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【全史】第6章 カネやん登場、球界革命に挑む/1974(昭和48)年

(1)『史上初のタレント監督』カネやんの監督就任

人気女優の檀ふみさん(右)とCMに出演するカネやん

 いよいよ金田正一監督が登場する。最初にお断りしておきたいのだが、オリオンズファンにとって「大監督」であったが、就任して一貫、呼び方は「カネやん」だった。したがって金田監督のことは「カネやん」と呼称させて頂く。決して卑下するのではない。オリオンズファンの気持ちだとご理解頂きたい。我々ファンにとっては、やっぱり「カネやん」なのである。

 ある朝、起きて居間に行くと、いつもならば慌ただしく出勤の準備をしている父が身支度を整え、スポーツ新聞を読み入っていた。「どうしたの?」と聞くと「カネやんがロッテの監督になるんだって」と父。起き抜けで頭が回らない私は事態が呑み込めない。もちろん、投げている姿を生で見た記憶はないが、カネやんこと金田正一氏の功績も名前も知っている。何せ、数日前に家族揃って見ていた『特ダネ登場』(日本テレビ系番組)に出ていて、カネやんの話しをしたばかりだった。私の中では、すでに「テレビに出ているタレント」というイメージで固まっていた。どうにもこうにも、その人とロッテの監督がつながらなかった。

 1972(昭和47)年、重光武雄オーナーは水面下でオリオンズの改革を考えていた。そして、個人的につながりのあるカネやんと接触していた。カネやんは日本球界唯一の400勝投手。プロ野球の各国トップリーグの中でもメジャーのサイ・ヤングの511勝、ウォルター・ジョンソンの417勝に次ぐ世界歴代3位。左腕投手での通算400勝は世界唯一だった。そして、その豪放磊落な性格から球界に君臨していた。引退後は野球解説者としてだけではなく、テレビなどでタレントとしても活躍し知名度は抜群だった。

 重光とカネやんのつながりは首都圏で発行されていた朝刊紙「東京タイムス」(1992(平成4)年7月限りで新聞としては休刊)のつながりだった。カネやんは東京タイムスと契約していたが、その東京タイムスにロッテは資本参加していた。その縁でカネやんの個人会社を重光は支援していた。
 重光はオリオンズの現状をカネやんに相談したと言われている。
「自分が監督として絶対に盛り上げる。ロッテの知名度も上げる」。
カネやんの言葉に重光の心は動いた。特に30万人に落ち込んでいた観客数を上げ、本社のイメージアップを図るには、残念ながら、大沢体制では明るい見通しが立たないことは明らかだった。ただ、相当の資金が必要だ。後年、カネやんは「提示額は3,000万円だったが、絶対にロッテの知名度を上げるからケタを増やしてくれと言ったんや」と冗談めかして明かしたが、それ相応の金額を用意した。重光は「億の金を積んでも獲得する価値の有る男」とカネやんのことを評価していた。カネやんの知名度と求心力に賭けることを重光は決断したのだった。
 
 10月に入ると、新聞に「ロッテの次期監督候補にカネやん」と名前が出た。この時、オーナーの中村長芳はパ・リーグの維持のために奔走していたことは前項に記した。その中村に事の一切は知らされていなかった。中村がオリオンズオーナーを辞して福岡に行く決断を下したのも、こんな事情が影響していたのかも知れない。
 間で振り回され、結局辞任することになった大沢啓二監督は「フロントというのは現場を機関車に例えれば線路になってくれねえといけねえ。それがここには枕木もねえや。線路はグニャグニャのコンニャクだった」と皮肉を込めてコメントした。

 そして、11月7日に金田正一監督の就任を発表した。カネやん自身は渡米中だったため、正式な契約と就任会見を行ったのは17日だった。『史上初のタレント監督』の誕生だった。
 その就任会見で早くも「カネやん節」が炸裂している。
「野球界に金田旋風を巻き起こすつもりや。ワシが体で覚えた野球をやっていくまで。他人様からバカや、あほうやと陰口をたたかれてもワシは平気や。どっちみちワシ自身球界の問題児。マスコミに書かれんようになったらおしまいや」
会見会場に詰め掛けている記者たちから、何度も笑いが起きたと言う。そして、トレードについても
「川上さん(巨人・川上哲治監督)にお願いして2、3人の選手をもらいにいくつもりや」
と発言し、選手の名前も出したそうだ。名前を出された選手はたまったものではなかっただろう。

