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小説「ゾンビハンター香里奈のゾンビ鉈」【試し読み】

こちらは、5月21日に開催された『文学フリマ東京』で弊サークル「ウユニのツチブタ」にて初頒布した小説「ゾンビハンター香里奈のゾンビ鉈」の冒頭部分試し読みです。


作品あらすじ


「ゾンビと人間はわかりあえるってやつ。ばかだよね。無理に決まってるじゃん」

表の仕事をしつつゾンビハンターとしても働く香里奈は、ひょんなことから自身をストーカーしていたクソ男をバッサリとやってしまう。ゾンビと人間しか切ることのできない武器•ゾンビ鉈で、後者を殺すのは御法度。『処分』の対象だった。
窮地に追い込まれた香里奈。が、そこへゾンビ研究者、専業ゾンビハンターの友人ふたりが手を差し伸べてくる。死体を安全に、確実に隠蔽するため、三人は車でとある山奥に存在するという死体処理場へ向かうが……?

自分、他人、人間、ゾンビ、死霊術師。様々な存在が行き交うこの世で、結ばれねじれかじられ断ち切られていく、感情と関係性と視点、それにまつわる危うさやままならなさの話。

ご購入

文学フリマでのイベント頒布、渋谷ヒカリエ八階「渋谷〇〇書店」内の「ウユニのツチブタ書店」棚での購入、大滝のぐれのBASE(通販サイト)で購入できます。通販は会員登録不要です。


ゾンビハンター香里奈のゾンビ鉈•表紙
ゾンビハンター香里奈のゾンビ鉈•裏表紙

ゾンビハンター香里奈のゾンビ鉈 試し読み本編


 
 
   ●
 
 男がコンビニでホットスナックを選んでいる。しばし迷ったのち、彼はフライドチキンをひとつ、とレジに立つアルバイトに告げた。派遣や単発の仕事で日銭を稼ぎ生活をやり過ごしている彼にとって、牛肉コロッケや春巻き以外のものを選ぶことはなかなかない。というか、ありえないことだった。
 が、ねみぃーだりーと思いながらホットスナックのケースを開けるアルバイトは、もちろんその事情を知らない。チキンを取り出し、彼女は慣れた手つきでミシン目の入った包装紙にそれを入れていく。あれ、なんかこの客臭くね? その過程で彼女がそう思ったことは、男にはもちろん伝わらない。

 ありがとうございましたー。軽い声とつくろった笑みに見送られながら、彼は店を後にする。半年前から通り続け、もうすっかり歩き慣れた道を進みながらフライドチキンの包装を破り、そこに収まったきつね色のそれにかぶりつく。脂と塩気がじゅわりと口内にあふれ、男は幸せな気分になる。食道を通って胃に落ちていくそれが溶けて全身に広がり、活力に変わっていくのを感じる。勝利。これは勝利の味だ。曲がり角を抜け目的の背中を見つけた彼は、残りのチキンを無理やり飲み込んでそれに近づいていく。今日こそ。今日こそいける。肉の脂の余韻を舌で転がし、彼女の背後に立ったところであわてて口をぬぐいながら、彼は口を開く。
 
「あ、あのお、み、みず、水崎、か、香里奈さん、だよね。覚えて、るかな。僕のこと」
 
 震える声に振り返った香里奈の目に、妙に口まわりがてかてかとしている男の姿が映る。面識はない。いや、男のほうにだけは一方的にある。半年前、スーパーのレジ待ちの列に並んでいたとき、取り落とした財布をたまたま拾ってもらったのだ。

 あ、財布、落としましたよ。自分へ向けられた、久方ぶりの優しさ。そんなやわらかでまぶしい光を受け、彼はすっかり舞い上がってしまった。小学生のとき、親の仕事の都合で彼女が隣に転勤してきたこと。引っ込み思案で周りになじめず、隅のほうでちぢこまってばかりの彼女を、みんなの輪に入れてあげたこと。ある雨の日、駄菓子を食べながら公園の土管で雨宿りをしたこと。部活の先輩が好きなことを打ち明けられ、涙を飲んで背中を押したこと。失恋しさめざめと泣く彼女を、震える腕で抱きしめたこと。財布を差し出されそれを受け取るまでのほんの数秒の間に、男の頭は大量の存在しない記憶を作り出した。
 じゃあ、私はこれで。だが、香里奈と男に何年にも渡る濃密な関係などあるわけがない。野菜ジュースや豚バラ肉が入ったかごを手に、足早に彼女は去っていく。待って、どうしてそんな他人みたいな顔をするんだ。僕。僕だよ。僕じゃないか。ばかげた考えであると頭ではわかっていた。が、一瞬で生まれた彼女との思い出たちは、ただの妄想と断ずるにはあまりにも重みと実感をともないすぎていた。だから、彼は本気で香里奈の態度に悲しみ、ひどく傷ついた。会計が終わるころには涙すら流れそうになっていた。

