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萩尾望都とブラッドベリと「花と光の中」と「ジェニーの肖像」

萩尾さんが大泉本の中で一番訴えたかったことって、ずばり「私は盗作なんてしてない!」ってことだと思うんです。大泉サロン伝説をぶっ潰したいという意図ももちろんあったでしょうが、それも竹宮さんが憎いからで、憎いのは彼女が盗作の噂を流したと信じていたことも大きな理由だったと思います

でも、冷静に考えて、盗作の噂を流されるということは、そこまで怒るようなことでしょうか?仮になんの根も葉もない噂だとして、自分に疚しいところがないなら頭のおかしな人が何か言っていると思って放っておけばいいのに、スルー耐性がなさすぎるような。「私、出会ったら、絶対その者(盗作の噂を流す者)の首を絞めてしまいます」とまで過激なことを書く心理、まあ、「少年愛」での首絞めを揶揄したかったにせよ、そこまで書くような精神状態の域に達するというのはどこか違和感を覚えます
なぜ萩尾さんはそこまで「盗作」という言葉に過敏になったのか?ぶっちゃけ本当は多少疚しいところがあったからなんじゃないの?と勘繰ってしまいます。ここで本来は「小鳥の巣」「トーマの心臓」と「風と木の詩」との類似点について検証すべきなんでしょうが、お二人はなんせ同居していたわけで、普段の会話や絵の見せ合いっこなど、実際に何が行われていたか当事者以外は知りようがない部分も多く、この件について追及するのはやめておきます。ただ、何かが似てたにせよ「盗作」というレベルからはほど遠いだろうとは想像しています。それでも、萩尾さんは大泉本や他のエッセイで「トーマの心臓」を描いた経緯などを詳細に語っていて、まるで言い訳のように、「城さんから描くことを勧められた」ことを書いていたり、他のエッセイ本ではトーマの下書きは200ページだったものを大泉本ではいろいろ含めて300ページに増やしていたりと、盗作ではないにしろ、何かしらの疚しさはあったのかなという気もします。正直、同居していた友人としての萩尾さんの行為は少々やりすぎのように私には思えました
実はトーマ連載中の1974年6月号『別冊少女コミック』に掲載された「まんがABC」には竹宮さんと増山さんを描いたと思われる人物のイラストが載っています。この事実もどう解釈していいのか迷うところですが、少なくとも1974年のこの時点で竹宮さん増山さんへの怒りはなかったのではないでしょうか。ちなみに下井草での絶縁は1973年3月のことです

では、他になにか「盗作」と言われることに過敏になった出来事があったのでしょうか?そこで注目すべき作品が「花と光の中」という1976年の『週刊少女コミック』14号に掲載された短編です。設定が多少異なりますが、これがブラッドベリ作「みずうみ」にそっくりなんです。「みずうみ」の核とも言える、(1)少年時代の初恋だったこと (2)相手の少女は大人にならずに死んでしまったこと (3)男の心は永遠に少女に囚われて、同世代のリアルな女性は眼中になかったこと、この三点が同じで、萩尾先生はまさにブラッドベリファンなのだから、当然「みずうみ」を念頭に置いて描いたのでしょう。ただ不思議なことに、萩尾さんはそのことを一切口にしていないようなのです。それどころか「花と光の中」が掲載された『週刊少女コミック』14号の巻末には編集の言葉として「『花と光の中』は先生が昔から考えていたもの」と記載されています。ここで書かれた「昔から」とはいったい何を意味するのでしょう?まさか「昔から」ブラッドベリの「みずうみ」を元にしたそっくりな漫画を描こうと考えていたという意味ではないはずです。なぜなら萩尾さんがブラッドベリに出会ったのが20歳の頃なので、当時27歳だった萩尾さんにとって20歳は「昔」というのはちょっと無理があると思いますし、仮に萩尾さんが正直にブラッドベリの「みずうみ」を元に作った作品だと編集に語っていれば、編集は「先生が昔から考えていたもの」なんて誤解を招くようなことを書くわけがありません。萩尾さん自身が「花と光の中」は自分が昔から考えていたオリジナルな作品だと編集に語ったと考えるのが最も自然な解釈になると思います。つまり、この場合、萩尾さんは編集に嘘をついてしまったということになります

