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カレーで世界と繋がる人

天皇家に毎年おせち料理を献上し続けている名家の御曹司なのに、人生がジェットコースター。ただ素直に生きているだけなのにジェットコースター。そんな人ごくたまにいらしゃいますが、お話を伺った保芦ヒロスケさんはリアルにそんな方です。カレーに取り憑かれて気がついたら世界と繋がった。ミヤンマーのクーデターで大きく転回した保芦さんのカレー人生。とくとお楽しみ下さい。


オンキ: 今日はどんなお話、しましょうか? 
 
保芦:そうですね、逆に投げかけていただいた方が
 
オンキ:じゃあ、今の保芦さんのこと、聞いてみましょうか。
 
保芦:今っていうと。僕にとっての今っていうのは、たった今の瞬間じゃなくて2月1日まで戻りますね。一昨年の2月8日にミャンマーに着いて。行く前に2週間だけ日本に帰ってたんですけども。なので、それを抜くと1年半ミャンマーにいて。(2021年の)2月1日にクーデターに遭って、そこから大きく自分っていうものが変わったと思うので。このクーデターに巻き込まれる前と巻き込まれた後とでは、ずいぶん違った自分になったというふうに感じています。

 
クーデターが起きるまでの僕っていうのは、常に、僕はミャンマーが好きで、カレーが好きでっていう。”I love curry, I love Myanmar.” って呪文のように言い続けてますけど
 
オンキ:はい
 
保芦: 僕、今51歳なんですけども。クーデターが起きる前にですね僕がミャンマーに、すみません、話が少し前後しちゃいますけれども、一昨年の1月に日本にいたときには、ちょうど日本でもコロナに対する恐怖っていうのが、だんだん一般の人の中でも話に上るようになってきて僕、そのとき、浅草のっていうカレーそばのうまい店にいたんですよ。
 
オンキ:働いてたんですか? 
 
保芦:いやいや、カレーそばを食べてたんですよ。そしたらテレビで、ワイドショーで豪華客船(ダイヤモンド・プリンセス号)の中で大勢の人が集団感染して。
 
オンキ:はいはい
 
保芦:あれを機に、日本の中でも「やばいぞ」っていう。
缶詰のカレーをミャンマーで作って、ミャンマーで販売していくっていうのが、僕のゴールの1つだった、夢の1つだったんで。まだ、それをやり遂げる過程だったんですけど。そんなことする日本人ってね、僕しかいないと思ってたんですよ
 
オンキ:うん
 
保芦:それがね、もう話してもいいと思うんですけど。当時は秘密にしてたんですけど、「神田カレーグランプリ」ってやってるじゃないですか。日乃屋って知らないですか? 
 
オンキ:神田駅前ですよね。
 
保芦:そうそう。日乃屋さんもね、ミャンマーに進出するっていう話が耳に入ったんですよ。しかも、もうね僕と同じカレーの缶詰を、既にサンプルも作り終わってて。
 
オンキ:お! 
 
保芦:もうすぐ4千個、5千個を作って販売を始めるっていう話が耳に入ったんです。僕の帰国中に。みんなコロナにビビってるし、僕もビビってたんだけど。特にミャンマーに行くときは、僕の母親も大反対で「死んだらどうすんだ!」っていう
 
オンキ:(笑)
 
保芦:母親も、周りの人たちみんながそうでしたよ。今、ミャンマーに行くなんて自殺行為だって言われてね。なんだけど、そんな自殺行為だって言われるようなことをね、日乃屋みたいな企業の人たちはするわけないと。
 
オンキ:うん
 
保芦:僕は個人で、1人でやってるんで。だったら、これはもうチャンスだろうと思って。それで、大げさじゃなくて本当にね、カレー(の缶詰を)完成できれば、もう死んでもいいと思ったんですよ。
そういう意気込みで、僕はミャンマーに行ってカレー作ってたんですけど。でも、ミャンマーでもコロナが蔓延し始めて、1回目のロックダウンを受けて、それからこもり始めるんですけど。前の自分っていうのはね、最近、復活してきちゃって怖いんですけど、超大食いなんですよね。
それでね、1人で部屋にこもって、これまでの食生活続けてたら豚になるだろうと思って、本当に
 
オンキ:(笑)
 
保芦:それで僕、筋トレしよう、筋トレしようっていうのも、もう何年間もね「明日からー」なんて言ってたのが。何年もずるずるきて、コロナで引きこもるわけだし
 
オンキ:うんうん
 
保芦:で、あと1か月後には50歳になるっていうところで。それで本気で思い切って僕、筋トレを始めたんですよ。それから食生活もね、ダイエット始めようっていうよりも、まず筋トレして体を改造したいっていう気持ちが強かったんで
 
オンキ:はい
 
保芦:それでおのずとね、食べ物も変えようっていうことになって。選ぶ食べ物が変わったり。それから筋トレ始めて早起きになったりっていう。そこで自分自身が変わった気がしました。
 
オンキ:そうでしょうね
 
保芦:体が変わると、なんだかだんだん中身も変わってくるのか
 
オンキ:早起きって、本当に人を変えますよね
 
保芦:そうですよね。僕もミャンマーだと。本当、ミャンマー人、ビビってましたよ。僕ね、毎晩必ずクラブに行って、もう毎晩お酒飲んで、毎晩パーティしてたんで、コロナの前までは。
 
オンキ:うん
 
保芦:で、ミャンマーの音楽って、なんだろうな、ほぼほぼEDM。僕はEDMも好きなんですけど、でもEDMの流行りものばっかりかける。あんまり。僕はなんか音楽以上に、ミャンマー人の仲間たちと一緒にいることを「楽しい」としていたんで。
 
オンキ:うん
 
保芦:あとは、ミャンマーでレストランやろうとか、今回は缶詰のカレーでしたけど。若い人やなんかをターゲットにした食べ物っていうものについて、リサーチも兼ねて遊んでるとか言ったらね、言い訳になっちゃうんですけど。でも、本当にそうなんですよ。本当にミャンマーで遊んでる子たちのナイトライフ、どうなんだろうとか。食生活、どうなんだろうとか。酒は何を飲んでんだろうとか、いろいろなそういった、もろもろ含めて。リサーチとか言いながらも、毎晩そうやってね、遊んで。やっぱり(クラブへ)行くと僕、じっと飲んでる方じゃなくて、フロアで踊ってる方なんで
 
オンキ:はい
 
保芦:それがねーやっぱり最高の運動になってたんですけど
 
オンキ:そうですよね
 
保芦:まあ、部屋にこもってしまうとなかなか。
 
オンキ:そんな身体改造の話のちょうど1年後ぐらいのとこで、クーデターが起きたんですか? 
 
