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"書けない"の正体

皆さんお久しぶりです。
最近、noteに書きたいことがあるのに、上手く言葉にならなくて更新できず…。
ならばいっそ、書けないということを書いてしまえ!
誰も私の文章に期待なんてしていない!
と思い、自分を励まして(?)更新しています。



私あるあるなのですが、
言いたいことはいっぱいあるのに、なんだか言葉にならない。作りたいものや伝えたいことはあるのに、それを表現する手段が見つからない。みたいなことがよくあります。

こういう時の自分が1番めんどくさい。
人間向いてないなぁと思います。せっかく、自由自在に手足を動かすことができ、コミュニケーションを取るためのたくさんの方法を持っていて、頭で考えることだって出来るのに。うまく人間ができない。

心では色んなことを感じていて、それを外に出したいよ〜と訴えているのに、良い言葉が見つからなくて、絵を描こうとiPadを前にしてもなんとなく違くて、切り絵は?粘土は?作曲は?歌は??と媒体を変えて表現しようとしてもなかなか私の心は納得してくれません。全く厄介なものです。


私は幼い頃から、何かに秀でてる人が羨ましいと思っていました。それは、負けず嫌いな私の心から来ているものだと思っていたし、私も誰にも負けない"何か"が欲しい、と思っていました。

でも、少し違いました。

ちゃんと自分の想いを何かに投影出来ている、心を表せている人が羨ましいのです。

言葉や音楽が上手な人を羨ましく思っていたけど、私が上手だな、羨ましいなと思う人は、ただ手先が器用!とか上手くできちゃった!とかではなくて、ちゃんとそこにその人の心があって、心と言葉の距離が近かったり、心と音楽との距離が近かったりします。

いま、相手の心(からくる言葉や音楽)に触れてるっていうことを、心はちゃんとわかっているんだと思います。心は、心のことをちゃんと知っていて、心に近いものに反応するようにできていて。
いま目の前に見えているものが、その人の心に近いか、ちゃんとわかります。

そしてそういう、心が全面に表れた演奏や文章は、結果的に技術的にもすごく上手だったりするのです。
そのことが、羨ましい。

私はまだ修行が足りなくて、言葉でも自分の想いを説明し尽くせないし、音楽でも"表したいこと"と"表せること"にギャップがあります。
言葉でもいい、作曲でもいい、打楽器でもいい。
どこか、私の心が、形を変えずに妥協せずに叫べる場所が欲しいのだと思います。
言葉とか音楽とか、それ自体が上手になりたいのではなく、それらを使って、操って、手段として、私の心を満足させたいのです。

心を見せられたらいいのに。
心が人の目に見える形や色やにおいだったらいいのに。
心と言葉や音楽の距離がもっと近かったりいいのに。

もどかしいですが、まだ22年しか生きていないので仕方ないですね。きっとこれからも、私は私の想いを表すのにぴったりな方法を探し、そのために楽器を練習し、言葉を増やし、絵を描き、経験を蓄えていくのだと思います。
私は、頑固で諦めの悪い私の心のことを、めんどくさいなと思いつつも、かわいいなと思っています。私の心がなるべく自由に生きれるように、頑張ってあげたい。


ここまで書いてみてもやっぱり、なんとなくこの文章と私の想いの間には、薄い壁一枚の隔たりがあるように感じます。ある意味そういう、全てを表しきれていないという不完全さこそが次の創作へのモチベーションのひとつでもあるのかもしれません。

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