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ある「まち」の話(vol.1)

何もないのは本当か

何にもないように思えるこの場所にも、きっと価値はある。
万人受けはしないかもしれない。
そもそも万人受けする価値なんて存在しない。
価値を見つけて認めるかそうしないか。
ここにある価値は、ここにいる人にかかっている。

何もないと言われる「まち」に住んでいる理由

「このまちって何にもないよね」
「イオンモールとかスタバとか映画館とかほしい」
「あの駅前の閉鎖されたビル、何とかしてほしい」

これは、田舎ではよく繰り返される会話。

少なくとも、私の住んでいるまちではよくある会話だ。

うん、私もそう思う。
でも、このまちにそういうものが来る期待はしていない。

だって、
坂道だらけの地形
有料道路も通っていない
山に囲まれてどこに行くにも山越え必須

物流的にも、そして人の往来的にも
これって絶望的だもの。

じゃあ、何でここに住むことを了解したのか。
まあ、現実的な理由、避けられない事情というのはいくつかある。
でも、
それに加えて、このまちが持っている、いや残している空気感に惹かれるものがあったというのも事実だ。

価値とは何か

世の中に価値のないものなんてそうそうあるものではない。
誰もその価値を認めてないとしても、自分にとって価値のあるものだって存在する。
価値を共有する相手が多いかどうか、共感してもらえるかどうかで評価が変わるだけなのだ。
まち全体としての評価は低くても、本当にそこにあるものに価値はないのだろうか。
そして、そこにいる人たちは…?

「まち」が「まち」であるために

たとえば、このまちには古く戦前から建っている建物が残っている。
江戸時代まではいかないかもしれないけれど、よく見てみると、今とは違う趣が興味深い。
文化財登録されているわけでもないので、見向きもしない人も多いけれど。
これらがたくさん集まっているエリアというのは、何だか空気の色まで違って見える。
うん、こういう雰囲気は悪くないんじゃない?
これは、紛れもなくこのまちで人が生活を営んできた証。
そうしたつながりを感じるのは悪くない。

そして今、何もないと言われるこのまちで楽しく暮らしている人たちがいる。
何かに対する熱量を持って動いている人たちがいる。

ああ、ここにいたのか、こんなところにいるのかと、その出会いに歓喜する。

このまちにも、ちゃんと熱量があったのだと何だかほっとする。

まちは、物質だけでつくられるものではなく、そこにいる人がいて初めて色がつくし、温度が感じられるし、動き出すのだ。

ただし、そこにいる人が熱量を持っていることが条件。
熱量を持っている人が有機的につながっていることが必要。

「まち」の価値を確かめるために人に会う

熱量のある人を探そう。
面白そうなところに顔を出す。できれば何回か通ってみる。
熱量のない人にがっかりしている暇はない。
がっかりしている間に、このまちの価値は本当に失われてしまう。
とにかく感度を上げて、人に会っていこう。
まちの価値を高めている人はきっといるはず。

まちの価値は「人」次第

まちを構成する要件に「人」が要るのであれば、きっとまちの価値は「人」に関連するはず。
まちに何があるかではなく、まちに誰がいて、その人がどう暮らしているかで価値は変わってくる。
ここにある価値は、ここにいる人にかかっている。

続きはまた今度

さて、このまちの本当の価値はどこにあるのだろう?
イオンモールもスタバも映画館もない。
空き家も空き店舗も空きビルも増えていくばかり。
こんなまちにどう価値をみつけるのか。
これから、このまちの価値を見つけるための冒険にでかけることになるのだけど、この続きはまた今度。

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