保芦:そうですね。筋トレ始めて(一昨年の)5月から8か月後ですね
 

ミヤンマーとの出会い


オンキ:ちょっとバックして。紀伊国屋 (現:株式会社紀文食品)の御曹司であられるところの保芦さんが、どうしてカレーにのめり込んだんですか? 
 
保芦:そうですね。まあ、カレーが好きで、ミャンマーが好きでって言ってるんですけど。もう少し振り返って、そのきっかけっていうか。カレー好きな人ってね、もともと大勢いると思うんですけど、そんな中で、僕は今から10年前のミャンマーへ初めて行ったんですね。それが民主化される選挙の直前だったんですよ。僕は当時タイにいて。タイにね、3か月以上いられないじゃないですか。
 
オンキ:はい
 
保芦:で、南正人さんってご存知ですか? 
 
オンキ:知ってますよ。お亡くなりになる前に、代々木の駅前でライブ見ましたよ
 
保芦:あ、わかります? 
 
オンキ:ほとんど、なんか放浪の、世捨て人のようでしたよ、南さん
 
保芦:そうですよね。ナミさん(南正人さん)と3か月間、タイにいたんですよ
 
オンキ:まじで? 

 
保芦:それで、ビザが切れるんで「ちょっとビザラン(Visa Run)行ってきます」っていう感じで、大体みんなラオス行ったりとか。それで、僕はミャンマーへ行ったんですけれども
 
オンキ:うん
 
保芦:それが、友人で『チベットチベット』っていう映画作ったキム・スンヨンっていう在日3世の監督がいて、彼が大親友なのと。あと、昔「フリーチベット」のムーブメントがあったときに
 
オンキ:はいはい
 
保芦:それで、大々的に「フリーチベット」のイベントをやらせてもらってっていうか。そうしてるうちに、昨日が命日、15年目になりましたけども、記者の長井さん(長井健司)がミャンマーで殺されて。今と同じ状態ですよね、軍に銃殺されて。その「フリーチベット」の活動してるときの僕には、そのニュースが衝撃的で。
 
オンキ:うん
 
保芦:また、ミャンマーのお坊さんたちが托鉢。普段は鉢を持ってる、その鉢を逆さまにして上に掲げてる。それは抗議の
 
オンキ:それが印なんですね
 
保芦:はい。で、その映像に衝撃を受けて。チベットメインでやってたんですけど、ただ、そのときにミャンマーのことも知って。少しミャンマーのことも始めたんですけれども、そんなに僕の中では盛り上がらなかったんです。ただちょっと、そういった縁はあったんですけども。それで、ビザランに僕はミャンマーを選んで。
 
オンキ:うん
 
保芦:その『チベットチベット』のタロウ(キム・スンヨン)くんが、バックパッカーで方々へ行ってるんですけども。その彼がね、「ミャンマーほど異国を感じる国はなかったよ」って言ってた言葉が、すごく印象的で。
 
オンキ:うん
 
保芦:そんなに外国感のあるとこ、あー行ってみたいなと思って。で、ミャンマーに到着してみると、タイの隣なのに、もういろんなことが、経済的だったり発展遅れていて。カルチャーショックを受けました。僕、アメリカで生活したりとか、アフリカ行ったり、割と方々行ってる方なんですけど。でも「あ、本当だ。彼の言う通りだな」と思って。だって、行く先々で「外国人が来た」って騒がれたことなんてないですよ! アフリカではちょこっとあリましたけど、行く先々でカメラ向けるとね、スパイじゃないかとか、そんなふうに思われたりとかね。
で、当時は、今のチベットのようにアウンサンスーチーさんの写真やなんか持ってると、逮捕されてしまうような、そういう状態から。スーチーさんが軟禁状態から解放されて、町中には本当に至る所にスーチーさんのポスターとかTシャツとか、グッズが売られていて
 
オンキ:うん
 
保芦:もう本当に、町中がもう熱気に、ものすごいエネルギーに満ち溢れてたんですよ。これから自由になるんだ、民主化されるんだっていうそんな空気を、僕は生まれて今までに感じたことがなかったんで。
ものすごく強く惹かれて。だったんですけど、食べ物が合わなかったんですね、全然
 
オンキ:あら
 
保芦:ミャンマー料理、うまくねえなっていう
 
オンキ:何食っても? 
 
保芦:大体もう油っぽくって食べれなくて。
 
オンキ:ふーん
 
保芦:ビリヤニと、あとはおなか壊さないものを食べてたんですけど。
行ったら長くいるかななんて思ってたんですが、3月3日が南正人、ナミさんの誕生日だったんですよ。うわ、明日ナミさんの誕生日だと思って、それで僕はタイに一度戻って。そのあと交通事故でえらい目に遭ったりしたんですけど
 
オンキ:あー
 
保芦:バイク、ノーヘルで転倒ですよ。それで、またタイで1か月以上過ごして。またそのあと、(ミャンマーの)選挙の行方を自分の目で見たかったので、ミャンマーに戻ったんです。それからですね、ミャンマーで恋をしたり
 
オンキ:恋をしたり? 
 
保芦:そうですね、それでまた恋が実らなくて、傷心してお寺に入ってしまったりとか。そのとき初めて、ミャンマーに長く、1ヶ月いて。いろんなものを見て、それでどっぷりはまったんです。居心地として最もいい国かどうかってのは、当時はまだまだ。宿泊代とかもね、高いんですよ、ミャンマーは
 
オンキ:ふーん
 
保芦:タイなんかは観光で成り立ってる国なんだけど、ミャンマーはまだ国が開いたばっかりで。安宿って言ったって。タイみたいに豪勢なところには泊まれないんで。なので、一番安い、最安でも10ドルだと、天井に頭が付いちゃうような部屋とか、そんなとこで過ごしてて
 
オンキ:うん
 
保芦:でも、なんかその国の熱気だったり。あと、失恋もしたけど、その国の女の子の家庭、すごく貧しい子だったんですけど、スラムだったんですけど。そこの家の様子だったりだとか、いろんなミャンマーっていうものを感じて
 
オンキ:うん
 
保芦:もう頭から離れなくなっちゃって。僕、日本に帰ってきて。帰る日に、僕、飛行場へ向かうときに、物を全部、盗まれちゃったんですよ。バックパックから財布からパスポートから。無一文っていうか、ポケットに入ってる小銭とデジカメしかなくて。当時、iPadで写真撮ってて、写真を失くしたのが一番辛かったですね
 