 そして、この日を境にオリオンズを取り巻く環境がガラッと変わった。連日、新聞にオリオンズの記事が出る。テレビのニュースも「カネやんがこう言った」「カネやんがこうした」とオリオンズの露出回数が突然増えた。学校でも、昨日まで「キワモノ扱い」だった同級生が急変、色々情報を聞いてくるようになった。不思議なもので、全く興味を示さなかった東京球場の話しも聞きたがった。母が同級生のお母さんたちに会うと「球場に見に行くんだってねえ」と何度か言われたという。「ウチにもカネやん効果が出たわね」と笑った。

 カネやんの監督としての初仕事は11月21日のドラフト会議だった。当時のドラフトは、まず予備抽選を行い、その順番で本抽選のくじを引き順番を決め、順番に選手を指名していった。現在のように、同時指名して抽選などという制度はなかった。あくまでも順番に選手を指名して行くだけだった。
 その予備抽選でカネやんは「1番」を引いた。「おっ、やったで!」と笑みを見せた。ところが、本抽選を1番最初に引いたカネやんは、封筒の中身を見て、机をバタバタと両手でたたき悔しがった。
「ロッテ12番」
会場は爆笑の渦となった。
「ワシはやっぱり派手な男やのう。予備で1番を引き当てて、本番で12番を引くなんて、両極端をいったのはドラフト史上、ワシが最初で最後やないか」。
 ちなみに、このドラフトで2位に指名したのは三井雅晴だった。

 かくて、カネやん劇場の幕が開いた。ロッテオリオンズは注目される球団として、新しい時代に突入していく。

(2)東京球場、その後もあった買収話

解体工事が始まった東京球場・・・

 カネやんのドラフトデビュー2日後の23日朝、再び衝撃的な事態を知る。出勤する父が一言「ロッテ、東京球場でやらないんだってよ」。えっ? 東京球場はロッテのものであり、ロッテと東京球場は一体のはず。慌てて新聞を広げて読んだが、簡単には理解出来なかった。「もう、球場でロッテが見られないのか。仙台なんか行けない…」と落ち込んだことを覚えている。
 ただ、数日後、ロッテは仙台で数十試合やるものの後楽園球場、神宮球場、川崎球場で試合を行うという。川崎球場は同じ神奈川県内で何度か行ったことがあった。それだけに「逆に今より見に行く回数が増えるかもな」という父の言葉に、飛び上がって喜んだ。

 その東京球場だが、カネやんの「あんなホームランの出やすい球場は使えん」という一言であきらめたと言われているが、実際には、カネやんが就任する前、すでに交渉は暗礁に乗り上げていた。

 東京球場は正式には株式会社東京スタジアムが所有し運営していた。大映の子会社になる。1971(昭和46)年度で累積赤字は約15億円あった。そして、翌72(S47)年には、小佐野賢治国際興業社主に経営権が渡っていた。
 オリオンズ側は引き続き賃借契約を前提に交渉を重ねたが、その小佐野は採算性と解体に5億円を要することから球場のままでの買取を要求。何と「45億円」を提示した。
 1962(昭和37)年に永田雅一が建設に投じた費用は、土地収得費10億円、建設費20億円の計30億円だった。11年が経過しているが、あまりにも高額だった。
 ただ、小佐野は強気だった。「球場よりも実入りのいいアパートに転用したい。もしロッテさんが東京球場を本拠地として使いたければ買収してほしい。それがダメなら貸すわけにはいかない」とロッテ側の賃借契約という申し入れを突っぱねた。そして「私なら5分で買うのになぜロッテは買わない?」と疑問を呈した。しかし、重光は「野球場で45億のカネは使えない」と東京球場の使用を断念した。前述のカネやんの一言も最終的に断念した理由の一つではあろう。
 小佐野はロッテが絶対に買ってくれるものだと思っていた様だった。なぜならば、東京球場を失うことは、興行が成り立たなくなると考えていたはずで、実際にオリオンズが断念すると、自らが口にした「球場よりも実入りのいいアパートに転用」を実行せず、翌73(S48)年末には、野球場のまま、所有権を竹中工務店に譲渡しているからだ。

