オレたちは水

比喩じゃなく,人間は水だと最近根っから思う。

その視点で人を眺めたときに、清らかな水である人、濁らきった水である人、そういうのがよく分かる。そして、これらの間には優劣や良し悪しはなく、ただそうである、ということ。

対立概念で2つを評価して捉えようとする必要はなく、ただ清らかな人がいる、ただ濁った人がいる、それだけでいい。オレたちはすぐに物事を評価したがるがそんなの要らない。

さて、人間は水だと言ったが、清らかな水である人は、いつも淡々としていてメンタルも安定している。言葉や所作にも気品があるし、大丈夫だ、というオーラを放っている。これはスピリチュアルな話ではない。オレはオーラなんか見えないし、ただそういう雰囲気を感じるということ。

一方で濁っている人は、ストレスやフラストレーションまみれで話せば愚痴や下世話な噂話ばかり。所作も粗雑さが目立つように感じる。

自分とは、川のようなものだと思う。

そよそよと水を流し続けることで、濁ったり澱んだりすることを避けられる。水を流すとは、日々の行動に置き換えていうなら、さまざまに自分を楽しませるようなことを淡々と行うこと。趣味でも仕事でもいい。自分が気持ち良いことを淡々とやり続ける。自分を動かし続けることだ。

自分で自分を気持ちよくするために、動かし続けることが、川を流し続けることであり、気持ちよいこととは清らかな水のことだ。通い水を流し続けることで、川の衛生は保たれる。

これが、おかしなことになるのは、濁った水が増えたり、流れを止めたりするから。

濁った水とはストレスになるようなことを自分にさせすぎたり、苦手な人種と関わったり、汚い言葉だったり、そういうもの。また、流れを止めるとは、何も能動的な行動を起こさずに、じっとダラダラスマホいじってたりして過ごすようなことだ。

とにかく、濁った水に触れないことは大切だが、もし自分の川に濁った水が時として入り込んだとしても、流し続けておけば濁りは取れていく。濁りを放置して流さないままだと、どんどん濁るし流れない水はそのうち腐って異臭を放つ。

人間とは、このようなものだと根っから思う。比喩ではなくオレたちは水である。さて、今の自分はどんな水だろうか?

清く流れることができてるか?それとも、濁って腐りかけているのか。

あ〜、金麦飲みてぇなぁ