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平家の盛衰を駆け抜ける:厳島から壇ノ浦まで(弾丸旅行3日目②)

”日本一の景勝地”、鞆の浦を堪能した俺は、余韻を感じる暇もなく車に乗り込み次の目的に向かった。この日の宿泊地は山口県の萩市。今思うと何も考えてないことがまるわかりのアホな移動距離だった。だがこの時の俺は自分のアホさ加減を知る由もなく、意気揚々と西へと走っていた。

同じ北海道だからと函館から札幌まで一日で回ろうとするタイプの馬鹿が組む旅程

我が未踏の地、広島

鞆の浦から萩までの間には、俺の全くの未踏の地・広島県が広がっている。なかなか来れない場所だ。そのまま素通りするのはあまりに勿体ない。俺はギリギリまで広島観光プランを考えていた。

瀬戸内の島々の玄関口・尾道で坂と海のコントラストを楽しむか。海軍の港・呉で往時の歴史を振り返るか。広島の平和記念公園で戦争と平和について考えるか。

色々考えた末、俺がたどり着いた答えは単純だった。初めて来たのだからまずは定番どころからだ。そういう訳で俺は宮島・厳島神社に向かって車を走らせた。

ここから船に乗り、いざ宮島へ

フェリー乗り場で切符を買い、そのまま船に乗り込む。何でも車で移動する俺からするとわざわざ船に乗り換えるのは億劫なことだったが、今回は意を決して船乗り場に向かった。

船に乗るのも久方ぶりだ

実際のところ宮島は目と鼻の先にあるので、船に乗るのは一瞬だけだった。あっという間に到着し、俺は世界遺産・宮島に上陸した。

宮島からもと来たフェリー乗り場の方を振り返る

国宝・厳島神社へ

宮島の厳島神社と言えば、平安時代末期に繁栄を極めた平家の棟梁、平清盛が篤く信仰したとされる海の名勝だ。海の中に佇む大鳥居の写真は、神社仏閣に興味が無い人でも必ず見たことがあるだろう。

そんな有名どころに来たのだから、当然俺のテンションも上がっていた。だが早々に俺の心を挫く障害が立ちはだかった。人の多さだ。平日の昼下がりだし流石に人も少ないだろうと言う俺の甘い観測は一瞬で打ち砕かれた。定年を迎えたご老人と思しきものから修学旅行のキッズたちまで、人がわんさか歩いている。

厳島神社への参道。この辺はまだ人も少なかった

考えれば世界遺産になるような観光地なのだから人が多くて当たり前だ。休日と比べればこれでも人は少ないのだろう。だが連日の移動と観光で疲れていた俺は参道商店街の人込みに耐えられず、居並び店々の冷やかしは早々に諦めて厳島神社に急いだ。

有名な大鳥居。完全に潮が引いており鳥居の周りは人だかり


鳥居から社殿を望む


参道に戻っていよいよ社殿へ


残念ながら干潮で、社殿が海に浮かぶ様子は見られなかった


干潮のためか、意外に人は少ない


折角だから海に浮かぶ姿も見たいところ


年季の入った能舞台

清盛神社と平家の夢のあと

厳島神社の社殿を見て回った後、俺はすでに疲れていた。宮島と言えば厳島神社ではあるが、それ以外にも観光地は色々ある。豊国神社とか宝物殿とか見ていきたい気持ちもあったが、俺の気を引いたのは清盛神社という名の小さな神社だった。

厳島神社の出口は小さな広場になっているが、そこの看板に清盛神社の名があった。平清盛を祀る神社があるとは知らなかったので、もう少し歩いてみることにした。

RPGなら絶対宝箱が設置されてるメインから外れた奥まった位置に清盛神社がある


海沿いの松原をしばらく歩いて清盛神社にたどり着く。メインの観光地からは離れているので人は少なく落ち着いている。

小さな神社だが新しくて綺麗だ

平氏と源氏は武家の二大巨頭として繁栄したが、勝者の源氏は武家の祖としてのちのちの武士たちに尊崇されたのに対し、敗者として滅んでいった平氏の末路は寂しいものだ。平氏を祀る神社もあまり見たことが無い。

この神社は清盛没後七百七十年を祈念して建立されたようだ。厳島神社の社殿は清盛によって建てられた。新興勢力の武家の棟梁だった清盛は瀬戸内の海運に目をつけ、今の神戸に港を作り中国との貿易で巨万の富を築いた。海に浮かぶ神社という全く新しい発想は、海を見据えた清盛だからこそ成しえたのかもしれない。

この厳島神社には清盛は勿論何度も参拝しているが、平家一門総出で厳島に赴いたこともあった。時の天皇は清盛の孫にあたる幼い安徳天皇。譲位したばかりの高倉上皇は退位後初めての行幸先に厳島神社を選んだ。当時対立を深めていた清盛と朝廷の間を取り持つためとされるが、この先例のない行幸に清盛は大変喜び、一門を引き連れて上皇と共に船に乗った。

上皇の厳島神社の滞在は二日に及び、この間に法会や舞楽が行われた。平家の公達は、今見たあの社殿の舞台の上で舞ったのだろう。こうして平家一門が集まって、饗宴が繰り広げられた一夜は、まさに平家の栄華の絶頂を示す出来事だった。