 表には出ていないが、竹中工務店に譲渡された翌74(S49)年にも、オリオンズへの買取の話があったという事を聞いたことがあった。後年、知り合ったオリオンズファンの竹中工務店勤務の友人から事の顛末を聞いた。
 「小佐野さんはロッテが買ってくれると踏んで永田さんから球場を預かったんだろう。ただ、投資家だから高値で売り抜ける事しか考えていなかった。45億円あったら新しい球場が作れるよ(笑)。ロッテが話を断って目算が狂ったんじゃないかな。結局ロッテとの話が流れて、譲渡された理由は分からないが、建設時に施工した竹中工務店が所有した。多分、施工金額の不払いがあったのではないかな。竹中は改めてロッテに買取を持ち掛けてるんだよね」。
 この話を聞いた時、ロッテは買い取るチャンスだったのにと思った。しかし、今だから言えることで、当時の状況では躊躇したのも仕方がないかなとも感じた。
 「手直しが必要だったから、竹中に改装を任せれば、それなりの金額、20億円を切る金額で手にすることが出来たはず。球場の狭さだって外野席を削って改装すれば良かった。外野席を大幅に削ってもゴンドラシート部分の一部を客席に改修すれば、着席で3万人の収容は確保出来たはず。川崎は実質着席で2万5千人いかないでしょ。竹中にしても球場のまま手放した方が良かったんだから」。
 しかし、ロッテ側は年間赤字額が5,000万円と言われていた維持管理費で二の足を踏んだという。カネやんブームで観客が増えたとはいえ、東京球場でもお客さんが入るという保証はなかったからだ。かつてのように閑古鳥が鳴くスタンドに戻る可能性さえある。球場運営会社を作り、運営していく冒険は出来なかった。
 「今、考えたら勿体なかったね。今でも荒川区はもとより、隣接する足立区、北区、台東区にはあんな大きな器はない。ボーリング場だってイベントホールで稼働したと思う。今だったらネーミングライツもあった。ただ、当時は『球場は借りるもの』(年間数百万円)という認識だったし、球場で稼ぐなんて発想は無かったからね」。
 その後、パ・リーグから各球団オーナー連名による使用要請の嘆願が出されたりしたが、1977(昭和52)年3月に東京都が跡地を取得し、4月から解体工事が始まり東京球場は消えた。

 ちなみに、4年後の1978(昭和53)年完成の横浜スタジアムは球場建設費が約49億円と言われている。土地は横浜市のもので、安価だが賃料が発生している。2015(平成27)年、横浜DeNAベイスターズが株式会社横浜スタジアムに対する友好的TOBを仕掛けた費用は約47億円と言われている。意見は分かれると思うが、45億円は論外として、竹中工務店が提示した状況ならばお買い得だったのではないかなと思う。
 現在、マリーンズを含め、ほとんどの球団が球場収入を得ている。当時の準本拠地宮城球場も楽天が70億円の改修費を負担し、指定管理の指定を受け、球場を運営している。球場の設備が最先端だったが、時代も少し早かったのかも知れない。

 ただ、胸を張って言えることは、今の時代に存続していても、間違いなくトップレベルの野球場だったということは間違いない。

 さて、東京球場を失ったカネやんロッテオリオンズ。野球協約にある『保護地域』(いわゆるホームタウン)を東京都に残したまま、後楽園球場、神宮球場、川崎球場を借りてホームゲームを開催することとなった。しかし、後楽園は読売ジャイアンツと日拓ホームフライヤーズの本拠地、神宮は学生野球のメッカ、川崎は社会人野球のメッカということもあり、消化しきれない。そこで、1973(昭和48)年にナイター設備が完成していた「県営宮城球場」(現・楽天生命パーク)で消化することになった。現在の東北楽天ゴールデンイーグルスの本拠地である。

 しかし、当時は東北新幹線は未開通(大宮-盛岡の暫定開通は1982(昭和57)年)で、特急の「ひばり」で上野-仙台間に約4時間を要し、本数も1時間に1本だった。仙台空港はあったものの、仙台-羽田便が主力で、仙台-大阪直行便も仙台-福岡直行便も無かった時代である。パ・リーグが関西に3球団と東京、福岡に1球団であったことを考えると、完全な本拠地とは出来ない交通事情があった。

 まず初年度は、ホームゲーム65試合のうち、後楽園7試合、川崎18試合、神宮10試合、宮城26試合。後期球場未定4試合で日程が発表された。前期は川崎、後楽園、宮城。後期は神宮、宮城(後日発表され静岡・草薙2試合、京都・西京極2試合)という日程だった。

