見出し画像

第2回 後鳥羽上皇 【早稲田の古文・夏季集中講座】

「増鏡」は、後鳥羽上皇の時代から始まっています。
その「後鳥羽上皇」に関して、近年、評価が変わってきています。

2018年に出版された『承久の乱』(中公新書)では、次のように紹介されています。

後鳥羽上皇は「承久の乱」をおこしただけの単純な悪人ではなく、「中世和歌の極致ともいえる、『新古今和歌集』を自ら主導して編纂した優れた歌人であり、芸能や学問に秀でた有能な帝王であった。一般には、こうした面に考慮が払われることがほとんどないように思う。

『承久の乱』(坂井孝一著・中公新書)「はじめに」より

奥山の おどろが下も 踏み分けて 道ある世ぞと 人に知らせむ

『増鏡』「おどろの下」

これは、後鳥羽上皇の歌です。

歌意は、奥山の茨が見られるように生い茂った下をも振り分けて、人々に正しき道がある世なのだと知らせよう、である。統治者は徳を持って人民を治めるべきとする儒教の徳治思想に基づき、ストレートに帝王としての気概を表出した歌である。

『承久の乱』(坂井孝一著・中公新書)P.51

後鳥羽上皇は、学問、和歌、音楽に秀でているだけでなく、武芸に秀でていました。蹴鞠にも興じており、「芸術家にしてプロデューサー、スポーツマンであると言う『多芸多才の極致』であった」と言います。(同書P.55)

強靭な肉体に恵まれた後鳥羽は武芸を好み得意とした。馬に乗り、川を泳ぎ、山野で鹿を追い、笠懸で的を外した射手の代わりに弓を射ることもあった。いわば何種類もの競技に出場し、すべてに好成績を上げる万能選手だったのである。多芸多才の極致、後鳥羽はまさに文化の巨人であった。

『承久の乱』(坂井孝一著・中公新書)P.56

Z会の「最強の古文」では、『増鏡』の第二<新島守>の一節を取り上げ、「問題文は隠岐の島に流された悲運の後鳥羽院を語る一節、『われこそは新島守よ』の絶唱で知られた箇所である。」としています。(Z会「最強の古文」解説P.76)

我こそは にひしまもりよ 隠岐の海の あらき波かぜ 心して吹け

おなじ世に 又すみの江の 月や見ん けふこそよそに 隠岐のしまもり

生きて再び「住吉の月」を見られるだろうかという後者の歌を、まだ希望を捨てていない期待する気持ちが表れている歌だとしています。(Z会「最強の古文」解説P.77)

「我こそは」の歌は『後鳥羽院百首』にある有名な歌で、昔から教科書などに使われていました。
そこでは、丸谷才一氏が新説として「先日まで日本を支配していた帝王だ、手ごわい新任の島守として海をおどしている歌だ、解する」とされているようです。(『増鏡』(上)井上宗雄著 講談社学術文庫P.159)

学問・芸術・武芸に秀で、統治者として「正しい道を日本中にしろしめさん」と歌っていた帝王が、一回の戦の敗北程度で、「悲嘆・絶望・怨恨」の情一色に染まっているというのは、考えにくいことです。

隠岐の島で、新たに400首近い歌を削除し、「新古今和歌集(隠岐本)」を作成するようなエネルギーを持っていた訳ですから、生きる希望や為政者としての気概を捨てた隠者ではないと思います。
後鳥羽上皇に、もし、後醍醐天皇にとっての「名和長年」のような人物がいたら、政権に返り咲いていたかもしれません。

面白いことに『増鏡』は、後醍醐天皇が隠岐を脱出し、北条氏の滅亡を経て、京都に戻ってくるところで終わっています。
そして「墨染めの衣も、花の衣にかわった」という歌で完結しています。

すみぞめの 色をもかえつ 月草の うつればかはる 花の衣に

『増鏡』

『増鏡』には、次のような歌があります。

昔だに 沈む恨みを おきの海に なみたち返る 今ぞかしこき

これは、後醍醐天皇のことを歌ったものなのですが、まるで後鳥羽上皇に同情しているかのように感じられます。
『増鏡』の作者は、後醍醐天皇と後鳥羽上皇を重ね合わせるような歴史観を持っていたのかもしれません。



この記事が参加している募集

古典がすき

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?