オンキ:なるほど
 
保芦:またエキストラとして1週間ミャンマーにいられることになったんですけど。人からお金借りながら
 
オンキ:いられる方法を見つけたと。いなきゃ出られないっていうか。
 
保芦:はい。で、帰国してから、またミャンマーに帰るっていっても、借金作って帰ってきて無一文だし。それで、プールで監視員だとか、小学生に水泳の指導のアルバイトをしたんですけど全然、金が貯まんないんですよ。でね、ミャンマーに戻るんだって言いながら何年も経ったんですけど。6年経ったんですけど、その間に僕ね、ミャンマーのカレーの話なんですけど
 
オンキ:はい
 
保芦:日本にいながら、すごく意地になってて。ミャンマーに俺は帰るんだって。だから、食生活は日本食なんか食ってられるかみたいな気持ちが強くなっちゃって。あんまり意味がないんですけどね。で、レシピ本もないし、それまで自分で、なんとなく自炊したことはあるけど、本格的に料理したこともなかったんですけど。でも、ミャンマー料理を自分で作って、ミャンマー料理を食べながら俺は生活するんだなんて思って。それで、初めは何でも油っぽければいいんだろうと思って、油でベトベトのチャーハン作ったり。
やってるうちに、僕はもともと辛い物が好きなんで
 
オンキ:うん
 
保芦:それで辛くしていって。それで、たまに外食する中でカレー食べてるうちに。何をきっかけにか、僕、好きな物できると、それだけになっちゃうんですよ。それで、気づいたらっていうか、5年間ちょっとなのかな。1日3食、もう3食から5食、全食カレーしか食べてない生活が始まって。太りましたね
 
オンキ:なるほどね
 
保芦:ぶくぶくになりましたね。で、一昔前だと、小学生とか若い子たちが憧れの職業って、DJとか美容師さんとか、最近だとプログラマーとかね
 
オンキ:ユーチューバー
 
保芦:うん。そんなノリで、僕、当時もう既に42歳とかだったんですけど、将来はカレー屋になりたいなと思って(笑)憧れの職業になっちゃって。カレー屋さん、格好いいなってなっちゃったんですよ、カレーシェフ達が。なんだけど、僕はミャンマーにいずれ住みたいし。自分では飲食業もやってきてたんで、飲食業って、やっぱりお店離れられないじゃないですか
 
オンキ:はい
 
保芦:接客や何か、僕は好きだけど。でも毎日ってね、大変だし。それでどうしようって思って。それで、あっ! レトルトのカレーを作ろうっていう。まだミャンマーで誰もやってないなっていう
 
オンキ:うん
 
保芦:ミャンマーのことをカレーを通して知ってほしいっていうのと。あと、ミャンマーにもカレーがあるっていうことを知ってほしいっていう、その気持ちから始めました
 
オンキ:「こういうのがあるんだぞ!」っていうやつですね
 
保芦:そうですね
 
オンキ:ミャンマーは存在感ないですもんね、日本ではまだまだ
 
保芦:今、格好いいようなこと言っちゃいましたけど。それと別に、僕、普段、すぐカレー屋さんとかで仲良くなるんで。業界のこととかちょっとずつ見えてくると、インドカレーには自分の入る隙がないなって思いました。で、ミャンマー、俺、いけるぞって。ミャンマー、誰もやってないぞって。だから、そういうところもありますよ
 
オンキ:ニッチっていうか、隙間産業というか、ブルーオーシャンっていうか、ここから入っていけるっていうやつですね? 
 
保芦:そうですね。でも、その分ハードルは高いと思いました。だけど、誰もやってないことだから一番になれるっていう
 
オンキ:なるほど
 
保芦:だから、ミャンマーで作ってる缶詰も同じことです。誰も日本人でやってないからやってやろうと思ったら、日乃屋がやってるって聞いて慌てました(笑)
 
オンキ:でも、誰もやってないことで一番になってやろうって思った人って、大概いい感じになりますよね。それで本当の失敗して、それで挫折して終わってしまうっていう人の話、聞いたことないですよ
 
保芦:あっ、そうですか
 
オンキ:うん。ここは初めてだ誰もやってない、だからここで一番になれるって、もう見つけたところで半分勝負に勝ってるような感じしますけどね。
 
保芦:あと、やっぱりすごくラッキーも付いて回ったんですけど。ただ、一番にやることっていうのはね、一番にやった人間っていうのは。例えばレトルトのカレーだったら、ボンカレーがあって、もうボンカレーが王様じゃないですか
 
オンキ:そうですね、今でも王様ですね。
 
保芦:ミャンマーカレーって誰もやってないし、一番にやった人間がそのスタンダートを作るんだから。もう自分がルールっていうか、自分が王様になれるぞっていう、それがありました。だから、僕がやっぱり一番最初にこだわるのは、誰もやってないことでパイオニアになるっていうのは、その時点で、もう自分がキングだぞっていう
 
オンキ:うん
 
保芦:だから、そのスタンダードを作ってしまった人間が、やっぱり強いと思うんで
 
オンキ:なるほど
 
保芦:だから、僕のミャンマーのカレーは、ミャンマーの味からずいぶん離れてるんですけど。日本のマーケットで売れなきゃと思って作ったんで
 
オンキ:うんうん
 
保芦:だけれども、誰もやってないから、だからそのスタンダードを作るんだから、一番に作った人間が名付ければいいんだっていうね、そういう考えもあります
 
オンキ:もう「ヒロスケカレー」ですね
 
保芦:いやいやいやいや、やっぱりそこはミャンマーにつなぎたいんで「ミャンマーカレー」


オンキ:「チェッターヒン」ってどういう意味なんですか? 
 
保芦:「チェッター」が鶏で、「ヒン」が煮込みだとかいう意味、カレーですね
 
オンキ:鶏煮込みなんだ
 
保芦:うん、チキンカレー。それで、ポークだと豚=ワッターなんで、「ワッターヒン」って言ったり。
 
オンキ:「ワッターヒン!」
 
保芦:はい。そんなでいろいろ。向こうだとカエルもカレーにするんで、カエルはパーなんで「パーヒン」だとか。何々ヒンっていう感じです。
 
オンキ:ふーん。基本は煮込み料理なんですね
 
保芦:そうですね。とは言っても、インドのカレーとは違いますけれども。ドライなタイプのものもあったりさまざまです。ただ、ミャンマーは135以上と言われてる他民族国家なんで。だからやっぱり、その民族ごとに違った味わいが、僕は確認してるわけじゃないですよ、1つずつあるわけじゃないし。僕が特にリサーチしているのがビルマ族。一番メジャーなとこですね。一番多くの人口がいるビルマ人のカレーっていうのは、大方すごく油っぽいって言われてます、実際に油っぽいです
 
オンキ:なるほど
 
保芦:僕は、特にビルマカレーやってます
 
オンキ:135いる人たちは、自分の文化や食生活とは違う他の民族の方々と隣接してるし、他の人の食とかカレーとか「じゃあ僕も今日はこれを食べてみよう」とか試してみようとか、そういうことはあるんですか? 
 
