の文体が定まっていないなと感じる。


これは私の癖なのだが、0か100かで物事を考えてしまう。

他の記事と文体を合わせなきゃ。

文字数は、前の記事は1000文字くらいだったから、今回もそのくらいの方がいいのかな。

よりわかりやすく伝えるために、科学的な根拠とか参考文献について書かなきゃいけないのかな。

あげるとキリがないのだが、本当に私は、自分の揚げ足取りの天才だと思う。

私は、stand.fmというラジオアプリで音声配信を約4年している。
ラジオでは、まるで仲の良い友達に話しかけるように自然体で表現することができる。

しかし、文章を書こうとすると、まるで口うるさい上司の前でプレゼンをする時のように一気に緊張してしまうのだ。

この言葉の表現は正しいのかな。
もっと根拠を出した方がいいのかな。
こんなことを言ったら、きっと後で突っ込まれるだろうな、、というふうに。

まるで、画面の横で、もう一人の自分が、文章をきちんと書けているか見張っているかのような感覚になる。

嫌になるなぁ、と思うと同時に、そのくらいいつも自分のことを見ているのだな、と感心したりもする。


ここ数日、noteに毎日触れるようになってから、他の人の記事も読むようになった。

そこで、私は気づく。

最後まで読める記事と、最後まで読めない記事があるのだ。

テーマが難しいからではなく、その文章の書き方で、私は最後まで読むかどうかを決めている。


私が最後まで読めない文章は、難しい言葉や言い回しが多い。

反対に、最後まで読めてしまう文章は、まるで筆者が話しかけてきているようなラフな文章が特徴だ。

これは、どちらかが優れていて、どちらかが劣っていると言うことではない。

単純に好みの問題なのだ。


私は、自分の文章を、かっこよくーーーいや、「格好良く」しようと考えていた。


他の人に突っ込まれないように、科学的な根拠やら、かっこいい言い回しやらを考えたりして、より格好良い文章を書こうとした。

そうしたら、口うるさい上司のようなもう一人の自分も、文句を言わないだろうと思ったからだ。



でも、私がこの記事を読んで欲しいのは、口うるさい上司ではなく、「私」のような人。

私は生産的な話がしたいのではなく、ただ、ちょっと考えを話したいだけなのだ。

暮らしの合間に、息抜きのように、ちょっと友達とお話しするかのように、この記事を読んで欲しいのだ。


生産的な話なんて、最初から要らなかった。

私は、会社の資料を作っているのではないのだ。

私は、ただ貴方と、この世界の小さな秘密について話したいのだ。

もっとラフに、もっと自然体で。

肩の力が入ってしまうような関係性よりも、ふっと力を抜いて自然と笑いが出たりするようなそんな関係をここでつくっていこう。

無理しない私たちが、一番かっこいいのだ。

ね、そう思わない?


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