寺井奈緒美『アーのようなカー』往復評⑤

寺井奈緒美『アーのようなカー』往復評④|水沼朔太郎|note(ノート)https://note.mu/mizu0826saku/n/nf754bec1a313

「モノ」ばかりストレスフリーの世界かな 橋爪志保③
水沼さんこんにちは。なるほど、〈うつくしさ〉を詠んだ歌、こんなにあったんですね。なんとなく多いとは思っていたけど、数えたらほんとうに多いですね。「〈うつくしさ〉っていうのは距離の遠近感そのものを暴力的に無化するようなことだと思う」という主張も、ちょっと難しい話だけど、ふむふむという感じで読みました。〈うつくしさ〉の暴力性が吉と出るか凶と出るかは、読者に委ねられている気がするし、寺井さんの歌の〈うつくしさ〉には今回わたしはあまりはまらなかったけれど、わたしはもともと暴力が好き(暴力が好き!?!?)なので、〈うつくしさ〉を多用したい気持ちはとてもよくわかります。いや、一首一首を見ていくとはまらない、というだけで、ここまで〈うつくしさ〉を言われまくったら、正直なところちょっと心は揺らいでいます。「〈うつくしさ〉を言うだけ」では心は動かないんですが、「〈うつくしさ〉で戦っていくぞ!」っていう姿勢をここまで押し出されると、圧倒されるものがあります。
「もしかしたらこの歌集はうつくしくてオシャレな世界を目指して作られたものなのかもしれない」というご意見にも、納得がいきます。加えて、それを実際どのように寺井さんが目指したかというと、〈うつくしさ〉の歌を作るほかに、「モノ」だけを徹底的に描写したということも挙げられるのではないかとわたしは思っています。だって、この歌集、「わたし」とか「あなた」の歌が圧倒的に少ない。数首といっていいくらい。
手羽先の骨をしゃぶっている時のろくでもなくてうつくしい顔
この歌くらいしか、「あなた」を歌った歌の印象がありませんでした(探したらもうちょっとあるだろうけど)。というより、「わたし」と「あなた」どころか、人間自体ほとんど出てこない。人間を登場させずに、「モノ」を淡々と描く様子は、どこかストイックにも感じますし、わたしなんてちょっと歌に迷いが生じたらすぐに「ぼく」や「きみ」を歌の中に入れて希釈してハイ完成みたいなことをやっちゃうので、尊敬しちゃいます(もちろん歌の中に人間を入れないというタイプの手癖も世の中にはあるんでしょうけど)。
 「モノ」を詠んだ短歌ばかりが並んでいると、すごくストレスフリーだな、とわたしは感じます。短歌の中の「私」がはっきり表れている歌集ももちろん好きなんですが、「私」があまり見えない(もちろんですが、「モノ」の見方を提示することでそのような見方をする「私」が浮かび上がってくるということはありえると思います)歌集は、肩の力が抜けて楽な気分になるのです。『アーのようなカー』は〈うつくしさ〉を希求する力ある歌集だと思いますが、そこにイヤ~な重さや切迫した苦しみが見えないのは、この「モノ」ばかりを描く姿勢にあるのではないか、と思いました。〈うつくしさ〉を無理に自分の(とくに負の)感情へと繋げていかないところが、いい意味ですごくライトなのです。ちなみに、このストレスフリーという感想をよく持つ歌集をほかに挙げるとすれば断トツで『Bootleg』(土岐友浩)です。見方によっては『マヨネーズ』(仲田有里)もそう言えるかもしれません。
 と、ここまで書いて、「こんなヘンテコリン(褒めてる)な歌集にストレスフリーとか言っちゃうわたし、異常者かもしれん……」という懸念も出てきましたので、筆を置くことにします。うーん、でも、このストレスフリーな感じ、わかっていただけますかなあ。

寺井奈緒美『アーのようなカー』往復評⑥|水沼朔太郎|note(ノート)https://note.mu/mizu0826saku/n/n5882413442ea

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?