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政治実験小説〜堂場瞬一『デモクラシー』感想書評〜

みすず書房の読書アンケートで、竹内洋が挙げていたので読んでみた。堂場瞬一は本屋でしょっちゅう見かけるが読むのは初めて。

ほぉ〜〜〜〜〜!!
国会が廃止され、無作為に選ばれた千人の国民が「国民議員」として立法府となる世界を描いた政治実験小説。文体がシンプルかつどんどん展開が進むので、とてもテンポ良く読めた。

物語は主に以下の登場人物の目線で語られる。

・議員に選ばれて不安な女子大生
・新体制を作り直接民主制を推す現首相
・旧体制復活を目指す都知事
・国民議員を補助・監視する議会職員
・体制や閣僚に振り回される総務省官僚

厳密には異なるところもあるが、ざっくりとした視点はこんな感じ。「直接民主制」というテーマを色々な角度から切り取ってくる。これは著者の想像力のなせる技だと思う。自分は政治の解像度が低い。「議員は腐敗しがち」「国民は政治に期待していない」ぐらいの感覚しかない。同時に「直接選挙や直接投票は今やオンラインで技術的には可能だろう」という感覚も持っている。これぐらいの解像度に対して、本作の舞台設定はとても理解しやすかったし、「これは実際に実現可能なのでは?!」「これはどうなるんだろう!」と好奇心も駆られやすかった。SFになりすぎない塩梅がまさに実験小説という感じだろう。

実験小説という概念を考えて、ふと池の景観が浮かんだ。池には魚や亀や鳥や虫が棲んでいて、石や木々が取り囲んでおり、互いに影響を与え合いながら生態系を成している。これは現実の世界だ。これをそのまま写生する小説は自然派だろう。一方で、ありえない状況、例えば池が干上がるとか魚が飛ぶとかしだしたらSFやファンタジーになる。他方で、この池に石を投げ込み、その波紋が生き物に及ぼしていく様を想像して描くとしたら、それをきっと実験小説と呼ぶのだろう。リアリティの塩梅だ。

作中で「議員は一般市民ではダメだ。政治は政治のプロが担うべき」という台詞がよく旧体制派の登場人物から発せられた。考えてみればおかしいな表現だ。日本では国民主権であり、議員はあくまで国民の代表者。それが政治のプロフェッショナルというならば、果たしてプロフェッショナルな技能とは何になるんだろうか。作中では、印象工作や報道作戦に暗躍する政治家の姿が盛んに書かれていた。印象工作や暗躍する強かさが、政治に求められるプロフェッショナル性ということになるんだろうか。

この年になると、社内政治という言葉に馴染みがでてくる。人が組織になる以上、特定の方向性やキーパーソンでまとまったり反発したり分裂するのは大いにありえる話だ。職階のポストは限られているので、争いになる。なぜ争いになるのかというと、皆自らの派閥を優位にしたいからだ。とはいいつつ、自己本位な主張はウケが悪いから、皆が全体最適を訴える。本音と建前が生まれていく。

人が組織になる以上、国でも社会でも派閥と本音建前の発生は避けられないのだろう。そこで調整する役割と技能こそが、政治のプロフェッショナルであり、印象工作と水面下の根回しや暗躍なのだろうな。しかし調整役だけでは物事は進まない。意見を持ち、何かを決定していく主体が不可欠だ。それを民ひとりひとりが担う可能性と社会までの過渡を示したような作品だった。

政治や行政に関心がある人は読んでみてほしい。

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