 もう、僕の人生がこれ以上輝くことなんてないのかもしれない。そう思いながら、買ったものをレジ袋に詰め、店を出ようとする。ポイントカードを作りませんか、という壁に貼られた案内をなんとはなしに眺めてから、袋を握り直してスーパーの出口のほうを向く。
 そこに、どこかへ行ったはずのあの女性、香里奈の背中があった。急に立ち止まったために靴と床がこすれ、きゅっという甲高い音が鳴る。近くにいた別の女性とその配偶者らしき男性が、すこしだけ目を細めて彼を見た。慌ててかたわらにあったポイントカードの案内チラシを一枚引き抜きズボンのポケットにねじ込み、その場で無意味にくるりと回ってから男は彼女の姿を横目で追い始める。買うものが少なかったためか、先に会計がすんでいたらしい。彼の存在に気づいた様子はなく、いびつな楕円にふくらんだパンダ柄のエコバックを手に、携帯をいじりながら出口へ向かっている。その背中に色濃く乗ったさみしさと孤独を彼は幻視する。実際にはそんなことはまったくなかった。メッセージアプリで『誰か』と次の週末の予定を決めている最中で、むしろ彼女は幸せの絶頂にあった。が、そんな事情を知らない、読み取れる段階にすら立っていない男はその後を追ってしまう。初夏の暑さがふきだまった、放課後の教室。そこで泣いていた彼女を抱きしめたときに感じた、底知れぬほど冷たく、さみしい気配。あのときと、同じだ。存在しないはずの記憶と思い込みが、男の心拍数を早めていく。僕。僕がいるじゃないか。僕ならきっと、彼女を。

 自動ドアが開き、わずかに街路樹のにおいをはらんだ風が吹き抜けた。それを感じながら、男は目の前を歩く香里奈との関係を継続することを決断した。家路につく彼女のあとをつけるという、最悪な方法で。

 そんないきさつを知らない当の香里奈は、恐怖であいまいに笑うのが精いっぱいだった。覚えているもなにも、半年前にした小さな親切のことなど記憶すらしていない。それを勝手にふくらませて意味不明な妄想に身を焦がしてしまうような男のことなどなおさらだ。誰ですか。警察呼びますよ。その言葉を何度も言おうと彼女はこころみる。が、口も喉もまったく動いてくれない。これは『本業』とは違います。自制してください。こういった目にあったときのために準備していた、自分の中の心がけの言葉が頭をよぎる。でも、考えておく必要はなかったかもしれない。そういう余裕を持てるような気分にはまったくなれなかった。
 いつからかずっと点滅したままの街灯の光。隣家の敷地からアパートにまで垂れ下がってきている庭木の枝。それが作り出す暗がり。視界に入るそれらの要素が、ただ立ち尽くす香里奈の心にいっそう濃い影をおとしていく。はるか昔、防犯教室といった触れ込みで学校に来た警察官が流してきた啓発ビデオ。今まで読んだり観たりした小説や漫画や映画。それら創作物の『そういった』シーン。そこに映し出されたり描写されていたりした光景が、絶え間なく彼女の脳裏をかすめては消えていく。マスクの下の笑みをそのままに後ずさると、男も似た表情を見せながらそのぶんだけ距離を詰めてきた。マスクをしていないため、頬や口まわりのひげの剃り残しが目立つ。がさがさとしたその皮膚がゆっくりと盛り上がり、よりいっそう濃い笑みが顔に浮かぶ過程が、鮮明に目に入る。

 話しかけたあとの行動は特に計画していなかったらしい。笑った顔のまま視線をあちらこちらへ飛ばしつつ、彼は胸の前で両手の指をこすりあわせていた。誰か通ってくれないかなと香里奈は思ったが、日が暮れて橙色に染まりだした辺りはとても静かだった。夜に外へ出るとたまに見る猫やハクビシンといった生きものも、とうぜん見当たらない。ここらへんは駅から離れていて大きいお店もありませんし、落ち着いて過ごせると思いますよ。引っ越しのときの不動産屋の言葉が頭をよぎる。たしかに、静かだね。香里奈は肩をすくめる。

