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ノーベル文学賞ゴールズワージーの傑作『林檎の樹』~階級社会が引き起こす恋愛と価値観の葛藤~

まえがき

この物語は、ギリシャ悲劇のように、運命に翻弄される階級社会の恋愛や人間性を描いたゴールズワージーの傑作です。

ジョン・ゴールズワージーは、1932年にノーベル文学賞を受賞したイギリスの作家です。彼の短編小説『林檎の樹』は、1916年に発表された名作です。この物語の舞台は、イングランド南西部のデヴォンシャー(現デヴォン州)にあるダートムーアとトーキーという二つの場所です。荒野が広がるダートムーアは、内陸部の自然豊かな地域で、田舎育ちの少女ミーガンは、そこの農場で暮らしています。南部の海岸線に沿ったトーキーは、富裕層や有名人も訪れる華やかなリゾート地で、都会から来た少女ステラは兄弟と一緒に、そこのホテルに滞在しています。物語の重要な背景となっているこの地域では、自然と文化が対立したり融合したりしています。

イギリスには主にイングランド人、スコットランド人、ウェールズ人、北アイルランド出身者の4つの民族が住んでいます。また、古くからこの地に住んでいるケルト系原住民族なども住んでいます。これらの人々はそれぞれに言語や方言やアクセントが異なり、独自の伝統や文化を守っています。そしてそれぞれが強いアイデンティティーを持っています。この小説では、こうした言語や文化の違いが、物語の登場人物の人間関係にも影響を及ぼしています。

小説が発表された1916年当時のイギリスでは、特にイングランドで階級意識が強く存在していました。その影響で、イングランドの人々は、生まれや血筋、教育、言葉の違いや服装などで階級にこだわり、他の階級との交流を避けたり批判したりする傾向がありました。そのため、結婚も同じ階級内で行われることが多かったのです。

あらすじ

銀婚式を迎えたアシャーストは、妻ステラとともにデヴォンシャーの海岸沿いに小旅行に出かけます。車で走っていると、彼らはダートムーアの荒野に近づきました。偶然小高い丘に立ち寄った彼は、そこから見える十字路や美しい風景を見て、その景色が見覚えがあることに気づきます。そして彼は、生涯忘れられない過去を思い出します。

二十六年前の春、大学を卒業したアシャーストは、友人ガートンと徒歩旅行の途中に膝を痛めてしまい、ガートンと別れて近くの農場に泊まり療養することになります。療養中のアシャーストは、その農場で暮らす田舎育ちの少女ミーガンの純真で美しい魅力に惹かれていきます。ミーガンもまた、都会から来た彼に恋心を抱くようになります。そしてある日、二人は果樹園の大きな林檎の樹の下で結婚の約束をします。

膝の痛みが治ったアシャーストは、ミーガンに、結婚の準備が整ったらすぐに戻ってくると約束し、トーキーという海岸沿いの町へ出かけます。ミーガンに衣服を買おうと探し歩いている途中で彼は偶然友人ハリデイと会い、ハリデイの妹ステラと知り合います。彼はミーガンとの約束を思い出しますが、ステラたちとトーキーで楽しく過ごすうちに、一日、また一日と、農場に戻る日を先延ばししてしまいます。そしてついに彼は、ミーガン宛てに書いた手紙を破り捨てて農場へ戻らないことを決めてしまいます。

翌年の春に、アシャーストはステラと結婚します。

偶然立ち寄った小高い丘のその場所が、ミーガンと過ごした思い出の地だと気づいたアシャーストは、懐かしさから十字路の小道を下って農場へ向かいます。美しい自然や農場や果樹園の大きな林檎の樹まで、そこはすべて二十六年前のまま変わらずに残っていることに驚き、埋もれ果てた古い記憶に思いを沈めます。