 カネやんの監督就任で一気に注目度が上がったオリオンズだったが、「ジプシー」と呼ばれた試合日程も注目を集める要因となった。

(3)衝撃、驚きのカネやん球場初観戦

球場では盛り上げに一役買ったカネやん

 とにかく、ロッテオリオンズを取り巻く環境が激変した。私にとって、1972(昭和47)年と73(昭和48)年は、戦前と戦後、江戸と明治、それほど劇的に変化を感じた年となった。今回は「驚いた」「衝撃」という言葉がいくつも出て来るが、ご容赦願いたい。

 そのオリオンズだが、キャンプに入ると連日、テレビのニュースでキャンプの様子が伝えられた。カネやんがファンサービスで、鹿児島に新婚旅行で来たカップルのコースにロッテキャンプを加えてもらい、グラウンドで記念写真に収まった。その様子は、何度も何度もテレビで放映された。カネやんもインタビューに答えるたびに「木樽がいい」「成田はやってくれる」「有藤の調子がいい」「池辺が切り込み隊長」など、選手の名前がポンポン飛び出して来た。わずか4ヶ月前までは全く見向きもされないチームだった。選手の名前もファンの私ぐらいしか知らないだろう。その名前がポンポンとテレビで出て来るのである。何とも言えない変な気持ちに陥った。小学生の私には喜びとともに戸惑いが強かった。

 そして、オープン戦だったのか、公式戦だったのかは覚えていないが、テレビでロッテの試合を見て驚いた。ユニホームのデザインが全く変わっていたのだ。斬新だった。前年までは白地に胸部に赤い文字で「LOTTE」だったのが、同じ胸部に「LOTTE」なのだが、赤い文字が紺で縁取りされ、カッコよくなっているのだ。デザイン的には赤と青のラインが入っただけなのだが、全く別のチームになっていた。

 開幕すると、オリオンズは開幕から4連敗を喫したものの、8連勝して勢いに乗る。見に行きたくて、見に行きたくてうずうずしていた。念願叶ったのはゴールデンウィークの川崎球場。4月29日の南海戦のダブルヘッダーだった。

 球場正面に着いてまず驚く。チケット売り場に長蛇の列が出来ているのだ。子ども会の特典は引き続きあったので、私は子ども会窓口でチケットを交換してもらったのだが、チケットを見て再び驚いた。選手の顔写真が刷り込まれているのだ。
 改札口でチケットの半券をちぎってもらうとまたまた驚き。「ラッキーカード」「選手の顔写真のメンコ」「カネやんのシール」そして「ロッテ製品の詰め合わせ」と次から次へとプレゼントがもらえた。東京球場時代も「ラッキーカード」があったが、当たったことがないので何が賞品だったかは知らない。一緒に行った父によると、当たりの確率も高くなったそうだ(この年何度か当たり、ロッテのお菓子をもらった)。
 お菓子は「折角、お菓子会社が球団を持っているのだから、ロッテという名前を徹底的に植え付ける」というカネやんのアイデアだったそうだ。

 スタンドに到着すると、ちょうど南海の選手のバッティング練習中。ロッテの選手は誰もいない。ただ、ベンチの前で何やらゴチャゴチャやっている。見ていると、選手が出てきて並んでいる人たちと記念写真を撮っていた。先着で参加出来る企画だった。

 そして、選手が登場した。ベンチ前でキャッチボールを始めたが、そのユニホームは鮮やかだった。数ヶ月前と同じチームで見慣れた同じ選手なのだが、初めて見るユニホーム姿に衝撃を受けた。

 いよいよ試合開始。1回表の守備を終えてロッテの攻撃になると、スタンドが沸き上がる。一塁のコーチスボックスにカネやんが登場する。まず、スタンドに向かって帽子を取って一例。「お客様は神様です」。カネやんがよく口にした言葉だった。かつて、歌手の三波春夫が口にして流行ったということを知ったのは後年たってから。この時はカネやんが流行らせた言葉だと思っていた。そして、屈伸運動からの「カネやんダンス」だ。まだ、攻撃前なのにスタンドは大盛り上がりだ。