保芦:そうですね。特にヤンゴンなんかの都市にいると、さまざまな民族の人が暮らしてるので。また、宗教的にもミャンマーは90%以上が仏教徒といわれてますけど、ヤンゴンにいるとイスラム教徒の方も多いし、キリスト教徒の方も多いし
 
オンキ:じゃあ、タブーとされる食の材料だとか、ハラルしないといけないとか。やっぱりそういうことも複雑に絡んでくるんじゃないですか? 
 
保芦:ミャンマーの寺に入ったことが2回あるんですけども。一昨年は特に、僕はミャンマーの寺の厨房に入って年末を過ごしてたんですけど。仏教寺院では食べ物のタブーがないです。
 
オンキ:ない? 
 
保芦:そうなんですよ。本当はね、みんな瞑想しに行くんですけど。僕はうまいものが食べたいと思うと、お寺に入るのはいいなと思ってます
 
オンキ:一番タブーがないから? 
 
保芦:本当ですよ。丸テーブルで5~6人で囲んで、僕がいたお寺なんかだと、カレーが10種類以上並んで腹いっぱい食べてくださいって。基本的に1日2食で、朝食は軽く朝の5時とかそんな時間で。それで2食目は午前10時とかなんで、その時間に腹いっぱい食べる感じですね。もうカレーがザーッと並びます。
 
オンキ:午前10時に食べて、そのあとは何も食べないんですか? 
 
保芦:そうですね。僕、隠し持って。カップ麺とか食うのはね、自分でも雰囲気を大切にしたいんで。ひまわりの種、あるじゃないですか。あれをこっそり部屋で食べるようにしてて。あれだと、どうしてもガツガツ食べれないんですよ。だから、まあまあ隠れて食べるのに、これぐらいだったらいいだろうって(笑)
 
オンキ:それ、生活としてはリスですよね? 
 
保芦:そうですね(笑)
 

引きこもりと喧嘩とジェームスブラウン


オンキ:ではミャンマーでカレーに出会う前の保芦さんってどんなだったか、聞いてみてもいいですか? 
 
保芦:カレーに出会う前ですか? 
 
オンキ:だって保芦さん、僧侶でいらっしゃいますよね? 
 
保芦:はい
 
オンキ:そこまでの小さいときから、世界を旅し、そして僧侶でもあり、そして飲食業もやられるっていうと。いったいどこに山と谷と川が流れてたのか、まだよく見えないんです。そこを伺ってもいいですか? 
 
保芦:うちの実家っていうのは、普通にお寺にお墓があって、そこにご先祖様をお参りに行くような仏教。日本だと「うちは仏教徒です」とか、なんかよくわかんないですけど。でもね、普通にお寺だとか仏事を大切にしている家庭なんですけど。ただ、日本て不思議ですよね。でも両親は僕のことをキリスト教会系の幼稚園に入れて、小学校。僕、中学はいろいろあって5年行っちゃったんですけど
 
オンキ:ん? 
 
保芦:ずっとキリスト教教育だったもんですから。なんかそれが、キリスト教的な教えが自分の中には、自分が意識してなくてもあるんじゃないかなと思ってます。すごく思い出深いのは、僕が小学校2年ぐらいのときですね、マザー・テレサが来日したときですよ。マザー・テレサが僕の行ってた小学校に来てくれて握手したんです。当然、どんな方かっていうのは僕、小学生ながらに知ってたんで。人を助けてる、すごく尊敬するべき人だっていう。やっぱりキリスト教の人を助けるっていうそういった教えが、自分の中にはまだ残ってるんだと思います。
 
オンキ:うん
 
保芦:その後、アメリカで16歳から転々としてたんですけれども。そしたら、向こうで僕、ひきこもりになっちゃったりだとか
 
オンキ:そうなんですか? 
 
保芦:最初のうちは、中学のとき。ちょうど先週、1週間ぐらい前に中学のときの仲間たち10人くらいと会ったんですけど。自分じゃ覚えてないんですけど、呆れるんですけど、とにかく僕、けんかしに学校へ行ってるっていうか、人殴るのが日課みたいになってるんですよ
 
オンキ:そうなんだ
 
保芦:なんかね、けんかが大好きで。最初は普通、アメリカへ行くからって英会話とか行くじゃないですか。アメリカへ行く前も、ちょっと空手とかやってたんですけど、アメリカだったらボクシングやっといた方がいいかなとか。最初からけんかするぞっていう気で行って。で、転校生だったんで、転校生ってね、だいたいいじめられるもんだと思ってたから、転校した初日にクラスメート1人、ボコボコにして。そうしたら、みんなに「おう、よくやった、よくやった」みたいな。日本から、なかなか
 
オンキ:手強いのが来たと
 
保芦:(笑)そうなんですよ。向こうでもね、最初の1年ぐらいは。1年経ってないですね、人のことボコボコにしてたんですけど。それがね、向こうで僕、そのころパンクロック大好きだったんですよ
 
オンキ:はいはい
 
保芦:そしたら、音楽の趣味合う仲間が見つかって。パンクって言っても、長髪のね、1つか1つ年上なんですけど。そいつがベジタリアンだったんですよ
 
オンキ:うん! 
 
保芦:それで、音楽の趣味合うし、ベジタリアンって俺もちょっとやってみようかなと思って。ベジタリアン始めてからけんかする気が起きなくなって
 
オンキ:ハハハ! 
 
保芦:だんだん気持ちが弱くなってきちゃって(笑)
 
オンキ:やっぱり肉と攻撃性っていうのは、リンクしてるんですかね? 
 
保芦:モロしてますね
 
オンキ:モロしてますか? 
 
