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萩尾望都のエッセイ『思い出を切りぬくとき』

絶版になっている『ストロベリーフィールズ』については以前書きましたが、『思い出を切りぬくとき』は河出文庫からまだ出版されてます。これはほとんどが萩尾さんのエッセイなので、なんというか必然的に?「濃い」んですよ、萩尾さんという人間を知る上では必読書でしょう

私も去年、大泉スレで教えてもらって初めて読んだのですが、一番驚いたのが、お姉さんの小夜さんとの会話ですね。お姉さんに対する萩尾さんの愛情が滲み出る……ような描写は一切なく、ほとんど小馬鹿にしてるとしか思えず……

【清く正しく美しい場合】(初出『グレープフルーツ』1982年)

 そこである日私は本屋で『青年分析』(一般青年の心理分析)なる本を買って、自分の気質を分析し始めた。それによると「私」という人間は、かなり自己中心的で人間的には淡泊で母性に乏しいらしかった。おもしろかったので、私は姉にも試してみようと思った。で、電話をして、性格分析の質問事項五十問に答えてくれないかと聞くと、人がよく、親切で、美しくて、おだやかで、優しい姉は快く承知した

以後、お姉さんとのやり取りが延々と続くのですが、お姉さんという方もちょっと変わった方のようで

「あなたは自分が親切な人間だと思いますか」
「ほんと私、親切だと思うわ!」
姉は、はずむような明るい声で言った
「あなたは自分が何かするとき、他人がそれをどう思うか気になりますか」
「あら、ぜんぜん気にならないわ」
「あなたは自分が、やさしい人だと他の人に思われてると思いますか」
「それはきっとそうだわ!」
「あなたは、人間は結局ひとりで孤独な存在であると思いますか」
「ぜーんぜんそんなことないわ!」
「えー?ホント?ひとりだとも孤独だとも思わないの?」
「あら、思わないわよ!」
「へー……。そうなの……。『絶対』なのね……フーン……。私は孤独だと思うわ、人間て……」
「それはあなたが結婚してないからよ!」

五十問の質問の後、計算して出したお姉さんの性格分析の結果を見た萩尾さんは

「信じられない」と、私は言った。「これではまるで……とても幼い子供か……世の中の悲しみも汚れもまるで知らないような……つまり、ちょっと頭が弱いような……そんなカンジよ」
「私、あこがれなの」
「何が?」
「無垢で清らかで、世の中の汚れを知らず、名もなく貧しく美しく生きるのが」
「……」
 私はうんざりしてしまった。

 この後もお姉さんとの会話が続いて、萩尾さんの出した結論が

 この、ほとんど一方的に私が腹を立てたケンカの後(姉はやさしいから怒ったりしないのだ)、親切な姉に対する罪悪感がなくなった。要するに、姉が私に言ってた健康への心配も、朝起きの助言も、姉の「良い子の点数かせぎ」にすぎなかったのだ。姉は心から私のために言ったのだと思ってるだろうが、自己満足のために清く正しく美しいだけの人間は、親切において「良い子の点数かせぎ」以上の意識はもてない。

書いている内容がとても幼稚、こんなことは中学生くらいで気づくことでしょう、萩尾さんがこれを書いたのが30歳過ぎということに驚きます

で、「城」に出てくる優等生アダムや「メッシュ」の中の「苦手な人種」に出てくる姉ポーラは、萩尾さんのお姉さんをモデルにしたのでしょうね、読んだ当時はあまりにもリアリティがなく、無理矢理作ったようなキャラだとしか思えませんでした

しかし、これ、エッセイに書く前にお姉さんに許可を取ったのでしょうか?仮に萩尾さんがこのように描写されたら、萩尾さんだったら激怒するのでは?と思うのですが……

【名前というもののあれこれ】(初出『グレープフルーツ』1982年)

高校のころ、水野英子さんの『エーデルワイス』を読んだ。その主人公が「テオドール」という名で、テオと呼ばれていた。当時、ドイツ名の語感というものは私には珍しく、新鮮に思えた。いつかこの響きの名を使ってマンガを描こうと私は思った。

