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子どもの手を離すということ

心を鬼にして、というのはどういうことなのか。
鬼というのは誰にとっての鬼なのか。
これまでちょっと勘違いしていたかもしれない。
相手に対して鬼になるのではなく、自分を律する厳しさを持って相手に接するということなのかもしれない。


子どもが登校するとき、車で送っていくことが多い。
入学当初から、何となく学校に気持ちが向きにくい、近所にいっしょに登校する子がいない、そんな理由から付き添い投稿していたのが、いつの間にか車での登校に変わっている。

大雨とか大荷物とか、そんなときはまあいいかな。
私の都合で家を出る時間が遅くなったときも仕方がないかな。
何より、一人で登校させることの不安と心配が私の中には大きくあって、送り届けてしまったほうが私自身が安心できるから、送っていくことが当たり前になってしまっていた。


それでもどこか私の心の中にひっかかるものがなかったわけではない。
一人で登校するチャレンジの機会を奪ってはいないか、体力づくりの機会を奪ってはいないか、雨の中を歩く練習の機会を奪ってはいないか、この子にとっていろいろな機会損失になっているのではないかと。


そして2年生になって数日経った今朝のこと。
春休み中から、いくら促しても準備をしようとしなかった給食当番の白衣。
出かける直前になって、白衣を入れる袋がないと言い出した。
もう、泣きそうな顔になっている。
持ってくるように言われてはいたけれど、今日使わないことは明白だったので、そのまま持たせずに行かせることにした。
そして、いつもより出かけるのも遅くなっているけれど、自分で歩いて行ってもらった。


自分で起こしたことの責任は自分で引き受ける。
こんなふうに書くと大袈裟だけど、こういう経験も必要だと思う。
ただ、今のこの年齢、発達段階で必要かどうか、これが正解だったかは分からない。
それでも、どこかでこんな経験も積んでいかないといけないと思うのだ。

1年生のうちだったら迷わず送っていったし、その前に持ち物の準備は手伝っていただろう。
それが、彼がスムーズに学校生活を送るために必要なことだったし、間違いではなかったと思う。(もちろん他にも正解はあったのかもしれないけれど)

甘えさせることと甘やかすこと。
この2つは似てるようで似ていない。
いつまでも同じ対応をしていたら、必要で甘えさせていたのに、いつの間にか過剰な甘やかしにかわってしまう。
甘やかすのは簡単だ。
本人のことはお構いなしに、私の気持ちのままに振る舞えばいいのだから。
でも、甘えさせていたことが甘やかすことに変わる段階に来たのならば、これは親の私が自分を律して子どもの手を離さなければならない。

そう、心を鬼にして、というのはこの場合私自身に対してなのだ。
もちろん、子どもの側からだって鬼に見えるかもしれないけど。
でも、手を離すことで成長するだろう子どものことを信じて手を離すべきなのだ。


明日の登校からはどうしようか。
きっと明日はまた荷物が重たいと言って車で行きたがるだろう。
まあ、毎日必ず自力で歩いて行けとは言わないつもりなので、車に乗せるかもしれない。
そんな日があってもいい。
ただし、甘えさせることと甘やかすことの違いを認識しておきたい。


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