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ホログラフィーアートは世界をめぐる 第1回 冬の旅

 2017年12月,アメリカ中東部は大寒波の襲来というウェザーニュースを聞きながらこの原稿を書いている。
 2013年初冬,11月末から12月中旬にかけて,このパルスホログラム(図1)の制作のため,3週間アメリカで奮闘していた時のことを思い出した。このアメリカ中東部はしばしば厳しい寒波に襲われるようだが,「初冬だからまださほどではなかろう」との考えは,見事に初日に打ち砕かれた。私は五大湖の一つ,エリー湖に隣接したオハイオ州コロンバスにいた。
 レインボーホログラムの制作には2段階のステップが必要だ。まず,マスターホログラム(H1)の撮影,これはレーザー再生透過型である。このホログラムからの再生像をもとにして,白色光再生型のレインボーホログラム(H2)に変換する。H2を大型(縦横1 m前後)のマルチカラーに仕上げるにはマスターホログラム(H1)は,幅は狭く5~10 cmほどでよいが長さは少なくとも100 cm以上を制作しなければならない。これは最終的にイメージの視域に影響するため重要なポイントだ。このH1制作のため,オハイオ州立大学に出かけていた。
 大学のラボに毎日通う必要があったので,宿はそこからほど遠くない,歩くと20~30分くらいだろうか,無料スクールバスが巡回しているエリアの,ショッピングモールに隣接したモテルに滞在していた。宿に着いた日は,数日前の雪の影響なのか,昼間でも路面が凍結しており,タクシーから駐車場に降りようとしたら足元がアイススケートリンク状態になっていることに気付いた。すべらぬよう,転ばぬように歩いて,フロントまで無事にたどり着くのにまず一苦労だった。
 翌日は,朝から雪が降り始めた。時差ぼけの頭で,宿の窓から細かな雪が路面をどんどん白くしていく様子を眺めていた。道路はちょうど大きくカーブしている場所で,それまで普通に走り過ぎていった車はどんどんスピードを落としていることに気付いた。そのうち,ほとんどの大型トラックは歩く速さよりも遅いスピードで,しかし何事もなく通り過ぎていった。アイスバーンの上に粉雪という潤滑剤をまいた状態なのだろうが,慣れたもので,スリップもせず運転してゆく様に感心した。滞在中の積雪はそれでも20 cm程度であった。

 オハイオ州立大学はダウンタウンから少し郊外に位置し,全米最大の規模といわれる大学の敷地は半端なく大きい。極寒の下,目的の建物を探したどり着くのも一苦労であった。
 私は,パルスレーザーのラボで,アーティスト・イン・レジデンスとして1週間(5日間)の撮影にのぞんだ。物理系研究室のハリス・ケーガン教授が,ラボの管理,技術のアシスト一切を担当している。このラボは,2009年にNYのホロセンターの設備の一部,パルス部門が移設されたものだ。ホロセンターは1998年にアナ・マリア・ニコルソンとダン・シュバイツアーによって開設された,現在は新しいディレクター,若いマルチーナ・ムロンゴヴィウスのもと,ホログラフィアートの情報の拠点として運営と活動が続けられている。パルスレーザーを使ってアーティストが作品制作できる機会はめったにない。2013年のホロセンターのアートグラントプログラムに応募し,首尾よくその年の1人だけのアーティストとして選ばれ,ここに制作にやってきた次第だ。ところで,ここでの撮影可能なサイズはおよそ30 cm×40 cm。長いマスターホログラムを制作するには,3つのパーツ(中心と左右からの視点)に分けて撮影しなければならない。マルチカラーに仕上げるには,上下方向に位置をずらした3スリットも必要なのである。少なくとも9枚のマスターホログラムが撮影できないと,私の意図するH2が完成できないのである。
 パルスレーザーによる撮影の利点は,ホログラムの撮影ではいつも悩みの種となる除震の問題をまったく気にしなくてよいことである。一方,レーザー発振器のご機嫌取りをするのがなかなか厄介である。寒波の影響もあったのか,ラボの室温の昼夜の温度変化も加わり発振器の状態が思わしくなく,もしや撮影が不可能かもしれないという不安をいだいてのスタートだった。
 通常の写真の場合,カメラを持ち歩き,何処へでも目的の被写体のある所に移動して撮影することが可能だが,ホログラムはそうはいかない。撮影設備(光学系)のスタジオに素材のすべてを持ち込み,被写体となるシーンを準備しなければならない。それはあたかも「劇場の舞台」装置作りに似ている。パルスレーザーの魅力は,動く被写体の瞬間のシーンを記録できるところにある。あるシーンを一億分の数十秒で切り取り,時間と空間を変えて,ホログラムは三次元像を再現する。その面白さを実現するには,被写体に動きが求められる。つまり,舞台装置にパフォーマンスの要素が加わる。
 今回の被写体は,空中にばらまかれた軽い素材が宙に浮かんでいるシーンとして,羽毛,紙吹雪,風船,そして,風になびくスカーフ,人体,布,ガラスと水,水を注ぐシーンなどを試みた(図2)。特に厄介なのは,感光材料をホルダーに設置した後,暗室の中で感材の前面に目的のシーンを実現すべくパフォーマンスすること,さらに,ベストシーンでレーザー発振とタイミングを合わせることであるが,いずれも至難の業であった。