萩尾さんがブラッドベリ原作の数々の短編を『週刊マーガレット』に描き始めた頃、「ブラッドベリとわたし」というエッセイを同誌に書いているのですが、ここでも「花と光の中」については一切触れられていません。「『みずうみ』が好きすぎて、そっくりな短編を描いちゃいました」とでも一言あれば、私も追求するつもりはなかったのですが、あれだけ「みずうみ」に酷似したものを描いておいて、そのことに何の言及もないというのは、大泉本で「原作者は明記すべき」と声高に主張している萩尾さんとは真逆の態度としか言いようがないんです

当時のファンの中には「花と光の中」と「みずうみ」の類似性を指摘している人も当然いたでしょう、萩尾さんの嫌うド・マニアの中にはここを批判する人はきっといたと思います。萩尾さんはファンの疑問に何か答えたのでしょうか?

以下は私の推測なのですが、萩尾さんは編集に嘘をついてしまったため、「花と光の中」が「みずうみ」を元に創り上げたものだとはどうしても認めたくなかった、そのことを有耶無耶にするには自分で実際にブラッドベリ作品を漫画化するのが最良の方法だった、そうすれば「萩尾さんはブラッドベリの大ファンで、原作者に敬意を表して、きちんと原作者の名前を出して漫画化している」という評価が得られ、「花と光の中」の一件は上書きされてしまうと考えたのではないでしょうか。そして、1977年、『週刊マーガレット』でのブラッドベリ原作作品の漫画化にあたって、真っ先に描いたのはやはり「みずうみ」でした。「花と光の中」掲載からなんと一年もたたないうちに、とてもよく似た作品を描いたということになり、それは萩尾さん自身に「盗作したと言われたくない」という強い焦りがあったからなのではないかと妄想してしまいます

1976年の萩尾さんは、「花と光の中」を描き、ポーシリーズを終えた後、突然海外旅行に出かけます

(以下、エッセイの一部です)

1・旅に出るには……
トツゼン爆発し旅にでようと決心するこの決心が大切
「わーもー仕事イヤ スペインじゃ ドイツじゃ イギリスじゃ」
決心を絶対おしとおすことが大切
「萩尾さん!仕事は!」「知らん 知らん」
既成事実を作ることが大切
「ともかくも!友人と親に行くっていっちゃったし 旅行会社にキップの予約しちゃったもーん」

(1976年『プリンセス』8月号に掲載された「ヨーロッパみぎひだり」より)

内容から、このヨーロッパ旅行が突然の予定外の行動だったことは明らかですが、どうして急に旅行へ行きたくなったのでしょう?「花と光の中」に関して嘘をついてしまった件が萩尾さんの心に影を落としていたから?何もかも捨てて外国に行ってしまいたいほど心理的に追い詰められていたのでしょうか?

実はこれとよく似たような例が他にもあります。萩尾さんが1975年に描いた「ヴィオリータ」(『JOTOMO12月号』)が「ジェニーの肖像」(ロバート・ネイサン作)という小説によく似ているらしいとのネットの情報を得て、調べてみました。「ジェニーの肖像」はニューヨークの青年画家の元にたびたび現れる少女ジェニーが、最初はほんの小さな少女だったのに、会うたび驚異的に成長し、数か月後にはすっかり大人になって、青年とジェニーは恋に落ちるが、ジェニーは大波にのまれて死んでしまう……という幻想的なお話です