保芦:してますね。音楽も変わりますね
 
オンキ:なるほど
 
保芦:聞く音楽も変わりますね
 
オンキ:食うもんによってね
 
保芦:音楽も、肉食のときはリズム主体なんですけど、菜食のときっていうのは、もっとメロディから。長ーいクラシックだとかも、じっくり集中して聞いたりできますね
 
オンキ:なるほど
 
保芦:なんですけど、それから僕はだんだんと、人一倍、本読むようになっちゃって。それでどんどんどんどん家にこもっちゃって
 
オンキ:うん
 
保芦:だから僕ね、アメリカに5年もいたのに、あんまりしゃべれないんですよ。当時、もう本当に数えられるくらいしか友人がいなくてね。友人たちといても、ボーッとして音楽聞いてるぐらいなんで。だから、恥ずかしいんですよ
 
オンキ:別に恥ずかしくはないですけど、珍しいとは思いますね
 
保芦:何校か行ってるんですよ。全寮制の学校だったのに、登校拒否とかで出席日数足りなくなるとか(笑)
 
オンキ:意味わかんないわ。寮と学校、隣り合ってるじゃん!みたいな
 
保芦:そうなんですよ(笑)
 
オンキ:けんかしまくって、野菜食って、ひきこもりになって出席日数足らなくなって。そのときに生きづらいとか、俺はどうなんだとか。自分を責めるとか、俺の存在どうなんだとか、考えました? 
 
保芦:なんかね、考えまくりましたね
 
オンキ:考えまくりましたか
 
保芦:うん、考えまくりましたねー
 
オンキ:考えまくりましたかー
 
保芦:それが、ジェームス・ブラウンですよ
 
オンキ:なんだと! 
 
保芦:21歳かな。『ブルース・ブラザース』、子どものときはを見てたんですよ
 
オンキ:はい
 
保芦:見て、なんだこいつはと。で、僕、当時JB(ジェームス・ブラウン)まだわからなかったんで、とりあえずCD屋に走って。一番新しいやつが、今みんなあんまり評価しない「アイム・リアル」(フルフォースがプロデュース)。フルフォースが バックやってるやつ。
 
オンキ:あれ、いいじゃないですか! 
 
保芦:でも、あんまり評価されてないじゃないですか
 
オンキ:まあね。あれだけ全部デジタルの音だとね
 

 
保芦:で、あれの一番ラストの曲、もうshakeだけの曲。あれで僕はね、それまでルー・リード とかトム・ウェイツ とかね。あと僕、ノイズとかカレント73とかナースリーズボンド(?)とかを、ニック・ケイヴとかをね、もう部屋にこもってね
 
オンキ:ニック・ケイヴも聞いてたんですね
 
保芦:聞いてましたよ。もう体動かして踊ってる奴って、何それ? みたいな感じで
 
オンキ:あー
 
保芦:なんですけど。それがJB聞いて、もうバッカーンですよ。本当にもう
 
オンキ:バッカーンですか? 
 
保芦:何やってたんだ俺はと。すごくシャイな部分もまだあったんですけど、殻を破って毎晩クラブに行くと。そっから変わりましたね(笑)
 
オンキ:JBが救世主だったんだ
 
保芦:本当にそうですね。本当にJBが救世主です。本当に、本当にそうです。僕、ライブ1回だけ見てますね
 
オンキ:僕、ライブは5回見ましたね
 
保芦:2回見た!最後がチャック・ベリーと一緒のやつだったんですよ、公演。
 
オンキ:それ見てないや! 
 
保芦:有楽町の国際フォーラムかなんかで僕、生のJB、2回しか見てないですけど。何年目かのフジロックで、ブーツィー(ブーツィー・コリンズ) がヘビーロックで、JBがいないんだけど。ライブやったとき、あのブーツィーがね、星形じゃなくて普通のサングラスで
 
(脚注:ブーツィー・コリンズはジェームス・ブラウン絶頂期のバンドのベーシスト)

 
オンキ:はい
 
保芦:で、ベースもね星形じゃなくて。で、もう絶対に前に出てこないんですよ。もうJBがそこのステージに、JBはいないんだけど、いるんですよ
 
オンキ:いるんですね
 
保芦:もう素晴らしかったです
 
オンキ:それは胸熱ですね
 
保芦:あれは素晴らしかったです。もう(JBが)いましたよ
 
オンキ:はい。じゃあ、スペースベースでソロを取るんじゃなくて
 
保芦:ないですよ。もうそうですよ
 
オンキ:オリジナルJB’sをやったんですね
 
保芦:そうでした。あれは素晴らしかったです
 
オンキ:それはヤバいですね
 
保芦:ええ
 
オンキ:僕もね、クラシック・ロックからパンクに行って。オルタナティブ行って、ノイズ行ってっていう中で。これ以上行ったら、洞窟の中で、暗闇の中でずっと自分はうずくまってるなってなったときに。80年代ぐらいのいい加減なダンスファンク聞いてパッカーンって開いて、これは何だみたいな感じになって。その時JBに出会ったんですね。
 
保芦:あー
 
オンキ:同じようなもんですね
 
保芦:80年代の、いい加減なダンスファンク? 
 
オンキ:あれ?体が動くぞ、なんで?みたいな
 
保芦:うんうん。いやあ、でもそれくらい僕の人生の中で、大きな大きな存在なんで。マザー・テレサがあって、ガンジーの本だとかもずいぶん読んだりだとか
 
オンキ:なるほど
 

禅とかわいい女の子


 保芦:それから仏教に。お坊さんになるきっかけじゃないですけど、仏教にのめり込むようになったのは、僕はヘルマン・ヘッセです。
 
オンキ:「シッダールタ」読んだんですか?
 
保芦:そうです。そっからなんですよ
 
オンキ:それは衝撃でしたね
 
保芦:衝撃でした。あれで、僕は仏教に興味持つようになったのと
 
オンキ:なるほど


保芦:あと、デトロイトの方へ行ったときに、同じクラスにめっちゃかわいい子がいたんですよ、アメリカ人で
 
オンキ:めっちゃかわいいんですね? 
 
保芦:そうそう。シカゴ出身の白人の子で。僕より背、クラスの中でも特に背が高かったですよ。
僕、ひきこもりだし、恥ずかしくて声掛けらんないし
 
オンキ:ハハハ(笑)うん
 
保芦:なんだけど、その子が本読んでたんですよ。何読んでんのかなと思って、気になるんで見たらブッディズム とか禅とか、なんか仏教書読んでたんですよ
 
オンキ:うんうん
 
保芦:それで、俺、いけんじゃねえかと思って。俺、日本人だぞと
 
オンキ:あ、ここ、取っ掛かりになるぞと
 
保芦:そうです。それから仏教書をいろいろ。でも僕、仏教書っていってもティモシー・リアリー の「サイケデリック・バージョン 」(チベットの死者の書-サイケデリック・バージョン)とか、そっちの方
 
オンキ:大分、スピリチュアル領域入ってますね
 
保芦:それからビートニクの方、ずいぶんね。仏教関係だとゲーリー・スナイダーとか。それから、だんだんだんだん。結局僕はウィリアム・バロウズが好きなんですけど。だから、僕の仏教っていうのは、結構逆輸入的な
 
オンキ:サイケデリックカルチャーの中での仏教ですね? 
 