 じりじりとした膠着状態が続いたのち、先に動き出したのは香里奈のほうだった。薄暗いアパートの廊下へ足を踏み出し、こつこつとローファーの底でコンクリートを鳴らす。無視して家に入り、黙って鍵をかけて警察に通報。その後の展開を頭の中でシミュレーションしながら、彼女は自分の部屋を目指した。
「え、あ、あのぉ、ま、まって」
 震えた声と不規則な足音が追いかけてくる。が、彼女は振り返らない。本当に、本当に最悪だ。なんでこっちが怯えなくてはならないのか。逃げなくてはならないのか。錆の浮いた鉄の階段をのぼりながら、香里奈は怒りに胸を焦がす。郵便受けが開けられた形跡があったり家のドアの前に誰かが立つ瞬間があったりすることには、わりと前から気づいていた。しかし、『本業』のこともあるせいで油断し、今の今までほったらかしにしてしまっていた。こんなことになるなら、警察なり友人なりなんなりに相談でもしておけばよかった。
 そこまで考えて、香里奈は駅のほうや大通りに歩んでいかなかったことを後悔した。このままいけば、彼に自分の家はここですよと教えることになってしまう。もちろん、帰宅途中の香里奈の前にあらわれるなんてことをするのだから前々から知ってはいるのだろうが、相手に完璧に調べられて正解を出されるのと、自分からその情報にお墨付きを与えてしまうのとでは、結果に天と地ほどの差がある。今からでも引き返したほうがいいのかもしれない。ところどころが色あせたコートとひざや裾が擦り切れたチノパンを身にまとった彼のことをちらりと見やる。かなり痩せているし、運動や格闘技といったものの経験もなさそうに見える。力強さはまったく感じない。その気になれば、生身でも問題なく打倒できるような気がした。香里奈は状況を打破する算段を立てる。『本業』の経験もあり、それはとてもうまくいく。が、想像を巡らせるだけでそれは終わってしまった。やはり、どうしても体が動かない。いくら勝てそうと頭で思っても、その行動を実行に移せない。怖い。恐ろしい。ふだんあまり抱くことのない感情に、香里奈はとまどっていた。

 最後の段をまたぎ、彼女は階段をのぼりきる。ドアノブにビニール傘のかけられた自分の部屋が、やけに遠くに見えた。二階の、階段からいちばん遠い角部屋。とにかく静かに暮らしたいと思っていた香里奈が立地と共に選択した要素だったが、こんなことになるのだったら選ばないほうがよかったかもしれない。いや、なんでそんなことのためにこちらが妥協しなくてはならないのか。しぼみかけていた怒りが、香里奈の中でふたたび勢いを強める。
「香里奈さん、まって、まってくださいよお」
 背後から沼のような湿度の高い声が聞こえる。おいも、おいも、おいもっ。石焼き芋のトラックの間の抜けた売り文句もどこからか聞こえる。両方に殺意といらだちを覚えているうちに、香里奈は自分の部屋の前にたどりついた。今までの人生においていちばん速いスピードで鍵を抜き差しし、おなじ速さですばやく扉を開ける。シューズボックスにおさめられた靴たちや部屋に置かれた白い丸テーブルなどの見慣れたものや、お気に入りのルームフレグランス、朝ご飯に作ったシュガートーストのかすかな残り香が出迎えてくれるのを感じ、安堵のため息をつく。男の声はもうしない。さすがにあきらめたのだろうか。
 そう思うと張り詰めていたなにかがぷちんと切れたような気がして、香里奈はドアノブから手を離しその場にくずおれた。遅れて噴き出してきた冷や汗をぬぐい、肩にかけていた鞄の中を探り始める。警察。警察に電話しないと。それから友人に連絡し、泊まりにきてもらうことやこちらが彼女たちの家に行ってもいいかということを打診しなくては。今日はひとりではぜったいに眠れない。候補となったふたりの友人の顔を思い浮かべながら香里奈はほほえむ。