 パフォーマーは私自身がやり,レーザー発振はケーガン教授にお願いし,スリー,ツー,ワン,・・・?と,カウントダウンの呼吸合わせを何度練習したであろうか。風船のシーンの時は,準備に家庭プール用のふいごを日本から持参し,ラボの中は,まるで縁日会場のようになってしまった。そして,翌日ラボに行くと,なんと前日はほどよい大きさであったはずの風船は見る影もなく,しぼんでしまっていた。結局,撮影前に,再び多くの風船作りに励むはめになった。ふわりと浮いた状態が撮りたかったので,上からそっと落とせばよかろうと考えた。この場面づくりは1人では無理なので,学生の手も借り,試しにたくさん抱えて上から風船を落としてみたが,なんと静電気で手や腕にぶら下がったままとなり,少々手を払ったくらいでは移動するだけで離れなかった。いろいろと思案の末,体に触れないように紙のボードにのせ,しばらく落ち着かせてから落とすことにした。ところが,少しずつ落とすということがこれまた難しい。ドバッと落ちるようではイメージにあわない。そのうえ,レーザー発振を最適な望むシーンと同調させるのも大変だった。程よく落ちているかが判明するのは,レーザーが光って瞬間のシーンが見えたときである。イチかバチかの作業が何度も続いた。
 素材の多くは日本から持って行ったが,舞台づくりには現地調達品も欠かせず,買い出しに付き合って,かけずりまわってくれたミセス・ケーガン,私1人では手の足りない被写体のパフォーミングには学生のアシストなど,皆の努力の甲斐あって,20枚以上のマスターホログラムが無事撮影できたことは奇跡的?で,本当に感謝の気持ちでいっぱいである。
 スタート時点では,レーザーのコンディションや被写体の舞台づくりなど,途方に暮れた時もあったが,とにかく無事に前半の工程が終了したことに,ホッと胸をなでおろした。グラントのプログラムはこのH1制作で完了である。
 後半の工程は,バーモント州バーリントンのホログラフィックスノースでの作業だ。ここでは,これまでにも何度も制作してきた,唯一プロトタイプの大型のホログラムが制作できるラボである。ここからは私費を投じての制作である。バーリントンは,カナダのトロントへはわずか150~160 kmの北の都市で,移動はコロンバスからクリーブランド経由でさらに北へ進む。寒波はまだ東部に居座ったままだった。
 コロンバス空港からは小型のプロペラ機に乗る。乗機後,なかなか離陸せず,しばらく窓から外を眺めていると,緑色のどろりとした液体で窓ガラスが突然覆われ,ぎょっとした。SF映画のシーンが思い浮かんだのだった。不凍液なのだろうか? そのうち,窓はまた透明になり,ほどなく無事に離陸した。1時間ほどのフライトの予定であったが,途中のアナウンスによると,何やら目的の経由地ではなく,少し南のピッツバークに変更したらしい。次の乗り継ぎが上手く行くのか不安を抱きつつ,いったん空港で降り,次の乗継便ゲートでしばらく待つ。よく観察してみると,そのゲートを出入りする乗客たちはみな,完全な防寒の服装だった。ゲートから目的の機体まではどうやら極寒の外を歩くらしいということがわかる。準備万端にして,ゲートから機内に乗り込んだ。次は約1時間半のフライトの予定であった。機内はこれまた両側1列2列の小型機で,床は靴の雪が解けてびっしょり濡れていて,荷物を座席下には置けない状態であった。この国では,飛行機もまた車のような“足”でしかないとあらためて実感したのだった。コートを脱いで着席して待っていると,やたら寒い。周りを見渡すと,皆防寒着を着たままだった。無駄な暖房はしないということか? 私もあわててコートを着た。機内は暖かく快適なものだと思っていた私の常識は,ここでは非常識であったことを悟る。外を眺めていると,消防の放水車のような車が機体に放水を始めた。湯気が出ているから温水らしい。その後,翼を人力で丁寧に拭き始めた。極寒の天候に飛行機を飛ばすにはこんな苦労があるのか,無事に飛ぶのだろうか,などと思いをめぐらしていたら,またどろりとしたオレンジ色の液体で,視界が突然遮られた。またもや不凍液であった。私は,空港によって色が違うのだろうか?と,おかしなことに感心していた。そして,無事にバーリントン空港に到着した。時間や便の変更のため,迎えの知人との待ち合わせにもいろいろ苦労はあったが,何とか無事に宿に到着した。