この「ジェニーの肖像」は多くの創作関係者に影響を与えて、似た作品があちこちで作られてきたようで、少女漫画の有名な例としては「セシリア」(水野英子)、「フランソワーズの時間」(西谷祥子)などがあるようです。これらは総称して「ジェニーもの」と呼ばれているようで、「ヴィオリータ」もその一つということになるのでしょうか。読んでみたところ確かに「ジェニーの肖像」の影響を感じます。ネットの情報によると、作家の恩田陸さんは萩尾さんの大ファンとして有名なのだそうですが、彼女の「ライオンハート」は「ジェニーの肖像」のオマージュということになってるけれど、原点は「ヴィオリータ」なのだそうです。そこで、恩田さんと萩尾さんの対談の中で、その件に関して何か話題になっていないか確認するために『愛するあなた恋するわたし』(河出書房新社)を読んでみたのですが、恩田さんすごいです。「萩尾さんはブラッドベリ作品を漫画化されてますが、それ以外の作品でもブラッドベリの匂いのするものがありますね。『金曜の夜の集会』とか『花と光の中』とか。」とド直球です。たらたら読んでて一気に目が覚めてしまいました。「ヴィオリータ」についてではなく、まさかの「花と光の中」、それもブラッドベリの「匂い」だなんて……。恩田さんに悪気がないのはわかるのですが、いったい萩尾さんはこれに対して何と答えたんだろうと期待して読み進めたら、「ブラッドベリは子どもを題材にした小説が多いですよね。」って、なんだかいまいち話が噛み合ってないような

ということで「ヴィオリータ」と「ジェニーの肖像」の関連についても、萩尾さんは一言も言及したことはないようです。さらに不思議なことに、萩尾さんの作品としては「ヴィオリータ」より「マリーン」のほうがよく知られていますが、この「マリーン」もいわゆる「ジェニーもの」の一つに挙げられているのです。ただ、「マリーン」は原作者の名前として今里孝子さん(城章子さんの本名)が明記されている点が異なります。

ここからも私の勝手な推測ですが、ファンやド・マニアから「ヴィオリータ」と「ジェニーの肖像」との類似点を指摘されたであろう萩尾さんは、あえて同じ「ジェニーもの」の「マリーン」を1977年、今里孝子原作を明記して描くことによって、「ヴィオリータ」の件を上書きしたかったのではないか?つまりこれも「花と光の中」を「みずうみ」で上書きしたのと全く同じ構図です。「ヴィオリータ」についても、正直に「ジェニーの肖像」からインスパイアされたと言えない事情があった、あるいは言いたくなかったのかもしれないと思いました。萩尾さんの全作品の中で、今里孝子原作ものは「マリーン」ただ一作だけで、原作者の今里孝子さんが萩尾さんの最大の理解者、現マネージャーの城さんであったという点もひっかかります

大泉本では「トーマの心臓」連載中に、風の噂で盗作の噂を流されたとして萩尾さんはとても憤慨していたようですが、「トーマの心臓」は1974年の連載です。当時、本気で「盗作」と言われることを嫌がっていたとしたら、なぜ、その後の1975年に「ヴィオリータ」1976年に「花と光の中」のような既存の作品とよく似た作品を描くことができたのでしょう?私はここは萩尾さんの記憶が塗り替えられたのではないか?と疑っています。実際は1976年より後になってから、「トーマの心臓」連載中に風の噂を流されたことを思い出して、怒りを何倍にも大きくしたのではないでしょうか?つまり1976年までは本当はそれほど盗作と言われることを気にしてなかったのでは?
大泉本にまで掲載された「ハワードさんの新聞広告」(別冊少女コミック1974年3月号)は、萩尾さんが原作者の名前を明記する主義だったことの根拠として掲載されたようですが、これは病気だった友人イケダイクミさんにお願いされて描いたということで、他のケースとは事情が異なるように思えます。1974年3月時点の萩尾さんが本気で原作者は明記すべきといった信念を持っていたとはとても思えません

1973年…下井草での絶縁
1974年…「トーマの心臓」連載、風の噂で盗作の噂を流される
1975年…「ヴィオリータ」
1976年…「花と光の中」
1977年…「みずうみ」(ブラッドベリ原作と明記)、「マリーン」(今里孝子原作と明記)