小道を戻って十字路へ引き返したとき、年老いた農夫に出会います。農夫は道ばたの小さな芝草の盛り土に腰を下ろし、アシャーストに、この地の昔の物語を語りはじめます。

解説

著者ゴールズワージーは、イングランドのブルジョア階級の一家の物語を描いた『フォーサイト家物語』(原題『The Forsyte Saga』)で、階級社会における富裕層が、自分たちの利益や安全を守るために、物質主義や功利主義に陥り、人間的な感情や美意識を失っていく様子を厳しく批判しています。そして、その物語の中で、自分や他人の階級や財産や地位にこだわる人々と、階級や財産や地位にこだわらず心や魂にこだわる人々との間で起こる価値観の対立や葛藤を描き出し、「真の善意」(本当に良い心)をもった人間像を提示することで、社会問題に対して批判的な視点と建設的な提案を行っています。『林檎の樹』もまた、ゴールズワージーが階級社会における恋愛や人間性を鋭く描いた小説です。

『林檎の樹』の物語は、大学を卒業したアシャーストが友人と徒歩旅行中に膝を痛めたため近くの農場に泊まって療養することから始まります。療養中にアシャーストは、その農場で暮らす田舎育ちの少女ミーガンの純真で美しい魅力に心惹かれていきます。ミーガンもまた、都会から来た彼に恋心を抱くようになります。そしてある日、二人は果樹園の大きな林檎の樹の下で結婚を約束します。しかし、彼がミーガンに抱いた感情は本当の愛ではありませんでした。彼は無意識のうちに上流階級意識が働き、荒野地帯の田舎で暮らす労働者階級のミーガンを救済するかのような哀れみや、まるで「白馬の王子様」にも似た騎士的な感情を持ちました。それは自分の優越感やプライドや心の隙間を埋めるためのものだったのです。一方、美しい自然の中で純真に生きてきたミーガンは、そのことさえ気づかず、生涯でただ一人アシャーストを恋人として愛していたことは確かです。彼女は、都会へ行ったまま戻らないアシャーストを忘れることができず、彼をずっと待ち続けました。

この物語には、エウリピデスのギリシャ悲劇『ヒッポリュトス』から「黄金なる林檎の樹/美しく流るる歌姫のこえ」(マーレイ訳)が引用されており、『ヒッポリュトス』のパイドラとヒッポリュトスの不幸な恋、そして『林檎の樹』のアシャーストとミーガンの報われない恋を対比しています。

『ヒッポリュトス』では、パイドラは情欲を掻き立てる女神アプロディーテの策略によってヒッポリュトスに恋心を抱いてしまいますが、周囲に知られることを恐れる禁断の恋に苦しみ、葛藤と恥と夫への恐れに駆られて自ら命を断ちます。一方、『林檎の樹』では、アシャーストは、ミーガンに惹かれて彼女に恋をしますが、自分と彼女の階級や暮らしの違いによって心が揺れ動き、最終的には自ら彼女を裏切る結末を招きます。このように、ゴールズワージーは、小説の中で『ヒッポリュトス』を対比させることで、上流階級の人々が持つ冷酷性や残虐性を読者に突き付け、その結末の違いを強く印象づけています。

この結末を暗示する表現は、ゴールズワージーが物語の冒頭で引用した『ヒッポリュトス』の歌「黄金なる林檎の樹/美しく流るる歌姫のこえ/金色に輝く林檎の実」から、「金色に輝く林檎の実」を意図的に取り除いていることにあります。これによって、林檎の樹の下で結婚を約束した彼らの恋が、花だけが咲いて果実が実らない、つまり「理想郷」には到達できないことが示されています。

感想

小説の中で最も印象的だったのは、アシャーストがステラたちと一緒に四輪馬車でピクニックに出かけたときのことです。彼は都会の人ごみの中で、自分を捜してさまよっているミーガンを見つけます。彼は馬車から飛び降りて彼女のもとへ駆け寄ろうとしますが、途中で思い悩み、ついには声をかけることもできずに、ステラの元に戻ってしまいます。この場面で私は悲しみや怒りや同情などのさまざまな感情に包まれ、胸が苦しくなりました。

この小説は、時代を超えて人々に響くテーマやメッセージに満ちています。ストーリーは切なくて胸が苦しいものですが、その中に散りばめられた自然の風景や人物の感情を、繊細で感動的に表現したこの作品は、読者の心に深く刻まれる一冊です。

参考文献

ジョン・ゴールズワージー「林檎の樹」渡辺万里訳、新潮文庫、1953年

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