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映画「息衝く」を見てしまって


先月、「息衝く」という映画を見ました。
「いきづく」と読む。その言葉そのままの映画でした。

僕の誕生会にも来てくれた岡村マキスケさんの出演作で
軽い気持ちでポレポレ東中野に出かけました。
そして滅多にないズッシリ重い感触を受け取りました。
 
なかなかその感触が言葉にならなかったのですが
ようやっとのことで書いてみます。長いです。
 
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映画は5年前に完成して、上映は終わっていた。
モチーフは宗教2世。
言うまでもなく「あの事件」の余波での再上映でしょう。
男の子2人と女の子1人の運命の話、ライフストーリーです。
映画には、3つの時間が流れていました。
 
①    宗教2世として共に育った男2人女1人の3人の子供の時間。
子供たちには「素敵なおじさん」としての教団のメンターがいる。
 
②    3人が大人になり、教団での政治活動にのめり込んだ時間。
主人公の男の子は活動で燃え尽きて教団を離れる。
もう1人の男の子は、教団の幹部にのし上がる。
女の子はシングルマザーとなりレジ打ちのパートで暮らす。
 
③    つかず離れず長い時間を過ごした3人が、失踪したメンターの
おじさんに会いにゆく時間。何かを確かめるために。
 
映画は、3つの時間が説明もなく唐突にランダムに現れては消える。
なので、目の前に現れる場面が3つの時間の中のどの瞬間を切り取って
いるのか、見ていて1時間以上さっぱり分かりませんでした。
宗教と政治が絡む設定で、原発と貧困と格差と疎外の問題も描く。
時間はバラバラで、題材はてんこ盛りで、トッ散らかって消化不良…
…のハズなのに。
普通そんな作りの映画は疲れるしウンザリのハズなのに。
どういうわけだか次々現れるどの絵にも、手重りのする
確かな感触があって目が離せない。
見続ける意思が途切れませんでした。
 
カーテンを開ける手。遠くの坂道の道端に座り込む男。
脈略なくポンポン投げ出されるぶっきらぼーな絵の連続。
何の意味があるのか?今でもよく分かりません。
なのに「ああ、絶対この絵でないといけなかったんだ」
という切実さが強く伝わってくる。不思議でした。

一番不思議だったのは3つの時間を貫いて現れる
「田無タワー」という大きな建造物でした。

田無タワー


子供の頃の3人は、メンターおじさんと一緒に
このタワーを見上げて夢を語っていた。
教団で燃え尽きた後の主人公が、警備員のバイト終えて
トポトポ家路につく街の遠景にも田無タワーが写っていた。
3人の他の時間にも、タワーは何度も、何度も
それこそモノリスのように画面に現れる。

田無タワー遠景


上映が終わってトークショーで監督に質問してみました。
「ずっと写っているあの建物は一体何なんですが?」
同じ疑問を抱えていた観客からクスクス笑いが聞こえてきた。
 
「いや、あの、その..」
監督はまともに答えられなかった。
 
「あれは田無タワーと言って、80年代の末に建てられて…」と
ゴニョゴニョ答えただけで、あとはシドロモドロ。あれだけ
繰り返し画面に出したモノの意味を、言うことができないの?
 
でも、その「分からないのに見せる」にグッと来ました。
 

木村文洋監督


監督自身も宗教2世で、東北青森出身で、宗教と政治と原発を
ずっと身体で受け止め続けていた事をパンフを読んで知りました。
寄る辺のない孤独の中にいた大学時代の監督は、家族とは別の
新宗教にのめり込まずにはおれなかった過去もあったそうです。
 
信仰と政治が生活の真ん中にあった異様なドロドロの日々。
当事者ならではの生々しい記憶が映画の中に息づいてました。
監督は故郷、六ヶ所村の風景を見て、福島原発の爆発を知って
一体自分が生きている日常とこの国の命運がどう繋がるのか
どう繋げられるのかを悩み、黒いモヤモヤを全身で受け止めた。
俺はなんなんだ。この国はなんなんだ。どうにかできるのか?
そんな悶絶熟考10年の苦闘の日々を、仲間達と共に過ごして
この映画は出来たみたいです。
 
そんな重苦しい背景があったら、小難しくてウルサい話に
なりそうじゃないですか。全然そんな事なかったです。
本当に素っ気ない音と絵の連なり。ぶっきらぼーでした。
何気ない仕草と風景と無言。漏れる吐息のような言葉。
 
ああ本気で作ったんだなこの映画、とあらためて思います。
見て、ひと月経った今もズッシリした感触が残ってます。
 
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甚だ恐縮ですが、広告映像の雇われカントクの端くれの
我としても思うところありました。今年の初め、珍しく
発注主と膝詰めで議論して作れた結構な長編作がありました。
発注主の親分の熱い怒りと子供のような無邪気さに触れて
「この人の想いを伝えてあげたい」と素直に思いました。
 
その作中で主人公が自分の存在意義を疑うシーンがあった。
手持ちの素材の中には、その逡巡の想いを乗せられる絵が
なかなか見つからなかった。迷って試して、結局選んだのは
高架下の水路のガランとした風景でした。
奥の方には、橋を渡る自転車に乗った人も小さく見えている。

なぜこの絵が、その想いに適合するのか。
分からない。でもなぜか腑に落ちた。
普通なら広報映像にこんなうら寂しい絵は使いません。
でもこの高架下が、多分その作品にとっての田無タワーでした。
 
 
熟慮し、黙考した長い時間の果てに選ぶ「伝わる絵」は
おそらくそんな素っ気ない、なんでもない情景になるのかも
しれません。見る人の心が開いていればそれは伝わる。
分からなくても感じる。何かがきっとあると。
言うに言えない、もどかしい想いがあるんだろうなと。
 
「息衝く」は、ジャーナリスティックな意味を超えて
長生きする映画な気がします。上映会も続いてるし。
見終えて決して甘く、晴れやかな気持ちには成れませんが
薄陽が指すような希望と生命力はギチっと詰まってました。

 
ってか上映会やらなきゃなのか俺?








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