保芦:そうですね。ただ、一番大きかったのは、やっぱりヘルマンヘッセの「シッダールタ」ですね
 
オンキ:「シッダールタ」すごいですね。あれは僕も衝撃でした。っていうか、清浄な世界と一番俗な汚濁まみれの世界を、行ったり来たりの往復を何度もするじゃないですか「シッダールタ」って。で、最後、川のほとりに行く、またそこに帰って行くっていうのがすごい話だなと思って。
 
保芦:あー。10年以上読んでないんで、また読んでみよう
 
オンキ:僕も20年以上読んでないですよ
 
保芦:それだから、僧侶になろうっていう気持ちはなかったんですけど。でもね、当時ネットとかないし。その子と手紙のやりとり
 
オンキ:いいですね
 
保芦:文通してたんですよ
 
オンキ:文通してたんですね
 
保芦:でも、向こうはね、なんか惚れてんなっていうのはすごく伝わってんですけど、なかなか切り出せずに。それで、僕が20歳のときに一度日本に帰って。もうかっこつけですよ、かっこつけで曹洞宗の、禅宗の寺に入ったんです
 
オンキ:うん
 
保芦:座禅を組んでみようと。1年やってみるかと思って、静岡の三島にある龍澤寺っていう寺に入って。それで、もともとのバンド組んでモテようみたいな感じで。
 
オンキ:坊主になってモテよう? 
 
保芦:そういう気持ちもありました。なんていうか、ちょっと格好いいなって思ってた部分も。格好いいっていうか、本読んでるよりも、実際に入ってやった方がいいんじゃねえかみたいに思って
 
オンキ:行動の季節がやってきたんですね
 
保芦:そうですね。だけど、僕、正座強いんですよ。浄土真宗の僧侶の中でも正座、めっちゃ強いんですけど
 
オンキ:そうなんだ
 
保芦:座禅、あぐらかけなくて
 
オンキ:へえー
 
保芦:足痛くて、僕、3か月で逃げ出しちゃって(笑)
 
オンキ:(笑)結跏趺坐(けっかふざ)も半跏趺坐(はんかふざ)もできなかったんですか? 
 
保芦:できないんですよ、本当ダメなんです。4年間ずっと、レーシングスキー(アルペンスキー)をやってた時期があって。たぶん、そのときに膝をけがしたりだとかしてたから、その影響もあるのかもしれないんですけど
 
オンキ:僕、知人にね、世界の「座る」を研究してる研究家がいるんですけど
 
保芦:はい
 
オンキ:禅っていうのは「寝る禅」「立つ禅」「歩行禅」みたいなの全部あって。「座る禅」だけじゃないってことを紹介したり、考えたりしてる人いますよ。だから座らなきゃいけないってことないはずですよ
 
保芦:そうですね。ミャンマーは1時間座って1時間歩くっていう、その繰り返しですね。歩く禅やってます。僕ね、本気で。カレー作る前ですね、ミャンマーに戻る前。まだカレーのアイデアがなかったとき
 
オンキ:うん
 
保芦:僕は「水中禅」「水泳禅」を広めようと思って
 
オンキ:それもう、浅はかじゃないですか
 
保芦:いやいやいや、真面目に僕、それを毎日やってて
 
オンキ:そうですか
 
保芦:25メートルプールを、息つぎなしで1キロメートル、40回。それを繰り返しながら、泳ぎながら瞑想するっていうのを、なんとか自分がオリジネーターになりたいと思って
 
オンキ:またオリジネーターかい。何でもパイオニアになればいいってもんじゃないっていう気もするけど
 
保芦:でも、それをやってるうちにホームレスになっちゃって(笑)
 
オンキ:展開が極端!展開が「シッダールタ」みたい
 
保芦:いやいや、それで儲けないといけないなと思って、カレー作ることにしました
 
 

幸運とつまづき..からの納得の味へ。


 オンキ:いや、もっときちんとしたビジネスマインドを持って、着々とやってらっしゃるのかと思ったら。山あり谷ありですね
 
保芦:そうですね。なんかカレーも、本当にビジネスマインドっていうか。自分としては、なんだろう、僕のカレーってね、極辛って書いてあるんですけど、めちゃくちゃ辛いんですよ。めちゃくちゃ辛くてミャンマーでっていう、もうかなりマニアックじゃないですか。で、普通だったら最初の1品目、1作目っていうのは極辛とかじゃなくて
 
オンキ:穏やかでマイルドな..
 
保芦:辛口だったりとかね。その辺出すのが普通だったりすると思うんですけど。ただ、僕はこのカレーのマーケットってラーメンのマーケットと同等か、もしくは寿司よりも大きなマーケットなんじゃないかと。
 
オンキ:うん
 
保芦:だから、僕なんかが本当に、でっかいマーケットの5%、20人中1人の人に気に入ってもらえたらいいっていう。それでも十分だろうっていう、そういう思いで作ったんです。あと、本当に僕、業界人じゃなかったんで。ただおいしいものを作りたいっていうんで、僕は、レトルトのカレーっていうものは不味いもんだって決め込んでたんで。おいしいレトルトのカレーを作ろうっていう、それに3年以上費やしたんですけど。そりゃあ、がんばればおいしいもの作れるんですよ
 
オンキ:うん
 
保芦:だけど、原価とか手間暇だとか考えないで、本当に自分のための自分が満足できるカレーを作ったんで。3年前ですね、発売して。まさか発売して2か月後に、マツコ・デラックスさんがテレビの番組で「おいしい」って言ったら、検索キーワードの1位になっちゃって
 
オンキ:うん
 
保芦:成城石井でも、お1人様1品限りとか、えらい騒ぎになって製造が追いつかないとかなったんですけど、売れるほどにね「やった! これで大成功」と思ったんですけど。後からいろんなデパートとかでも売り上げの記録とか作ってんのに、売れるほど赤字になってるっていう(笑)原価のこととか配送費だとかね、全然素人だった
 
オンキ:でも、その暴走もなんか素敵ですよね。そこで痛い目に遭って初めて、いわゆるビジネスコンサルみたいなのが入って、ビジネスとして成り立つように変えていくっていう。最初っからそれを考えて小さくまとまるより、そっちの方が素敵じゃないですか。
 
保芦:いやでも、本当に僕はラッキーなんで。このカレー作ってくれてる会社、工場長も社長も、仲良くなったからとことん付き合ってくれたんですけど
 
オンキ:うん
 
保芦:でもね、口に出さなかったけど、こんなカレー作ったら誰も買わないし。でも僕はもう本当に情熱を持って、1週間に一度以上名古屋まで行って。「社長! 試作やろう」ってやってたんで。今更「やめよう、無理だ」とは言えないじゃないですか、向こうも。
 