 が、悪夢はまだ去っていなかった。彼女の背後で閉まりつつあった扉の動きが、とつぜん止まる。それによって狭まり、細くなり始めていた部屋に差し込む夕陽の光が、じょじょに太さを取り戻していく。携帯のロック解除をしていた香里奈は一拍遅れてそれに気づいた。あわてて後ろを振り返ろうとする。しかし、その動きは目を血走らせながら部屋の中に闖入してきた男によって遮られる。思い切り腕をつかまれ、彼女はむりやり玄関から机の置かれた部屋の中にひきずり込まれる。視線の先で、扉が少しずつ閉まっていく。
「だ、だめだよ香里奈さん。きみ、漫画とかすきなんでしょ。わかるよ知ってるよ、たまに漫画雑誌ゴミに出してるの知ってるよ。でもだめだよ捨てるとなんかあんまり愛が、あ、愛だなんてうふふ、愛がないような好きじゃないような気がするからさぁだから足元をすくわれるんでしょ。心配。心配だな。だめだよ、ドアを完全に閉め切る前にノブから手を離しちゃあ。僕じゃなかったら、こ、ことでしたよ」
 それで敵の侵入を許すようなお話、たくさんあるでしょう。歯や舌から唾液の糸が引く男の口から漂うにおいが香里奈をとらえる。声を出さずこっそりと近づき、力を込めて閉じかけのドアを開き、香里奈におおいかぶさる……。その光景の『香里奈』の部分へ思いつく限りの創作物の登場人物を代入することで、危険性は容易に想像することができた。

 が、もうなにもかもが遅い。香里奈の胸が、後悔で黒く塗りつぶされていく。先ほどのようにいらだちや怒りを覚える余裕はなかった。ハゲでガリでみずぼらしい、陰気で気持ちの悪い男。そのようにしか映っていなかったはずの彼の姿が、今はこの世のありとあらゆる暴力や理不尽を身にまとった獣のように見えた。毛足の長い水色のラグの上で、香里奈は男によって組み伏せられてしまう。目算が誤っていたのか単純に恐怖や混乱のせいで思うように動けないせいなのか、枯れ枝のような腕や足を振り払うことができない。こんな体のどこに、そんな力があるのか。そう感じるほどに、男の体は重く力強かった。男と女の間にある、本質的な肉体のつくりの違い。認めたくなかった、認めてたまるかと思っていた要素が、ここにきて牙をむいてきたのを彼女は感じる。最悪、ほんとうに最悪。恐怖に内心震えながら、ささやかな抵抗を続ける。が、その気持ちとは裏腹に、恐れの感情の度合いはピークを過ぎつつあった。 頭の中で『本業』の光景が今の状況へ重なっていき、思わず涙を流す。だめだ。このままでは。仕事柄、通常の人よりも数段解像度の高い恐怖や、目をおおいたくなるようなむごたらしいできごとを香里奈はたくさん知っていた。だから、この後起こるであろうことの恐ろしさも、手に取るようにわかってしまう。

 涙はただ、そのためだけのものだった。が、男がそれに気づいた様子はない。

「香里奈さん、香里奈さん泣かないでどうして泣くんだい。僕はこんなにも、ずっとずっと香里奈さんのことばかり考えてきたんだよ。半年前のあの日から。いや、転校で僕の隣の家に越してきたときからずっと。派遣でひどい扱いをされても香里奈さんが見てくれていると思って耐えたし大家や隣に住んでる人にあからさまに挨拶を無視されたときだって香里奈さんじゃないからしょうがないと考えて笑顔になったしお金がなくて半額の弁当を買ったときも冷えた米粒やうすいハムカツの間に香里奈さんの姿を思い描いていたし。だから泣かないで、香里奈さん。香里奈さん。泣くのは最後にしようって、あのとき教室で約束したじゃないか」
 妄想まみれの虚言に、香里奈の涙を止める力はない。それどころかその勢いは増しつつあった。大粒のしずくがとめどなくあふれるのを感じながら、香里奈は男の力が疲れからかゆるみつつあるのを逃さなかった。じょじょに体の下から腕を逃がし、部屋の床にはわせていく。仕事に行く前、最後に見た部屋の光景を頭の中でなぞり、今引き倒されている位置の近くに『それ』があることを彼女は認識していた。が、なにがなんでも『それ』を掴んでやろうという気概は香里奈から感じられなかった。むしろ、見つかることをひどく嫌がっているようにさえ見える。
 どうして、どうして泣きやんでくれないんだ。男は最初こそ困惑していたが、心配からくるその気持ちは徐々に怒りへ転化していった。血走りを通り越し真っ赤に染まった彼の瞳に、香里奈の行動と表情、しぐさのわずかな差異は映らない。ただただ、自分の想像と実際の彼女を重ね合わせた際に浮き彫りとなった『異なっている』部分だけに、意識が向いている。