 H2制作の最初のステップは,3本のマスターホログラムの組み立てである。正しく組み立てないと,マスターの再生画像がH2に正しいポジションで記録できない。まず,約20枚のマスターホログラムのチェック作業をした。これは,イメージの良し悪し(像の明るさやベストーシューティングで撮れているかなど)をチェックし,最終的に,カラーと像の組み合わせを決めるパズルのような作業が待っている。
 ホログラフィックスノースの設立者であるDr.ジョン・ペリーは,アートマインドをもった優秀なテクニシャンであり,この設備と技術支援なくして,このホログラムは完成しなかった。これまで,ここで何度も制作してきた経験から,勝手知った快適な環境であり,作業を分業しながら順調に進めた。ホログラムの最終画像のチェックは,とにもかくにも全工程が終了してからでないと,途中の段階では成功か失敗かは確認しようがないのである。最初のホログラムを見て,もしカラーコンビネーションや画像の空間ポジションが当初のイメージ通りではない時(ほとんど一度で決まることはない),それを修正するには5 m×8 mの除震テーブルの上で,そのたびに撮影光学系を大きく変えなければならない。大きなサイズの撮影には,まさに肉体労働が伴う。条件がすべて決まり,最終の撮影には,1日に1枚のホログラムを完成させるのがやっとなのである。この状況はちょうど19世紀の銀塩写真の黎明期と酷似している。撮影時の多くの苦労,仰々しいカメラの構造,長い露光時間,感材と現像処理の面倒さなど。しかし,この後に現代の簡便で高性能なデジタルカメラの時代がやってくるとは,当時の誰が想像できたであろう。ホログラムもそのような未来を想像したいものだ。
 全工程が無事終了して,完成したホログラムを携えて帰る朝,実は,前夜から雪が降り始めて30 cmほどの積雪になっていた。バーリントン空港は街から車で15分とアクセスが良い。しかし,前日にジョンから,「明日は雪の予報なので,車の運転はプロのタクシーのほうが確実だ」とアドバイスを受け,十分な余裕のある時間で予約を入れてもらっていた。バーリントンはシャンプレイン湖の東側の斜面に位置し,宿泊先は民泊で,穏やかな斜面の中腹にあるニューイングランド地方の典型的な大きな一軒家だった。玄関はメインストリートから40~50 m奥に下る地形である。早朝に,予定通りタクシーが来た。玄関に積もった新雪で,大きなスーツケースを運び出すのも一苦労だった。さて,タクシーに乗り,車は通常どおり発進した。しかし,タイヤがスリップして全く進まなかった。穏やかとはいえ,上り斜面で,私道なので新雪のままだったからだろう。これはまずい,どうなるのだろう。歩けば数分のところにある公道まで出れば,車の走行には問題なさそうだ。しかし,もしこのままでは・・・。ドライバーは,次に私道の幅(10 mもない)ぎりぎりに斜め(ほぼ横方向)にハンドルを切り,ゆっくり前進させた。その進み具合といったら,進んでいるのかいないのかわからない程だった。このような蛇行を何回も繰り返しながら,わずかずつではあるが公道に近づいていった。なんと私道を抜け出すのに30分以上もかかった。しかし,空港への時間はまだたっぷりあるから助かった。悪条件下のドライブ技術に脱帽と感謝でいっぱいだった。
 こうして,汗と涙の冬の旅で完成したこのホログラムは,その後,2枚のコピーのうち1枚は2015年サンクトペテルスブルグで,ISDH(International Symposium on Display Holography)と併設して開催されたMagic of Lightに展示され,現在はギリシャにコレクションされている。一見カッコよく見えるアートが,実は,その裏側には土木作業のような肉体労働の積み重ねがあることを知ってほしい。

(OplusE 2018年2月号p.230-233 「ホログラフィーアート」は世界をめぐる,執筆:石井勢津子氏)

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