 このカネやんの一連の行動は社会ブームにもなっていった。驚きの言葉を連続して綴っているが、少しでも衝撃をお分かり頂きたいと思い、この写真をご覧頂きたい。

当時の人気雑誌「TVガイド」誌にカネやん登場、アイドルの桜田淳子さんが「カネやんダンス」

 時系列的に先のもの(8月)だがテレビ時代の必需品『週刊TVガイド』(東京ニュース通信社)の表紙である。TVガイドの表紙にロッテの監督がユニホーム姿で登場するのも驚きだが、当時のトップアイドル桜田淳子が「カネやんダンス」をしているデザインの表紙である。
 前年まで注目されない、閑古鳥が鳴いた東京球場しか知らない小学生にとって、どれだけ衝撃なことだったのか、少しでもお分かり頂けただろうか。

 衝撃はまだまだ続く。マスコミへの露出が突然増えたが、カネやん効果だけではなく、チームが劇的な戦いを続けていたのである。まず、勝ち方が奇跡的だった。なぜか、8回になると、同点、逆転をする。それは「ラッキーエイト」として、連日マスコミも騒いで煽った。今でも球場では7回の攻撃になると「応援歌」が流れ、ジェット風船を飛ばしたり(現在は新型コロナ禍の影響で自粛中)して盛り上げるが、ロッテのホームゲームでは場内アナウンスで「オリオンズ、ラッキーエイトの攻撃は」とアナウンスされていた。
(ラッキーエイトについては「(7)伝説の『ラッキーエイト』を検証する」で詳しく記す)

 シーズンに入ると、連日のマスコミの報道にも慣れて、逆に扱いが小さいと「何だよ小さいなあ」と悪態をつくようになっていったが、今度は身の回りで衝撃が走る。愛読書だった『週刊少年ジャンプ』(集英社)に連載中の『アストロ球団』(原作・遠崎史朗、作画・中島徳博)がロッテオリオンズと戦うことになり、成田文男やら木樽正明やら有藤道世やらが登場したのだ。当時、私の周りではジャンプが一番人気。友人たちも私にどんな選手か聞いてくる。学校の机にロッテのガイドブックを忍ばせて、友人たちに説明する時には、それを見せて説明していた。さすがに「有藤は防弾チョッキを着ているのか?」とか「成田はビーンボールを投げるのか?」(ストーリー展開でその様な場面が出て来る)には、苦笑して否定するしかなかったが。
 『週刊少年キング』(少年画報社)には『おれとカネやん』(原作・梶原一騎、画・古城武司)という連載が始まった。ただ、こちらはオリオンズの選手が出て来ないので、ほとんど読まなかった。
 カネやんを中心に様々な媒体にオリオンズが露出したが、やはり、小学5年生の子どもにとっては、マンガにオリオンズが登場することが一番身近に感じた。

人気の週刊少年ジャンプ誌「アストロ球団」にロッテナインが登場

 あともう一つ。ラジオで『カネやんの監督日記』という番組が始まった。確かニッポン放送だったと思う。平日午後5時50分からの10分程度の番組だったが、カネやん自ら電話出演した。当時の試合開始は午後6時30分。その直前である。何せロッテファンが試合の途中経過を知るには、巨人戦のラジオかテレビで途中に入る経過で知るしかない時代である。試合前に、球場で発表されるよりも早く先発投手を監督の口から聞ける、ファンにとっては夢のような番組だった。

 さて、親にせがんでゴールデンウィーク中に再度川崎球場へ行くのだが、そこでは異様な雰囲気の試合を目撃することになる。

(4)太平洋との「遺恨試合」騒動1 ~昭和48年編~

平和台球場でベンチに戻り、ゴミで暖をとるオリオンズナイン

 4日前に引き続き、2度目の観戦となった5月3日。この日は父と二人で川崎球場に出かけた。首位決戦ということで午後5時頃球場に到着。前回同様、様々なプレゼント商品をゲットしてスタンドへ行くも、良い席はほとんどなかったので上段で観戦した。
 ただ、球場の雰囲気は子どもでも感じるほど違っていたことが分かった。4日前に今シーズン初観戦した南海ホークス戦とは明らかに違っていたからだ。