「香里奈さん。だから泣かないで。どうしてやだなんていうんだよ。え、やだ、嫌? は、はあ? 嫌なのはこっちのほうだよおい、なんとか言えおまお前、香里奈。お前のせいで僕はおかしくなったんだよ狂ったんだよ。お前に会ったあのときから。転校してきたとき、じゃない、スーパーで財布を拾ってきやがったときから。もうどうしようもないどうにもならないんだよ、僕はもう自分を自分で制御できないんだよ。お前、ずっとさびしいまんまなんだろ。先輩に振られたあの日からずっと。僕ならそんな思いはさせない。ぜったいにさせないだからなんで嫌なんて言うんだよあんなに、あんなに一緒に時を過ごしたのにどうして避けたり無視したりするんだよ。好き、あ、愛してるんだろ僕のことを。だからそんなことするんだよな先輩とお前は違うよな嫌いだなんてそんなわけないよなふざけるな香里奈、おい香里奈。じらしてるんだよな誘ってるんだよなそうだって言え。そうじゃなかったらなんであのとき背中に腕を回した僕をこばまなかったんだよ嫌ならこばめよむかつくんだよいらないんだよそういうの、女はいつもそうだ香里奈だってそうだいつもいつもそうやっておもちゃみたいに人を扱う。すこし見てくれがいいからって調子に乗るなよ。ごめんね香里奈。欲しい言葉をくれ。ください。なんとか、言えよ」
 興奮によって顔を紅潮させた男が、ふたたび体に力を込めていく。へびのようにうごめいていた香里奈の腕が、ふたたび床へはりつけにされ、動かなくなっていく。

 が、彼女はもう目的をとげていた。ベッドの下にあった『それ』の触り心地を感じながらしながら、目を閉じる。ほほを熱いしずくが伝った。嫌だ、嫌だ。そう繰り返しながら、彼女は自らの体へ覆いかぶさる骨張った腕や足、体温のぬくみ、口や全身から放たれる、腐ったドーナツのような脂っぽく甘臭い体臭、ゆがんだ歯と真っ白な舌によって形作られる、湿り気をおびた聞き取りづらい声などをひとつひとつ意識していく。そうしていると、余計に涙があふれてきた。愛着や情などからくるものではない。むしろ嫌悪感と憎悪しかないのに、香里奈は自分でも不思議なほどに泣き続けていた。このどうしようもないストーカーハゲデブ男だって、自分と同じ人間としての魂と血、肉や骨を持っている。それは尊重するべきものであるはずだった。が、このままというわけにはいかない。男のことを尊重すれば、自分の身に危険が及ぶ。取り返しのつかないことになってしまうかもしれない。でも、男だって命で、損なわれてはいけないもののはずで……。
 答えは出ない。が、迷っている暇はなかった。思いつく限りの大切な人の顔を思い浮かべると、少しだけ力がわいてきた。手元に握りこんだ『それ』を、香里奈は力強く握りしめる。冷凍庫から出したばかりの凍った肉をそのまま触ったときのような冷たさと、画鋲や押しピンが満載されたケースにあやまって指をいれてしまったときのような痛みが、同時に指先へと広がる。それに構わずさらに力をこめると、ぶよぶよだったそれはたしかな硬質さをまとっていった。飽きるほど繰り返し触れ、もうすっかり慣れてしまったその感触をたしかめ、香里奈は目を開く。そこに、迷いと恐怖はもうなかった。
 せめて、見届けるくらいはしなくてはならない。お腹に力を込め、腹筋運動の要領で彼女は体を起こそうとする。慌てて男も体重をかけ直すが、それは彼女の『本業』、すなわちゾンビハンター業で培った肉体の前には塵よりも軽いものだった。跳ね飛ばされた男が、ベッドのフレームにしたたかに体をぶつける。おい、何だよそれ。血走っていた男の目が、急に冷静さを取り戻す。ほうけた顔で、彼は自分の頬に触れる。

 が、もうなにもかもが遅かった。完全に体を起こした香里奈の手元へ向けられた彼の目が、ゆっくりと天井のほうへと向いていく。菜切り包丁にぼろ布と豚バラ肉が絡みついたような見た目をした刃。ゾンビ鉈が、玄関から漏れてくる明かりを受けてきらめく。

(続きは本編にて)



ゾンビ、人間、死霊術師、私、他人などによる、関係性と自分や他人を見ること、言うこと言わないことなどの危うさやままならなさを描いた小説です。

たくさんの人へ届くといいなと思っています。よろしくお願いします。

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