そしてそのわずか後、清盛死後の平家は坂を転がり落ちるように滅亡へ向かっていく。

清盛神社の裏には清盛茶屋という小さな食事処がある


観光客も少なく落ち着いて食事できる。


船着き場にある平清盛像

平家最期の地、壇ノ浦へ

本当ならもっとじっくり宮島観光を楽しむべきだろうが、俺には時間も体力もなかった。連日の移動と歩き詰めで悲鳴を上げる俺の足を叱咤激励しつつ何とか車にたどり着き、次の目的地に向けて走り出した。

いよいよ広島県を抜けて本州最西端の山口県だ。だがこの日のホテルがある萩に行く前に、どうしても行っておきたい場所があった。日が暮れる前に何とかたどり着こうと俺はひたすら西へと向かった。

下関。関門海峡を挟んだすぐ向こう側は九州だ。本州と九州を結ぶこの要衝の地は、かつて源平合戦の最終決戦である壇ノ浦の戦いが行われた舞台でもある。思えば今回の旅では一ノ谷に厳島神社と、何度か源平の古跡を辿ってきた。その終着地として、是非とも壇ノ浦は一目見ておきたかった。

八艘跳びの英雄、源義経


平家の豪将、平知盛

関門橋を渡って九州上陸する手前、関門海峡を目の前にする場所にちょっとした公園があり、壇ノ浦に関する記念碑なども置かれている。夕暮れが迫る中、少し歩いてそれらを見て回ることにした。

壇ノ浦古戦場址


すぐ向こうに九州が見える


関門橋が本州と九州を渡す


狭い海峡をいくつもの船が通っていった。交通の要所なのは古来から変わらない

狭い海峡は見ていて分かるほど潮の流れが急だったが、少し眺めているだけでも多くの船がここを通っていた。交通の要所だった下関が戦場となったのは源平合戦の一回だけではない。幕末の時代、日本の開国に反対だった長州藩の攘夷志士たちは下関に砲台を築いて攘夷戦を決行。関門海峡を通る外国船を砲撃した。

この報復として諸外国は連合して下関の砲台を攻撃。長州側は歯が立たずに敗北し、下関の拠点は徹底的に破壊・占拠された。このいわゆる馬関戦争によって長州藩は攘夷から近代化に舵を切り、倒幕運動に一層突き進むことになる。

馬関開港百年記念


馬関戦争関連の展示もあった


海に向かう長州砲のレプリカ

話を源平の時代に戻そう。一ノ谷・屋島と源氏方との戦いに敗れた平家は、ここ下関の彦島に戦力を結集し、再起を図っていた。瀬戸内海の海運を抑えていた平家にとって、大陸航路の海の要衝であるここ下関は重要な拠点だったのだろう。

そんな平家の再起を許さず、これを撃滅すべく東から迫ったのが、源義経率いる源氏方の軍勢だった。一ノ谷・屋島と義経の奇襲によって敗れた平氏方であったが、正面からの戦い、しかも自らの得意とする海の上での決戦となれば利は平家にあった。

こうして源氏軍を迎え撃つべく、平家の水軍は彦島を出陣した。総大将は貴族然とした平家の一族の中で珍しく豪勇かつ将才のある男だった平知盛。平家一門の生き残りたちは棟梁・平宗盛をはじめとして皆が揃って出陣し、正に平家の生き残りをかけた最後の戦いだった。

緒戦は船の運用に長けた平氏方の有利に進み、源氏方は押される一方だった。壇ノ浦周辺は狭い関門海峡の影響で潮の流れが非常に速い。潮流は平家方から源氏方に向かって流れており、勢いに乗った平家方は攻めに攻めた。

しかしこの戦いの最中、潮の流れは次第に弱まり、ついには反転。次に勢いに乗るのは源氏方だった。猛攻に出る源氏軍に平家方は成すすべなく押されていく。自らの得意とする海戦での敗北。そして背後の九州は源範頼率いる源氏方本隊によってすでに抑えられており、平家に逃れる地はもう無かった。

自らの命運を悟った平家一門は、この壇ノ浦で次々と自決していく壮絶な最期を迎えることになる。

平家方の「玉」であった幼い安徳天皇は、祖母・二位尼に抱かれ、皇位の象徴たる剣璽と共に入水した。二位尼の「波の下にも都がございます」との言葉と共に海に沈んだ安徳帝は、日本史史上唯一、戦に散った天皇となった。

安徳天皇の入水

安徳天皇の入水を契機に、平家一門の自決が始まる。一族兄弟が手を取り合って海に沈む中、一門の猛将平教経はせめて死ぬ前に敵の大将義経を打ち取らんと迫ったが、対する義経は船から船へと飛び移つる「八艘跳び」でこれを逃れ去った。敵を逃した教経はついに諦め、襲い来た敵方二人を道連れにして海に飛び込んだ。

一門の滅亡を見届けた総大将平知盛は体に錨を巻き付け、最後に海に沈んだ。厳島神社での一族の饗宴からわずかに5年後、こうして栄華を極めた平家一門は壇ノ浦で滅び去った。

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