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第2話「なんかしゃべってみて」

私はいわゆる「ハーフ」であるが故に、英語が話せること、さらにルーツがある国の言語を話すことを期待されることがしばしばあります。今回はそうした期待にまつわるわだかまりをテーマにしました。

ちなみに、私の父の出身地、スリランカには公用語がふたつあります。シンハラ人が話すシンハラ語とタミル人が話すタミル語です。前述したように、私の父はいわゆる「ムーア」人です。ムーア人はタミル語で話をしますが、標準語のタミル語というよりは方言のようなタミル語を話します。また、ムーア人(イスラム教徒)はスリランカにおいてマイノリティであるためマジョリティと意思疎通できるようにと、学校の第二言語でシンハラ語を選択する人が多いです。そのため、父も標準タミル・方言タミル・標準シンハラを巧みに話すことができます。私は幼いときから、父やスリランカの家族や親戚が話す方言タミルを聞いてきたので、私が理解したり話したりできるのは、いわゆる方言タミルだけになります。(タミル映画をすべて理解できないのが残念すぎる、、)

今日は「なんかしゃべってみて」というわだかまりフレーズについて詳しく見ていきます。以下、紹介する例は、大学入学当初のとき、今は仲の良い友人と出逢って間もないときに交わした会話です。

友達A「バーヌってやっぱ英語ペラペラやろ?」
私「英語?いやーそんな得意じゃないし人並みかなぁ」
A「え、そのあっちの国の、スリランカ語は話せるん?」
私「タミル語ならわかるし話せるけど・・日常会話程度やで」
A「えーナムル?なにそれ?」
私「あ、いや、タミル語」
A「タミル語か、知らんわぁ、なんかしゃべってみてや!」

わだかまり①「ハーフ=英語ペラペラ」だと決めつけないで

これはもう「ハーフあるある」なのでサラッと済ませたいところではありますが、このnoteでは、もう何回目?みたいな話も、しつこく書いていこうと思います。これは卒業論文でも紹介した先行研究においても指摘されています。以下、私の尊敬する下地ローレンス吉孝さんの「『混血』と『日本人』~ハーフ・ダブル・ミックスの社会史」※1という本からの引用です。

「この背景には『日本人』化の人種プロジェクトにおいて、『日本人は日本語を話し、日本文化をもつ』という単一民族観のヘゲモニックな作用と、戦後の西欧化においてモデル化されていたのがアメリカであったことから、『外国人』というイメージが『アメリカ人』と密接に結びつけられ、〈『英語』を話す『アメリカ人』=『外国人』〉として人種化されたことが大きく作用している」

よって、非当事者がいわゆる「ハーフ」を「他者」化し線引きを行い「外国人」化することにより、同様に欧米以外にルーツを持つ「ハーフ」と呼ばれる人々をも無意識に「アメリカ人」化していると考えられます。
このような、他者からの期待に応えるべく、頑張って、英語を勉強しているという「ハーフ」にも出逢いました。日本では「外国=アメリカ」のインパクトがでかい。ミックスルーツの人を目の前にすると「外国のルーツ=アメリカ=英語」と決めつけてしまう人がたくさんいるのでとても残念です。

けれど、たとえば私のように、ルーツがあるもうひとつの国が英語圏ではない場合もあります。(むしろその方が多いと思うんですが、、)よって、「英語が話せるにちがいない」というように無理やり英語という言語に「ハーフ」を結び付けて判断するのは間違っています。また、仮に「ハーフ」である私が英語ペラペラだったとしても、それは「ハーフだから」英語が話せるのではなく、「勉強したから」英語が話せるようになったんです。皆さんがこうやって、日本語の読み書きができて、日本語で話せるようになったのも学校で勉強してきたからだと思います。

わだかまり②ルーツがあるから話せるわけじゃないんだけど・・

 わだかまり①で説明したように、言語は習得しなければ身につきません。自然に身についていくものではありません。私がタミル語を話せるようになったのは、聞く事で習得し、話す事で練習してきたからです。それはこれからも続けていきたいと思っています。しかし、日本で生まれ育ってきた私にとって母語は「日本語」になります。おそらく、タミル語をいくら勉強しても日本語のように自分のものにするのは難しいでしょう。あくまでも、ネイティブランゲージは「日本語」だからです。今となってはタミル語を話すことができますが、少し前までは理解はできても話すのが難しくてできませんでした。けれど、スリランカにルーツがあるからという理由ひとつで、スリランカの言語を話せるはずだと思われることが多く、変に期待されがっかりされることもありました。しかし、ルーツがあるからといって必ず二言語以上話せるのではありませんルーツがあっても、その国の言葉を話す機会がなかったり、話す必要がなかったりすれば、話すことができなくてもごく自然なことです
 たとえば、私の友達のNちゃんはバングラディッシュにルーツを持つけれど、両親が離婚してバングラディッシュ人の母親は自国に帰ってしまい、「日本人」の父親と兄弟と暮らしています。そのため、ベンガル語に触れる機会がほとんどない。結果、彼女は「日本語」のみを話します。これまでベンガル語を特に習得していないし、現時点で勉強したいという気持ちもないらしい。それよりも働く上で中国語を身に付けたいと話していました。

わだかまり③なにそのむちゃぶり!?

