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黄色い家 川上未映子 感想

この小説のどこがおもしろかったのだろう、と考えて、帯の宣伝文句をダシにしてみようと思った。

孤独な少女の闘いを圧倒的スピード感と緻密な筆であぶり出すノンストップ・ノワール小説!

うん。圧倒的スピード感というのは後半のカード詐欺に着手してからは確かにそう感じたけれど、小説のちょうど半分くらいにあたる第7章「一家団欒」までは、物語の時間経過がゆったりしていると感じた。それはまるで花という主人公の植物の成長を見るかのような、ひとつひとつの歩みに寄り添う読書体験だった。

それぞれのエピソードは文句なしに面白いが、流れとしてみるとアソビがあって、きちきちに箱に詰め込まれていない感じがして、でもそれが心地よかった。その心地よさは、黄美子と花の関係性が違和感なく擬似家族の核として収まっていたことにもよるのだろう。

「れもん」が全焼して物語が別のフェイズに移る。闇社会との繋がりを持ち、犯罪の実行役としてデビューする花。でもこれがノワールかなぁというと、ちょっと違う気がする。花は「闇堕ち」したようには見えず、蘭や桃子も引き込んだチームで動くようになってからも、魂を売ったという感じではなく、人には言えない稼業=家業を一生懸命こなしているだけ、に見える。ノワールを担っているのは映水とヴィヴであり、彼らの生涯もまた十分に魅力的な物語たりうるのだが、小説はその全容を見せることはしない。

人はなぜ、金に狂い、罪を犯すのか

金に狂うというと、なんとなくわかったようなわからないような紋切り型のイメージがある。黄美子と蘭、桃子は、居間でテレビを見て笑っているという場面がよく出てくるが、ヴィヴによると「まぬけなお友達」である彼女らのそのような態度からは、これといって生きる目的がないという人物像を想像させる。では花はどうかというと、金を貯める動機はその都度持っているものの、それをいざ遣うという場面がないままに、誰かに奪われてしまうということの繰り返しだ。これも広義には「金に狂う」とは言えるだろうが、本質は別にあるような気がする。

それは、そもそも社会の中で生きること、という問いと繋がっているのかもしれない。自分の持つ生命力、若さとか健康といったものと同じように、金を稼ぐ手段というものも常に意識して維持しておかなければならないもの、という認識が、花にはあるのではないのだろうか。金が、貨幣ではなく、人と人の間に流れる血液のような、何かしらのエネルギーのようなイメージが垣間見えてくる。

花は社会の中でどう生きてきたのか。この小説の物語は、魅力的な登場人物たちと関わってきた数年間を描いている。その象徴が「黄色い家」であり、黄美子はアイコン的な人物として特別な地位を占めている。

黄美子は花の母と友人で、映水や琴美とも昔からの付き合いがあるという、主要キャラクターと花を繋ぐ役割をしている。しかしその友人関係はどの程度に強固なものなのかは測りきれず、ヴィヴからは「仕事ができない人間」と評価されている。その生活能力の低さを理解する手がかりとなるのが映水のこの発言だ。

「父親はまえに死んでるし、身寄りもないからそのあとは施設みたいなとこを転々として育ったって。まあ珍しいことじゃないけど、どんな暮らしだったかは想像つくよな。食うもんがないとか普通だからな。それに、黄美子はあれもあるし、相当酷いめに遭ったはずだよ」
(中略)
いや、黄美子のあの感じがあるだろ。お前も一緒に住んでてわかると思うけど、感じがあるだろ、黄美子はちょっと」(中略)
「できないことも、いろいろあるだろ」「でも、たんなる性格っていうんでもない、黄美子はそういうやつなんだよ。いただろ、むかし学校とかにも。水商売とか闇とかそういう場所には、そういう黄美子みたいなやつがたくさん流れてくんだよ。(後略)」

219ページ

黄美子の活躍の場は少なく、主体的に人生を切り開いていくような人物ではない。彼女は時代に翻弄される側であり、社会に利用される立場であり、この作品において主役たり得ないキャラクターである一方、花を視点人物にすることによって読者にとり忘れがたく強く記憶に残る存在になっている。

彼女は、アイコンとしてこの作品の主題を象徴している。それはなにか。花から見た社会、というか世界、の象徴ではないだろうか。

私は、この作品は、「個人から社会を見た物語」だと思った。その逆、つまり「社会の中の個人を描いた物語」というのもある。この二つは、どこに語りの起点を置くかという違いであり、それがいわゆる「芥川賞」と「直木賞」の違いだと考えた。

いずれにしても、現代文学において社会を緻密に描くことは必須であり、それは普遍的でシンプルな物語だけでは現代を描ききれなくなってきたことからくる要請であるのだろう。

『黄色い家』も、著者ならではの切り口で社会を描いており、それが非常に魅力的だと思った。でも読後感は純文学ならではの文学性をしみじみと感じさせるものだった。


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