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18. 私が馬鹿?出典が気になって本が読めない-情報の質

細かすぎの悩みを吐き出す会。

研究論文では、その情報をどこで目にしたのか、誰の意見なのかを丁寧に脚注で記すことが必要です。これに慣れると、出典のない記述が読めなくなってしまうのです。

何故そうなってしまうんだろう

誤解されたくないのですが、識者ぶっているというのではなく、

「私が何かを読む時、なるべく最も正確で重要なデータまで辿り着きたい、そこがないと簡単に自分の知識として落とし込みたくない、人に説明できない。したくない。」

というモットーから起きていると思います。


でも世の中にはいろんな文章がある

世の中そんな厳格に物事を説明しているものは少なく、
特に大体は発言している人が偉かったり、肩書きがしっかりしていたりすれば、その正確な出典は伏せられることが多い。

自分は、それを簡単に受け入れることができていないので、世の中の仕組みから外れてしまっているな、と日々感じています。

モットーとして

度々悩んでいるのですが、
とはいえ、自分がそれを変える気がないというのは、どうしても簡単に受け入れることが良いこととは思えないから。今、いろんなことがこの点を軽視して狂っているからです。

例えば、最近のメディアの在り方にも通じます。SNSの流行で、皆さんすでにお感じのように、テレビで紹介される内容、すでに知っていることが多かったりしますよね。そしてその取り上げ方が、事実と異なるように加工されていて、おかしいとかいうことありますよね。

でも、「本」や文章になると何故か簡単に信じる人が多いような、そんな感覚が私にはあります。

本や文章だって質が違うから

本だって間違いだらけです。主観で記述しているものや、噂で成り立っている本もありますが、私は緻密に一次資料(本当の情報の原点)にまで辿り続けている本や文章が読みたい

さらにいえば、そういう情報の質が評価されるような場所、それを検討できるような場所に行きたい。最近は論文の査読がどこまで必要か、なーんて話を耳にしたりしていると、研究者がいる意味ってなんだろうって思う。査読の仕方も結構バラバラで。

研究は本当にそれに特化しているから、すごく楽しいのだけれど、何せ稼げないというのが難点です。

また、簡単に話そうとしてしまうと、どうしても情報を落とさないといけない。うーん、容量を減らすために画素数を落とすみたいな感じですね。自分にそんな高度な技ができるのかと思いながら、今はひたすらコアな部分を調べています。あとは自分が発言することで、多少なりとも形を変えて情報を伝えてしまうんじゃないかという不安がまだあります。(それこそ自分の判断や意見を一度外に出すと、再検討されずに受け入れられるという状況を危惧して)

買いやすかったり流通しやすいのは軽い情報の本が多い気がして。

そんなことばかりではないでしょうが、素晴らしい本もあれば、中身のない本もありますがそれらが存在するということは、それが売れることもある、ということなのですよね。皮肉なことに、おそらくむしろ売れるのはその読みやすい方なのでしょう。情報の質を保つと、ページ数が増えたり、そのかかる手間が増えたりして、費用が増えていく。

本当に難しい。なので、情報の質を落とさずに、読みやすい文章を書くというところ、その情報の質の価値をもっと上げていきたいなとは、思っています。

昨今の研究者に対する日本の待遇は劣悪ですが……何が正しいかどうかを、もっともっと見極める情報が溢れるような国に、私はしていきたいです。

何がいいたいのか、うまく伝わらなかったかもしれないけど……。

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