オンキ:ハハハ
 
保芦:とにかく1ロットっていったってね、2,600個作ったら、もう満足するだろうと。ちょっと痛い思いして。それがまさかマツコ・デラックスさんがおいしいって言ったから
 
オンキ:もうね全然売れないから、こいつもう諦めるだろうと思ってたら
 
保芦:「たら」ですよ、まさか大量生産。できないんですよ、手間暇かかっちゃうから。
 
オンキ:はいはい
 
保芦:それがやっぱ、売れてからもネックで。
 
オンキ:あー
 
保芦:だから全然
 
オンキ:いいもの、作りすぎたんですね
 
保芦:本当にそう思ってます。なんですけど、それはもう曲げないで、いいものを作り続けていきます。もうすぐ新しいのを3つ販売します
 
オンキ:めげないですね
 
保芦:だから、普通だったら、僕、もうとっくに潰れて消えてるはずなんですけど。もう消えるころだってなると、1年おきにまた他の番組でマツコさんが「おいしい」とか
 
オンキ:ハハハ
 
保芦:日本全国で1位になっちゃったりとか。だって、レトルトカレーで日本一になったりとかね、また潰れてる頃に1位になるから。本当に奇跡の復活が3回も続いて
 
オンキ:マツコさんとは、その後、お会いになったんですか? 
 
保芦:まったく面識ないんですよ
 
オンキ:それ、お会いになった方がいい。
 
保芦:一応、お礼だとかは。でも今はこのコロナ禍で
 
オンキ:うん
 
保芦:あと、高嶋政宏さんも、すごい応援してテレビでやってくれて。なんで、こないだ舞台見に行って。コロナ禍なんでお会いはしなかったんですけど、カレー届けて。
 
オンキ:いや、このインタビューも必ず「マツコ・デラックス」っていうのはタグ付けして。マツコさん読むか読まないかわからないけど、あなたが好きだって言った人にダイレクトにお礼を。創造主はこんな人ですよって、それはやった方がいいですよ
 
保芦:いやいや、そうですか? 
 
オンキ:お二人に会っていただきたいかな。それで会っていただいて話してるところを収録したら? 
 
保芦:いやー僕は本当、何よりもテレビなんかでね、そんなことがあったら最高のプロモーションになってうれしいんですけど。でも、何よりもまず、お礼を伝えたいですよ、本当に
 
オンキ:なるほど。大量生産ができない手間暇がかかる質のものを、暴走して作ってるってとこが、今、尊いと思いますね
 
保芦:うーん
 
オンキ:であるならば、今、そんな人が生き残るために、物に見合う少々お高い値段を付けるとか
 
保芦:はい、値上げしました
 
オンキ:その人を応援するがためにっていう風になって、少々高くても買うっていう人は少ないといえども、マーケットは広がらないといえども、そこでなんとか生きていけるようにするっていう。大発展はしないけども生きていけるっていうように、質の高いものを作り続けるってのは、本当の意味でのこれからの消費社会の鍵になるって話もありますよね
 
保芦:本当に、工場で作れる数も限られてるので。他の工場も本当に探して回ってるんですけど、試作すると、同じレベルのものがなかなかできないので
 
オンキ:レベルを落としてでもいいから、マーケットに合わしていくっていうのが、普通の会社が大きくなっていくときのやり方ですよね。あんなにおいしかったのに、こんなになっちゃうんだ、でもしょうがないよねって言われておしまいなっていくっていうのが
 
保芦:そうですね
 
オンキ:普通のコースですね
 
保芦:はい
 
オンキ:そうはしたくないんですよね? 
 
保芦:それは絶対にできないですね
 
オンキ:「絶対にできない」んですね? 
 
保芦:大きな工場の会社の研究室だとかにも入って、試作なんかもやってみたんですけど。やっぱりすごい大きなところだと、情報量はすごいんですよ
 
オンキ:はい
 
保芦:一人一人の商品開発の方たちなんだけど。なんていうか、今一緒に作ってる会社、そこも最近、僕の他にも売れてる商品ができて、工場を少し大きくしたりだとかしてるんですけど。でも、なんだろうな。誰でも知ってる超大手よりも、この名古屋の工場の方が情熱、熱量が違うんですよね。だから、やっぱりどんなに知識や情報があっても、実際においしいものが作れるかっていうと、それはまた違う話なんだなって思って
 
オンキ:それは、トップの方にものすごい熱があって、そこの技術者やオペレートする技師たちに熱が移って行って、みんなが熱くなるんですか? トップが熱いんですか? 下が熱いんですか? 
 
保芦:うーん。手仕事が多いんですよ
 
オンキ:はいはい
 
保芦:工場なんだけど手仕事が多いんで、やっぱり。
ちょっと話は戻るんですけど。僕、そのレトルトのカレー作るのに、一番最初は何度も何度も、まずミャンマーのカレーって何だろうっていう、そっからなんですけど、それに何年もかかって
 
オンキ:はい
 
保芦:現地に行ったり、それから日本に住んでるミャンマー人を家に呼んだり、家を訪ねたり。あと、レストランの厨房へ入れてもらったりとかして、いろんな味を確認するんだけど、人それぞれだなっていう
 
オンキ:うんうん
 
保芦:やっぱり自分の納得する味を作りたいっていう。それでいろんな人のアイデアを見て食べて試しながら、最終的に自分のカレーを作ったんですけど。それを今度、自分の家のキッチンで作ったものをタッパに入れて、カレーの会社、工場に持ってって、こういったの作りたいんですって。それでもう、その場で無理って言われる、そういうこともあったんですけど。でも、レトルトにして送ってくれたりするんです。そうすると、食べてみておいしかったらやるし。でも、なかなかおいしいところが見つからなくて。そうこうしてるうちに気づいたのが、レトルトを作れる工場は日本にたくさんあるけれども、レトルトを作る技術とカレースパイス、おいしいカレーを作る技術と両方兼ね備えている工場の社長さんというのは、なかなかいないんじゃないかと思うんです。僕は運良く、今の名古屋の会社、フードサービスっていうんですけど、そこの社長と巡り会えたんで

 オンキ:うん
 
保芦:なので、当然、社長がおいしいカレー作れるなら、その下の人たちだって、おいしいもの作ってるわけだし
 
オンキ:はい
 
保芦:なので、スタッフがいいんだと思います
 
オンキ:それは、スタッフにも手作業の喜びがあるからじゃないですか? 
 
