ミス日本に"ウクライナ人"が選ばれた

最近の風潮

最近は様々な"多様性"が生まれていますが、その多様性を全て受け入れようとすることで矛盾が生まれていますね。
そもそもの話をすれば『人間』という区別や『外国人』なんていう言葉はこの世にあっても概念はありません。
『外来種』なんていうザリガニに与えられる称号もその一つ、ただ決めた博士みたいな人が何処かにいるから決まったのであって、決めなかったら外も中もありません。
何しろアメリカに一歩入れば、誰が何人か見分けることすらできませんね。あの人はフランス人、あの人はアメリカ人、私達日本人がそう思ってても、本人すら自分が何人かわからないほどです。『何人ですか?』と日本語で聞くのが一般的でも『Where are you from?』と聞くのが外国では当たり前なわけですね。

外しすぎた外枠

そんな中で私は、『外枠外しすぎてるなぁ』っていつも思ってます。
ラグビーで他国籍の方が国籍を変えてまで日本代表として出場したり、陸上競技でハーフの方が出場したり。
どんなに差別をしたくないと思っても頭に疑問が浮かんでしまう、平成に入ってからの"あるある"だと思っています。
予め言えば私は差別はしたくありません、つまりYESでもNOでもありません。ただ、私が日本のラグビーや陸上競技に"魅了される"ことはそれがキッカケでなくなってるなぁといつも思っているんです。

日本という国の価値

日本という国が海外で親しまれているのは、他にない人種や景色、文化がここにあるからです。交わらないからこそ他から見て異端になれたし、異端でいれました。ラグビーの代表を見ても、陸上競技の代表を見ても、『どっからどう見ても日本人が』日本代表でした。そんな中で、私達の気持ち、つまり代表選手たちを応援する理由ってなんだったでしょうか。それは『日本人なのに』外国の人に勝てる興奮を見たかったからです。

応援する理由は逆境

半沢直樹というドラマや、野ブタをプロデュースというドラマは特に日本を一世風靡したドラマだったなあと振り返ると思います。人々は『逆境』というものでアドレナリンを出すんでしょうね。また、『日本人』という暗黙の括りが自分を感情移入させやすくするんです。
地球の反対側の戦争は興味なくても、その戦争で日本人が巻き込まれたと言われればみんな話題にするし、はたまた国内で100%の日本人に対して起こった地震災害への関心は全員が大きいはずです。それは感情移入の度合いで人種というパラメーターが活躍しているからです。
さて、そんな中でラグビー日本代表もリレーの日本代表もはなぜ『勝ったら凄かった』のでしょうか。

多様性にとらわれると

スポーツで日本代表を応援したくなる理由は他でもありません。体力的に圧倒的な差が、外国人と日本人にあるからです。そしてそれは帰化をしたとか、どれだけ住んでたとかの話では有りません。
血の話です。股下が何センチだとか、筋肉がどれだけつきやすいかという物理の話です。私は小学生の頃学校で2番目に足が速かったのですが、1番はハーフの方でした。私は努力をしても、努力してない彼に追いつけない、そんな身体の差を感じていました。
箱根駅伝でもそうですが、そもそも外国の優秀な身体能力を遺伝している方は『圧倒的に』勝ってしまうのです。特にスポーツには日本人が『多様性』に固執すると日本遺伝の私達が活躍できる場所を失くしてしまう、そんな悲しい現実があります。

議論は差別なのか区別なのか

だからといってこれは、差別なのか区別なのでしょうか。ゴキブリの話をしましょう、犬や猫を街中で懲らしめると警察に逮捕されますが、ゴキブリはそうではありません。これは差別でもあり区別でもあります、でも誰もそれを悲しんだりはしません。
皆さんは差別であることや、区別であることが論点になると思いますか、私はならないと思います。ある種の対象をどれだけ嫌悪するかの度合いで議論になるんだと思います。
ラグビー日本代表に選ばれなかった方が、代表の選考基準について疑問を呈するだろうし、ミス日本に選ばれることができなかった方がその基準に疑問を呈することだろうと思います。

文化は衰退する

そんな中で私はその区別に善悪をつけるつもりはありません。『対象を嫌悪する気持ち』は私にないからです。その上で私がいつも気になるのは運営側の矛盾です。『多様性を受け入れることで発展させようとしたのに、自分のスポーツや大会の価値を下げている』という矛盾です。
スポーツや大会を行うにあたって1番必要なのは参加者とファンです。どちらもなければ初まりません。
先にまとめたように、多様性に固執すれば、競技者側は『圧倒的な差』を感じ挑戦を辞めますし、はたまたファンは『応援する理由』を失ってしまいます。
繰り返し言いますが、外国の血が混じった優秀な方が日本代表に加わることは悪いことではありません。本人にとっては嬉しいことでしょうし、それは何より良いことです。
が、しかし『なんとなく悪いことだな』と自分の意志の根源も解明せずに疑問を呈し、『それを良いこと』と言い張って否定する運営側は実はその大会の価値や盛り上がり、つまり『文化』を潰すきっかけを作ってるのは自分の方なんじゃないの?と私はいつも思ってるんです。

今回はウクライナの綺麗な方が『ミス日本』に選ばれました。ただ、見る側の気持ちを考えれば『深田恭子』や『北川景子』を見たくて来たのに、『アン・ハサウェイ』や『アヴリル・ラヴィーン』が出てきてしまった感じです。見る人が求めている物と、大会側が『多様性』の名のもとに供給しているものにギャップが生まれるのです。
それは大会の需要つまり『価値』を下げてしまっていることにはなりませんか?

そんな普段から腑に落ちなかった感情をここに纏めさせて頂きました。良い1日を。

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