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柄谷行人さんおめでとうございます

“哲学のノーベル賞”というものの実質について特に知識はありませんが、とりあえずおめでとうございます
“哲学”とか“ノーベル賞”という言葉が日本社会でどういった意味合いで使われているかって話でもあるけど、柄谷行人を“哲学者”だっていったら多くの哲学研究者は嫌がるんじゃないか
あんな奴は哲学者じゃないなんていってね
それは彼らの自意識の問題、つまり哲学を物凄いものだと思いたいという願望であり、その根底にあるのは哲学を研究している自分たちを物凄い存在だと思いたいという思い上がった欲望であって本質的にくだらないものだ
柄谷行人は兵庫の資産家の息子で左翼で文芸評論から始めた人でかなり攻撃的な性格で、割と簡単に人をバカ呼ばわりする人でもあった
そういった人柄的な面でも嫌われたりやっかまれたり敬遠されたりしているのかもしれない
ただその内容が哲学的といえる著作が海外で翻訳され出版されている言論人は日本には滅多にいないのである
例えば小林秀雄(哲学者とは呼ばれてないが)は日本国内では有名だが例えばアメリカの大学で小林秀雄を研究している人っているのだろうか?
あと小林秀雄の著作は外国語に翻訳されているのだろうか?
一冊くらいはあるかもしれないが…
何がいいたいのかといえば日本人が書いた“哲学的著作物”は日本社会の内部でしか意味を持たない、外国語に翻訳するとその意味や内容がなくなってしまうものが大半なのである
意図的に海外向けに書いたものを除けば、ほぼすべてがそうだといっていいくらいだろう
そういう意味じゃ哲学ではないけど村上春樹はかなり特異な存在であるわけだ
外国語に翻訳しても意味が残る小説を書いてるわけだから
日本社会の中でしか意味を持たない文章というのは要は天皇制の内部しか意味を持たない文章ということでもある
そもそも"天皇制"というものが日本の外では一切、通じないからね
天皇制というのは明治政府がそう仕向けたせいで多くの日本人が宗教だとは思ってないが、その内実は宗教そのものである
天皇制とは天皇を崇拝することでなんとなく安定する精神構造のことだ
天皇制の内部でのみ意味を持つ天皇への信仰の告白
日本語で哲学書を書いたらほぼそんな内容になってしまうのだ
まあそれはそれでいいのだが、それはひとり合点で自己愛まみれのものになってしまわざるを得ないわけだ
これは日本社会だけの問題じゃなくてどの社会でもそうなのかもしれない
たいていの文章はハイコンテクストでドメスティックなものだろう
例えばニーチェの著作だってあの時代のプロテスタントのドイツの社会でしか意味を持たない文章がやまほどありそうだ
昔、諏訪のユースホステルであるドイツ人と話す機会があって僕の貧しい語学力ではほとんど会話らしい会話はできなかったのだが、ニーチェのトランスレーションなんかありえない!!!という態度だった
それは僕がニーチェを翻訳で読んでいるという言葉に対する応答だったのだが、要するにそれは日本人なんかにニーチェがわかるはずねえだろ!!!!という意識の表明だったのだろう
確かにそういう側面はあるはずで、“われわれは神を殺してしまった”という文言の重さは日本人にはわからない種類のものだと思う
ただそのドイツ人はドイツ語で書かれた哲学書は翻訳できないから凄い、ドイツ語圏でしか意味を持たないから凄い、ドイツ語こそこの宇宙の根源言語なのだ、ドイツ凄い、ドイツ偉大なりという立場だったわけだ
ニーチェの本は日本語にも翻訳されていて日本人にもその意味が伝わっているんだ、それは凄いことですね、ドイツ人としてその事実誇りに思いますという態度ではなかったのである
脱線したが柄谷行人は天皇制の外でも意味がなくならない文章を書こうと努めたんだと思う
だから海外の賞をもらえたしその努力は実ったといえるのではないだろうか?
勿論、柄谷行人の著作には欠点も多いだろうし突っ込みどころも満載だろう
ただ翻訳しても意味が残っているという事実が大切だ
別に海外の賞の権威にひれ伏せといってわけではない
これはコミュニケーションの本質に関わる問題なのだ
日本社会の内部でも言葉が通じないという問題がある
今回の受賞はそんなに状況にも一石を投じるものだったのではないだろうか?











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