見出し画像

精読のすすめ 【『論語』を真に理解するために】

季文子きぶんし三たび思いてしかる後に行う。
これを聞きて曰く、再びせばれ可なり。

季文子、三思而後行。
子聞之曰、再斯可矣。

【現代語訳】
魯の大夫=季文子は、何をするにも三度考えてから実行に移した。
これを聞いた孔子は言った。
二度考え直してやれば十分だろう。
(度が過ぎた思慮は、優柔不断である)

『論語』公冶長篇

『論語』では、季文子という人物が、
「三たび思うて而る後に行ふ。」(公冶長)というように慎重な人物として採り上げられています。
季文子は、孔子の生まれる60年以上前の人で、魯の文公の時から仕え、宣公・成公・襄公の三公に仕えた名宰相であったとされています。

『論語』貝塚茂樹訳註(中央公論社)

季文子については、『左伝』の中でも、いくつものエピソードが記されています。

季文子曰く、斉候は其れ免れざらん。
己は則ち礼無くして、礼有る者を討じ、曰く、
なんじ、何の故に礼を行ふ。」と。
礼は以て、天に順ふ。天の道なり。
己は則ち天に反して、以て人を討ず。
以て、免れ難し
(文公15年)

【現代語訳】
季文子は言った。
斉候は、きっと無事には終るまい。
己れは礼を守らずに、礼を守る者をかえって、
おまえはどうして礼を守るのか」ととがめる。
礼は天に順うためのもの、天の道だ。
己れは天にそむきながら、かえって人を咎めては無事には終るまい。

『春秋左氏伝』小倉芳彦訳(岩波文庫)

このような『左伝』の記事をみても、季文子が、事を為す時に「三たび思う」のは、礼の道に反するか否かを熟考していたからではないかと考えることができます。

成公16年の時、春秋時代の大戦として有名な鄢陵えんりょうの戦いがおこります。
戦争に至る経緯などについては、話が煩雑になるため別の機会に譲りますが、鄢陵えんりょうの地で、「晋」国と「楚」国が戦うことになりました。
「魯」国も盟約のある晋軍に加勢する形で戦いに参加します。
しかし、そのような大戦時にも拘わらず、魯の国で内紛がおきます。
魯国の実権を握っていた三桓氏の一つであった叔孫しゅくそん氏の4代目当主=叔孫僑如きょうじょは、魯国王(成公)の母=穆姜を抱き込んで、季文子と孟献子を排除するために、晋国の大夫である郤犨げきしゅうに賄賂を贈り、季文子を処罰するように依頼します。
この企みによって、季文子は逮捕拘束されてしまいます。
戦争の最中に、自身の勢力を拡大するために、他の勢力を排除するようなことをしているのです。
季文子は、魯の重臣=子叔声伯や晋の范文子の嘆願が認められ、無事釈放されます。陰謀が発覚した叔孫僑如は勢力争いに負け、斉の国に亡命します。
このことを見ても、季文子が大国「晋」の重臣を動かすほど、礼の人として知られていたことがわかります。

一方で、『左伝』を読んでいると、季文子がやったことは非礼であるそしる記事も存在します。

二月、季文子、あんの功を以て武宮を立つ。
非礼なり。(成公六年)

『春秋左氏伝』(岩波文庫)

「『あんの戦い』に勝った記念として、後世にその名を示すために宮殿を建てた」という内容です。
あんの戦いに勝ったのは、あくまでも軍事大国であり覇者の国であった晋国の功績であり、魯の国はその武功を誇ってはならないというのが『左伝』の主張です。
『左伝』では、「武の七徳」についても記されています。
そこでは、行き過ぎた武功を戒める言葉があります。

武とは、
一に暴を禁じ、
二に兵をおさめ、
三に大を保ち、
四に功を定め、
五に民を安んじ、
六に衆を和して、
七に財を豊かにすること。
(宣公一二年)

『春秋左氏伝』(岩波文庫)

君主の私欲によって必要のない戦争をおこし、民を疲弊させ国の財政を破綻させてはならないとしています。
本来、「武」という文字は、ほこめるという意味であるという記事もあります。
そのため、いたずらに武功を誇るのは非礼であるとし、季文子が戦勝記念で宮殿を建立したことを非難しているのでしょう。

季文子という人物について、『論語』の記事だけでは、その人となりや背景がわかりません。
しかし、中国の正史『左伝』の記事と併せて読むことで、人物像をより立体的に把握することができるようになります。
『左伝』は四書五経の一つです。
四書(論語、孟子、大学、中庸)や五経(詩経、易経、書経、春秋(左伝)、礼記)を丹念に読み込むことで、『論語』に登場する人物やエピソードの意味を知ることが出来、孔子が本当に言いたかったことを理解できるようになるでしょう。
単に教養の構築に留まらず、人間性を真に養成するための「読書」とは、緻密な読解力を要する「精読」のことを指します。
情報を処理するための速読速解とは全く異なる手法であり、ましてや読んだ冊数を誇るだけの自己顕示欲を満足させるための読書とは真逆なものです。

「学問」の道とは、人に自慢するためのものではなく、自分のためにするものです。
「タイパ」「コスパ」という言葉がもてはやされる効率至上主義の現代では、真の「学問」はほとんど消滅してしまっているように見えます。
しかし、そのような時代だからこそ、生涯にわたって、「学問の道」や「精読」を粛々と実践していく意味があるような気がします。


この記事が参加している募集

わたしの本棚

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?