大変失礼ですが、萩尾さんという人は自分の過ちを認めることがとても苦手な人という印象を受けます。他人から批判を受けることに耐性がある人でもないようです。この点は大泉本で城さんが「20代の萩尾先生はただの一コマの疑問でも、自分の漫画を100%否定されたんだと受け取りかねない人」と判断したことからも伺えます。では、他人(ファンやド・マニア)から「みずうみ」や「ジェニーの肖像」との類似性の批判を受けて、自分でもその事実を認めざるをえなくなった場合、こういうタイプの人はどう対処するのでしょう?すべてなかったことにするか見ないフリをして自分を誤魔化すのでしょうか?それでもモヤモヤした曖昧な罪悪感は残るのではないでしょうか?私はそういった「盗作」関連の嫌な思いをすべて竹宮さんにぶつけることで、萩尾さんは自責の念に苛まれることを逃れてきたのかなと思いました。つまり「花と光の中」や「ヴィオリータ」の件は心の中で封じ込めて黒歴史として凍結して思い出さないようにして、「盗作」という言葉から連想されるものが、竹宮さん関連だけとなるように脳が処理しているのではないかと思うのです。なぜなら、相手が竹宮さんの場合は、すくなくとも「盗作」か否かという問題については自分のほうに多少は「分」があると思えたでしょうから。というかそうとでも考えないと、あの竹宮さんに対する拒絶っぷりはちょっと理解できないです。竹宮さんを許してしまうと、今度は本当に封印したかった自分自身の黒歴史が解凍し始めるから、自己防衛のために竹宮さんを拒否し続けるしかないといった面もあるのではないかと。まあ、今までずっと、竹宮さんへの反抗心で生きていた部分も大きいようなので、今更竹宮さんを受け入れると自分の人生を否定するような感覚に陥るという面もあるのだろうと思いますし、内心、竹宮さんに対して少々ひどいことをしてしまったという自覚がほんの少しあるけれど、それは認めたくないという心理も関係しているかもしれませんし、それ以外の理由もあるのかもしれません。おそらく竹宮さんを拒絶する理由は一言では表せないのでしょう

以上、長々と書いてきましたが、萩尾さんが「盗作」という言葉に過剰なまでに反応してしまうのは、実際は萩尾さん自身の行為である「花と光の中」や「ヴィオリータ」の記憶を心の中から追い払いたいという心理が働いているのだろうというのが私の一連の推測の結論になります

最後に余談ですが、萩尾さんは実際に2010年にブラッドベリに会って「愛してます」と言ったそうなのです。正確には「Nice to meet you. I love you!」とのことで、詳しい状況は、Web上の大森望氏との対談「萩尾望都のSF世界」に載ってます。サンディエゴのコミックコンに行ったら、偶然ブラッドベリもいて、その時の萩尾さんの反応が「私は全然知らなくて、ブラッドベリが来てますよって言われて、『ええっ? まだ生きてたの?』って」とのことだそうですが、ブラッドベリ原作の漫画化を熱望して実現させた萩尾さんですよ?普通、その相手の生死ぐらい常に気にかけませんか?しかも、直前まで生きているかどうかも気にしてなかった相手に対して「愛してます」と言ってしまえる神経も理解しがたいです
これも超好意的に解釈すれば、ブラッドベリに関する後ろめたい事実を忘れたいがため、極力ブラッドベリのことは思い出さないようにしていたのかなとも考えられますが

まあ、それでもさすがに「まだ生きてたの?」はないだろうと思いますけど

(追記)
萩尾望都と栗本薫の『ぼくらの気持ち』でも書きましたが、「花と光の中」は赤い表紙の全集、萩尾望都作品集第I期には収録されてません。この期間に描かれたまんが作品で収録されていないものは、原稿を紛失した「あそび玉」以外では「花と光の中」ただ一作となります。そして、なぜか1985年の萩尾望都作品集第Ⅱ期に収録されることになります

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