「しゃべってみて」。いわゆる「ハーフ」の人の中で、これを言われた経験がない人なんていないんじゃないかと思うくらいに、よく投げられる言葉です。私がこの言葉のオンパレードを経験したのは転校先の小学校でした。「バーヌちゃんハーフなの?」「じゃあ英語しゃべってみて!」「どことどこのハーフなの?」「じゃあスリランカ語もしゃべってみて!」という流れ。「ハーフ=英語ペラペラ」というステレオタイプによって、英語を披露するように言われたり、もうひとつのルーツを明かせば、その国の言語も披露するよう要求される。たまったもんじゃないです。言語は無茶ぶりで披露する”芸”ではありません。実際にしゃべってみても、「へー、すごーい、どういう意味?」しか返ってこない。即興でなんか喋ってと言われても困るし、そもそもなんで聞きたいのかもわからない。ましてや、反応もびみょー。よって、当事者にはどんどんわだかまりが募り、もうほんとこれ何回目だよってくらいにうんざりしています。

この世界には何千という言語が存在します。日本語を話す人・英語を話す人の割合なんてほんと微々たるものです。スリランカは北海道くらいの広さしかありませんが、そんなちいさな島国で、英語・タミル語・シンハラ語・ヒンディー語など、隣に住んでいる人が自分とまったく違うネイティブランゲージを話すのはごく身近にあることです。だからか、スリランカで「日本語しゃべってみて」と言われた経験はありませんし、幼いとき数ヶ月オーストラリアの学校に通ってたときも、芸を披露するよう頼まれたことはありません。それよりも、私が話せるか話せないかはともかく、自身の言葉で話しかけてくれます。話せないときは「ごめんなさい、英語で話して」と返しますし、話せるときはそのまま話します。日本では見た目ですぐに英語に切り替えて話しかけてくる人が多いですが、それは偏見であり、実際英語をネイティブとしない人や、私のようなバックグラウンドを持つ「ハーフ」に対しての他者化や周縁化に繋がります。

まとめ

マイクロ・アグレッション「なんかしゃべってみて」をめぐるわだかまり

①「ハーフ=英語ペラペラ」だと決めつけないで
②ルーツがあるから話せるわけじゃないんだけど・・
③なにそのむちゃぶり!?

繰り返しますが、「ハーフ」は英語が流暢に話せる、と決め付けないでください。これは、「ハーフ」に限ったことではありません。私の従兄弟は両親が共にスリランカ人ですが、生まれも育ちの日本なので、「日本語」をネイティヴとします。従兄弟たちもまた、私と同じ経験をしています。学校では、「外国人」だから英語を話すことを期待され、スリランカの言語を披露するよう要求されています。世界には6900以上もの言語があると言われています。またスリランカのように、同じ国の中でもいくつかの言語が存在する場合もあります。なので、当たり前のことを何度も言いますが、海外のルーツがあるからといってみんなが英語を話せるとは限りません。また、ルーツがあるからといってその国の言語をペラペラに話せるとは限りません。

 出逢ってすぐに「なにじん?」「ハーフ?」と聞くのではなく、周りの人にするのと同じように彼らと時間をかけて関係を築いていってください。そうすれば、本人から「ルーツのこと」や「宗教のこと」などを信頼して話してくれるでしょう。また、一緒に時間を過ごしながら、彼らのバックグラウンドを知っていくことで、「この人はどこどこにルーツがあるけど、自分と同じように日本の学校に行ってて、長く日本に暮らしているから、日本語がネイティヴなんだな」とわかっていくと思います。間違ってでも、見た目や名前、ルーツだけで判断して、悪気がなくてもデリカシーのない質問はしないよう心がけてください。むしゃぶりなんてもっての他です。誰しもが自分のことをちゃんと見てもらいたいと感じています。「ルーツ」「見た目」「肌の色」「名前」など、そういったものはその人を構成する一部にすぎません。それだけで、相手のことをきちんと理解することは絶対にできないと思います。また、外見によるジャッジは「ルッキズム(外見至上主義)」にも繋がります。たとえ差別をする意図がなくても、当事者の中にはその質問をされることで大きな精神的負担を感じる人もいます。つまり「なんかしゃべってみて」はマイクロアグレッションになる言葉なのです。外見やルーツ、名前のみの判断で、ネイティブでない言葉をいろんな人に期待され、披露するようせがまれるのを想像してみてください。会う人会う人に「なんかしゃべってみて」と言われるのです。少し考えればそれがどれだけ疲れることかわかるでしょう。そうなんです、私たち当事者はその絡みにもうヘトヘトに疲れきっているのです。うんざりしているんです。

だからこのnoteを最後まで読んでくれたなら、これからは「なんかしゃべってみて」と言わないようにしてください。思わず言いそうになったら、私の言葉を思い出して、「な、な、、、ナンでも食べに行かへん!?」と食事に誘ってみましょう。


※1 

「混血」と「日本人」―ハーフ・ダブル・ミックスの社会史

下地 ローレンス吉孝【著】

https://www.kinokuniya.co.jp/f/dsg-01-9784791770946

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