なんで萩尾さんがこんなことをエッセイで話題に出してるかというと、「風と木の詩」では元々「テオ」というキャラが考えられていたそうなんです。竹宮さんのクロッキーブックに「テオ」という文字が書いてあるようで……けれど、「小鳥の巣」でテオという名前を使われてしまったからか、竹宮さんはテオではなく別の名前にしたようです。竹宮さんも「小鳥の巣」を初めて読んだ時、「テオ」という名前を見て、そりゃいい気はしなかったでしょうね
大泉本ではテオについて一切触れていませんが、多分、萩尾さんはこの件について言い訳(説明)したかったのでしょう
『思い出を切りぬくとき』には他にも、「トーマの心臓」が連載に至る経緯(萩尾さんが当初は乗り気でなかったこと)も書かれていて、これも言い訳なんだろうなと思います

『メッシュ』に登場するミロンさんの名は、たまたまミケランジェロの画集のパンフレットが手元にあったので、頭と尾っぽをくっつけて「ミロ」という名をこさえた。と、これが「見ろ!見ろ!」という印象を与えてしまうので、「ミロン」と、ころろんとした語感に変えてしまった。

シューベルトから「ト」を取っちゃう式で、今度はミロンなんですね、これもフランスにはこんな名前はないとマニアから苦情が来たんでしょうか?
ただ、これに関しては、数か月後に、萩尾さんが古本屋で見かけた『レ』という中世フランス恋愛譚にミロンという名の騎士が登場し、さらに数か月後に読んだ新聞記事の中のインド?の僧の一人がミロンだったそうで、インド人?まで引っ張り出してくるところが萩尾さんらしいなあと

【日本語は論理的なのか】 (初出『グレープフルーツ』1982年)

タイトルからして既に何を言っているのかよくわかりませんが……

 私は言った。
「日本語って論理的じゃないわ」
 友人Aは言った
「日本語は論理的だわよ」
「論理的じゃないわ。だって人と話をしていると、だんだん話がわけのわからない方向に発展していくんだもの。言ってることの文脈は確かなんだけど、内容が何か……アレ? アレ?って感じでさ……そのうちわけがわかんなくなっちゃって、なんか変だな~って感じで対話が終わるのよ」
「あなたはそうよ」
 友人Aは言下に言い切った。
「あなたはカンでもの言ってるじゃないの。論理的に話を展開させたことなんかないじゃない」
 むむ、と思って反論したかったが、まったく友人Aの言うことは当たってるので一言もない。私は直感型人間なので、まずカンでものを言い、後からロジックを探してくっつける。ロジック探しに三分から三日かかるので、論理的な思考や証明が必要な対話はすこぶる苦手である。

私は勝手にこの友人Aさんを城さんと決めつけているのですが、この「あなたはカンでもの言ってるじゃないの」ほど、萩尾さんという人を的確に表している表現ってないと思うのですよ。もちろん、これは萩尾さんだけじゃなく、ほとんどの萩尾作品にも当てはまると思ってます
つまり良くも悪くも「カンで描いている」ということです

マニアさんたちと対話したことがあるけど、そのほとんどが直感型非論理人間である

なるほど、今まで自分を卑下していたのは、ここにつなげるためだったのかと思いましたね。萩尾さんは誰かを批判する場合、あらかじめ自分を下げておくことが多いんですよ、大泉本もそうだし、お姉さんとの対話もそうです

で、この後、アキヤマさんというマニアを小馬鹿にした話が続き、ちょっと長く、しかも退屈なので載せませんがこれがとても低レベル。最後に萩尾さんがとどめを刺して、アキヤマさんは慌てて帰ってしまうという話なので、萩尾さんは手柄話を書きたかったんでしょうが、これもアキヤマさんに許可を取ったのでしょうか?

【あとがき 私と他者】

 追記として申し上げれば、私は昔の私である“他者”を、そうキライではありません。なんか恥ずかしい人だなという感じはありますが、まア若かったんだしと笑ってすませてしまおう。

すごく納得してしまいました

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