寺井奈緒美『アーのようなカー』往復評①

すっとん恐怖な真顔の歌   橋爪志保 ①

水沼さんこんにちは。『アーのようなカー』読みました。最初の印象は、これと同時刊行の『煮汁』と『平和園に帰ろうよ』がすごくネットで話題を呼んでいて、同時刊行ってなーんか難しい問題だな!うん!って感じだったんですが、読んでみたらすごく面白かったです。
というか、まずこの表紙や裏表紙、挿絵、すごすぎませんか。あとがきによると作者の夫の作品のようですが、なんとなくアンリ・ルソーの作品を思わせるような、一言では形容しがたい、素朴な悪夢みたいな風景で、でもじんわり親しみもわくような面白い絵だなと思いました。で、中身を読んでみると、この絵がすごく作風に合っていることに驚きました。『アーのようなカー』という、とぼけたような立ち姿のタイトルも、歌の感じをうまく表しているような気がするんですよね。でもそれは、歌集の歌を総合的に見て、という話で。この歌集の歌、なんというか、おぼろげにサイコみがあるような、ちょっと大丈夫かなみたいな奇妙な歌(わたしはこれを「すっとん恐怖」、すっとんきょうと恐怖の複合造語――と名付けることにしました)と、世界やモノを肯定している温かい歌に分かれると思っていて。歌集の前半部に前者が、後半部に後者が多く見られるのですが、わたしは圧倒的に前者のほうに可能性を感じました。ぶっちゃけいうと後者はわりと現代歌人がよくやってるやつじゃん、くらいに思っています。前者に分類した歌は例えばこれ。
  梅干しは女だろうか真ん中に赤い窪みを残して消えて
この歌集の特色を表している歌とは言えないかもだけど、一番印象的だった歌です。下の句の意味は、日の丸弁当を先に梅干しだけ食べちゃったときの描写かなあと思って読みましたがどうなんだろう。東直子さんは解説で、寺井さんの歌に「強烈な驚き」はしない、と書かれていましたが、わたしはこの歌、めちゃくちゃ驚きました。梅干しに性別があることを当たり前のように前提として、「女だろうか」という個性的な疑問を抱いている主体に対して驚いたわけではありません。「梅干しに性別があるということを前提として変な疑問の話をしようとしているわたしっておもしろいでしょ」というドヤ顔みたいなものが、この歌から見えなかったことに驚いたのです。その理由は、歌の下の句を読んでも、「女か否か」という疑問の答えや手がかりになるものが全く書かれていなくて(赤、という色はときにトイレマークみたいなところで女性を表したりするけど)、歌の表情がすごく真顔に近い、からだと思うんですね。「真ん中に赤い窪みを残して消える」ことが「女」の飛躍した比喩になっているという構造とも読めるんですが、比喩がぶっとびすぎていて比喩構造が崩壊しているんですよ(寺井さんは笹井宏之さんの歌が好きで短歌を始めるきっかけにもなった、というのはあとがきのとおりですが、このぶっとび具合は笹井作品の影響もあるかもしれないなと思いました)。真顔で変なこという人の方が、ニヤつきながら変なこという人よりずっと怖い(怖いっていうのはズレに対する違和って感じで、怪談的怖さではありません)ですよね。「変なこと」の部類にもよるかもしれませんが。ちなみに、わたしが思うに、真顔歌(まがおうた)の歌人といえば他に仲田有里さんなどがいらっしゃるのですが、仲田作品は、奇妙なことはそこまで言わないので、別に「怖え~」とはなりません。「真顔で」「ぶっとんだことを言う」、というのが怖さには大事なのです。
 往復をすることの意味手ばなして壊れたファスナーのうつくしさ
話を戻しますが、後者に分類した歌はこういったやつです。これ、歌集の最後の歌なので大切に読みたいところなんですが、こんな「意味から解放されたことの美」とかありきたりなこと詠んじゃうのかよ~ええ~、とも思ったんですよね。でもきっと、この歌集の二面性を受け入れて、やっとこの『アーのようなカー』が本当に愛せるのではないかという思いもあり、今必死に再度読みこんでいる最中です。
それはそうと、『アーのようなカー』って、タイトル自体が「ぶっとび比喩」ですね。カラスをいくら考慮しても、アーとカーは似てないもん。

 寺井奈緒美『アーのようなカー』往復評②|水沼朔太郎|note(ノート)https://note.mu/mizu0826saku/n/n993c55594af4

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