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苦くて甘くて香ばしい

長く東京で暮らしているけれど、私にとって「渋谷で乗り換えないと行けない場所」は「行くのがちょっと億劫な場所」だった。

元同期が三軒茶屋でコーヒーの自家焙煎のお店をやっているというのは、今も会社にいる別の同期から聞いて知っていた。「渋谷から乗り換えないと行けない」その店をなかなか訪ねる機会がなかったが、その時に教えてもらった彼の店のInstagramをフォローした。プロフィールには、ニカラグアに農園を所有し、常時50種類以上のコーヒー豆を店内で焙煎し販売していると書いてある。この地にお店をオープンしてかれこれ15年ほどになるようだった。
普段は農園の様子やコーヒー豆の写真の真面目な投稿がメインのいわゆる店の公式アカウントだが、矢沢永吉のコンサートツアーが始まるやいなや、突如として白スーツでバッチバチに正装した彼の各会場での自撮りが投稿されまくる。それが面白くて、矢沢に疎い私は彼の投稿を見て「あ、今ツアー中か」というふうに、矢沢の動向も彼越しに把握していた。

私たちが新卒で入社したのはアパレルメーカーだったので、同期は皆ファッションの好きな、どちらかと言うとおしゃれで軟派な男子が多かった。その中で彼は異様に目立った。アメフト部だったという彼は五分刈りくらいの坊主頭で体格もイカつくて、その雰囲気は芸人のクロちゃんから高音と狡猾さをガサッと切り落とし、代わりに筋肉と漢気を上乗せしたような男だった。
本人の希望もあり、彼は研修後に地方の営業所に配属された。しかしそこで上司に恵まれなかったとしか言いようのない理不尽な扱いを受け、ほどなくして退職してしまった。思い返すと東京の本社に配属された私が彼と接したのは入社後のたった半年ほどだったことになる。

三軒茶屋に来たのは、先日自費出版した自分の本を置いてもらいたい書店がこの街にあったからだった。
私も元営業職だが、飛び込みで自分の(つまり無名の)書いたものを買って欲しい、と店頭で切り出すのはとても勇気が要る。返事は急がないので一度読んでみて欲しい、と震えそうな声で見本の一冊を預けてきた。
もし良い返事がもらえなかったとしても、それはお店の客層や品揃えとマッチしなかっただけだと思うしかないのだが、それでもやはり「こういう素敵なお店に置いてもらいたい」というこちらの思いが強ければ強いほど、断られた時や何のリアクションも返って来ない時の落ち込みは大きい。良い返事が聞けますように、と願いながら店を後にした。

その足で、駅を挟んで反対側の商店街にある彼の店に向かった。さっきとはまた違う緊張感がこみ上げる。
お店は15時開店と少し始まるのがゆっくりで私の方が先に着いてしまい、店の前の道で少し待った。彼だと思われる男性が現れ入口の鍵を開けるのを見て近づくと、懐かしいちょっとぶっきらぼうに聞こえる声で
「すいません、今開けます」
と言われた。私はすかさず、
「◯◯君、わかる?同期だったアイです。近くに用事があったからコーヒーを買いに来たよ」
と話しかけた。言い終わらないうちに彼は2秒ほど私の顔を見て、
「おおー!!わかる!わかるよ!アフロみたいなぶっ飛んだ髪型だったよな、なんだよなんだよ懐かしいな、入ってよ!」
とまだ暗い店内に入れてくれた。確かにあの頃くるんくるんのパーマをかけていたが、アフロにしたことはない。
棚にはガラス瓶に入ったコーヒー豆がずらりと並び、反対側の壁の足元にはローストされていない生の豆が袋に入ったまま所狭しと置かれていた。店内は良い感じにすすけていて、壁や棚板の隅々にまでコーヒーの香りが染み込んでいる気がした。ここで彼は約15年、一人でお店を切り盛りしてきたんだと思うと妙に感動した。会社を辞めた後、どういう経緯でコーヒーに辿り着いたかをざっくり30秒くらいで聞かせてもらったが、なにせ連絡を取り合うことがないまま25年以上が経っている。もうお互いに「色々あったが今どうにか元気でやっている」としか言いようがないのだった。

「今日三軒茶屋に来たのは、実は先日自腹で本を作ったんだけど、それを売り込みたい本屋さんが駅の向こう側にあったからなんだ。まだ置いてもらえるかわからないけど」
そう話すと彼はとても驚いて
「えーすごいな!俺にも買わせてくれよ、読むよ、いくらだ?」
と食い気味にリアクションをしてくれた。少し余分にバッグに入れてきていた一冊を渡して
「今日は私もコーヒーを買いに来たんだよ、どれがいいかな」
と尋ねた。
「この辺は珍しい味、この段はオーソドックスな味」
とこれまた非常に大雑把に説明されて、全くコーヒーに詳しくない私は名前の第一印象だけを頼りに、珍しいコーナーから一つ、オーソドックスな棚から一つ、豆を選んで挽いてもらった。
お前が良ければこの本と物々交換にしよう、と彼は言って、絶対にコーヒーの方が高いのにお金を受け取ろうとしなかった。

渋谷まで歩いて帰ると言う私に、彼はこんなのなら書いてくれない方がマシだわ、と笑ってしまうような大雑把すぎる地図を書いてくれた。
「ありがとう。来て良かった。また買いにくるね」
と言って店の前の道まで見送りに出てくれた彼に手を振った。何度振り返ってもずっといるので、恥ずかしいなと思いながらそのたびに大きく手を振った。歩くにつれ強い夕陽の逆光で途中からほとんど何も見えなくなったが、彼がまだそこに立っていそうな気がして、夕陽に向かって何度も手を振り続けていたらなんだか泣けてきた。

バーボンとチョコレート。
大人になるのも悪くないな、と思うことが最近多い。





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