保芦:そうですね。だって、全部生の玉ねぎからスライスしてんですよ
 
オンキ:それをスライスマシンにかけるんじゃなくてね
 
保芦:いや、それはね、マシンを使ってます。ただ、生からはね、なかなかやるところはないんで
 
オンキ:ふーん
 
保芦:そうなんですよ。僕のカレーは、やっぱり玉ねぎの炒め時間なんかが肝なので。普通はソテーオニオンっていって、もともとソテーする工場があって。ソテー屋さんがあって、そこから仕入れた玉ねぎから作り始めるんですけども
 
オンキ:ね、そこで分業してしまえば、効率と量を稼げますもんね
 
保芦:そうなんですよ
 
オンキ:そうではない「1つの狙いに向けての玉ねぎ」っていうふうに、そこから作るっていう
 
保芦:はい
 
オンキ:もう、いいに決まってますもんね
 
保芦:うんうん、そうなんです。なんで、本当にラッキーが重なって
 
オンキ:ラッキーちゃいまっせ! 出会いに偶然なんかおまへんで。それはもう、保芦さんの熱ですよ
 
保芦:いやー、それにしても、僕は本当に幸運だなと思ってます。幸運に恵まれてるなと思ってます
 
オンキ:マザー・テレサの手を握って握手したときと、今、そのカレーを通じてミャンマーの人を手助けしたいってとこってつながってるじゃないですか。ずーっと一本線ですよね、それって
 
保芦:カレーを通じてミャンマーの人を助けたいっていうよりも
 
オンキ:うん
 
保芦:あんまりそういう意識じゃないんですけど。2月1日にクーデターが起きて、多くの人が殺されて
 
オンキ:うん
 
保芦:ミャンマーを助けたいっていうよりも、ミャンマーに住んでる友人たちが苦しい思いしてるんで。だから、それを黙って見てられないです
 

友人たちのために


 オンキ:さて、最後に。これから自分がどうなっていくのか、見えてるもの、こうなりたいって思ってることを伺っていいですか? 
 
保芦:帰国して、もうすぐ5か月が経つ中で。すいません、今、なかなか
 
オンキ:いいですよ、ゆっくりで
 
保芦:そうですね。なんて言ったらいいんだろうな。
今まで小学校中学校教育だったり、本や映画なんかで戦争の悲惨さだとか、そういったものは、見て聞いて読んで知ってるつもりでいたんですけど。2月1日にクーデターが起きて、多くの人が殺されていく様子を見てるのは、本当に辛かったです。で、ものすごく怒りを。いまだに怒りが収まらないでね。
これがまだ2月1日から続いてるんですけど。僕はミャンマーを、現地時間で4月23日に出国。ずっとミャンマーに残ってたかったんですけど。でも、僕も自分の部屋に軍隊が入ってきたり、パスポートの写しを持って行かれたり。自分がいることで、匿ってくれていた友人たちにも危険が及ぶんじゃないか
 
オンキ:うん
 
保芦:あと、いろんな思いがあったんですけども。でも最終的には、自分の命が惜しくなって日本に帰ってきました。ミャンマーでも抗議の声を上げ続けていたんですけれども。ある日を境に、急激に多くの人が殺されたり。それからFacebookもチェックされてるなんていう噂も立って、何か投稿するのも恐ろしくなってきてたんですけども。だけど、どっかしらに、自分はきっと大丈夫だろうっていう思いがあったんで。周りからは投稿なんかするなって言われてたのを、僕は続けてました。だけど、もう表に出て声を上げたりだとかできなくなって。友人たちと毎晩、毎日悔し涙を流して。本当に、どこにぶつけていいかわからない怒りを抱えながら生活してたんですけども。

今、日本に帰ってきて、僕が声を上げたって後ろから撃たれることもないし、捕まることもないので。だから、今は安心してミャンマーのためにとも言ってるんですけど、実際にミャンマーに平和になってほしいんですけど。僕が今こうしてるのは、何よりもミャンマーの友人たちのためです。もう、大切な友人たちが苦しい思い、辛い思いをして、自由が奪われて。
僕はこんなふうにカレーのことをやったりとか、好きに夢を追いかけてきたけど。夢を追えない境遇にいるっていうのは、気の毒で。だから、その彼らに、本当に1日も早く自由になってほしい。そのために、僕はまだこれからも、日本で抗議活動を続けていきますし。

僕が毎週募金活動を続けているのは、ミャンマーに少しでも金を送るためっていうのもありますけども。それと別に、ミャンマーにいる仲間たちに僕は約束したんで。みんな、今は抗議も外に出て大っぴらにできないけど、僕が日本に帰ったら、お前らの分も必ず声上げて続けるぞっていう。なんで、それをしっかり示すためにも、これからもずっと、ミャンマーが平和になるまで抗議の声を上げ続ける。
 
そして、カレーですね。ミャンマーのカレー。僕は本当に幸運だと思ってます。幸運にも、自分のカレーがこうして有名にもなったりしたので。なので、このカレーを、ミャンマーのカレーを日本で販売していきながら、なるべく多くの人に食べてもらう、知ってもらうことによって。これはもう本当に(商品に)ミャンマーって書いてあるし、ミャンマーカレー、チェッターヒンって書いてあるし。その手にした日本人の方だったり、日本人じゃなくてもいいんですけど。その方が「ミャンマーってどんな国なんだろう」とか、そういった興味を持ってもらうきっかけを、僕は作っていけたらいなと思ってます。いろんな将来のゴールだとか、今は失ってますね。何よりも、ミャンマーが平和になって。そして友人たちが自由になってほしいです。それから考えたいです
 
オンキ:商品が持ってるクオリティだとか、手作りに入ってる熱みたいなものが世界を変えていくっていうような感触を持たれることはありませんか? 
 
保芦:うーん。そういう感触を感じたいですね。僕のやってることは、まだまだ小さいんで
 
オンキ:わかりました
 
保芦:はい、はい
 
オンキ:素晴らしいお話、ありがとうございました
 

あとがき

保芦ヒロスケさん

 このインタビューは2021年9月に行いました。保芦さんは言葉の通り、今も街角に立ってミヤンマーの危機を訴える募金活動を続けています。今は世の中の目はウクライナに向けられているでしょう。でもウクライナだけじゃない。激烈な理不尽が進行している場所は世界中にある。でも僕らはそれを液晶画面越しにしか眺めてない。共に時間を過ごした人の顔を思い浮かべて痛みを感じるなんて出来ない。保芦さんは、そんな痛みをバネにして頑張れるのかも。激辛です。でも甘口のレトルトカレーも商品化したりしてます。さんざ迷い道を歩いたから迷いのない毎朝を迎えるカレーの人でした。

編集協力

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