 この年、ライオンズの窮地を救うべく、受け皿である「福岡野球株式会社」を立ち上げ、球団を存続した中村長芳はオリオンズのオーナーだったことは前述した。オリオンズのフロントにいた坂井保之渉外部長は球団社長兼代表として、スカウト部長からアメリカ・マイナーリーグ(1A)のローダイ・オリオンズ(現在のランチョクカモンガ・クエークス)のGMを務めていた青木一三は取締役専務として福岡に移っていた。いわば、太平洋クラブライオンズのフロントは、オリオンズのかつての仲間だったのだ。
 その中村は、福岡で活動直後から苦しむことになる。坂井の著書によると、使用する予定だった平和台球場から使用を拒否された挙句、西鉄時代の数倍の使用料を言い渡されたり、福岡市内の有力企業から相手にされなかったりと暗雲が立ち込めたと言う。

 そんな状況の中、青木がカネやんに「遺恨の演出」を依頼した。青木は自著『プロ野球どいつも、こいつも…』(ブックマン社)で明かしている。
 「博多では悪役に徹し、ファンを刺激してみてくれないか」。
 もちろん、青木も当初は軽い気持ちで持ち掛けたのだろう。オリオンズはカネやんの監督就任で注目度は上がっていた。話を聞いたカネやんも快諾したと言う。太平洋クラブの監督は西鉄のエースだった稲尾和久だった。カネやんとは仲が良いい。開幕戦は平和台での太平洋クラブ対オリオンズだったこともあり、開幕直前には「二人で舌戦をして盛り上げよう」と話していた。

 その開幕戦、スタンドは21,000人の観衆が集まった。試合は追いつ追われつの展開。結局、太平洋クラブがサヨナラでオリオンズを降した。その後、両チームとも開幕ダッシュ。4月を終えて太平洋クラブは10勝3敗と首位に立つ。オリオンズは開幕4連敗スタートだったものの、そこから10連勝して10勝5敗の2位で太平洋クラブを追いかけていた。
 そして迎えた川崎球場でのゴールデンウィーク3連戦だった。ここから「遺恨の演出」は大きく違う方向に動いていく。
 5月1日の1回戦、木樽正明の完投で4-1でオリオンズが勝利した。これでゲーム差は0になった。そして試合後のカネやんのコメントが記事になる。
「いくら強いと言ったって、去年と変わっているわけやない。選手を見てみいな。ノンプロやないの。ビュフォード1人だけや。それだけで、どうしてそんなに変わることができるんかいな。客がいなかったらカスみたいなチームや。スタンドの勢いに乗っとるだけや。それにつられてやらにゃいいんだ」
太平洋クラブのファンが目にしたら、カチンとくるコメントだったと思う。

 翌2日は中止となっての2回戦は3日の太平洋クラブ戦となった。カネやんのコメントはやはり太平洋クラブのファンの間に広がっていた。試合前から三塁側は太平洋クラブのファンで一杯だった。4日前と違う雰囲気は子どもでも分かった。試合開始前、カネやんがグラウンドに出て来ると、三塁側から激しいヤジが飛んだ。ブーイングではない、ヤジなのだ。その太平洋クラブのファンが一塁側にもいた。ロッテファンの中で罵声を浴びせていた。

 試合はロッテが優位に進めた。4回裏に一挙7得点の猛攻。5回を終わって11ー2とワンサイドゲームになった。オリオンズが勝つと、太平洋クラブに代わって首位に立つ。オリオンズファンの歓声に圧倒され、一塁側にいた太平洋クラブのファンもいなくなっていた。
 太平洋クラブのファンにしてみれば、黒い霧事件から低迷し西鉄が身売り。代わった球団が開幕ダッシュを決め、65試合の短期決戦となっただけに優勝の文字も見えてきたところ。その試合でのワンサイドゲームに怒りは頂点に達したのだろう。加えてカネやんのコメントである。三塁側のファンの怒りは「ゴミの投げ入れ」という行為に発展する。
 大差がついた5回ぐらいからだったろうか、ゴミの投げ入れが始まった。再三アナウンスでゴミを投げないように呼びかけるものの止まらない。イニング間に関係者がゴミ拾いに出るが、すぐたまった。三塁線のラインから内側に度々ゴミが投げ込まれ、そのたびに三塁の有藤通世が拾う。7回ぐらいになると、投げ入れられたゴミがたまり、関係者が拾うだけでは追いつかなくなった。三塁側のベンチ沿いに10人ほどの警官が並んだ。その中で試合が続行する。もう異常な風景である。
 8回に再び試合が中断したところで球場を出た。父が「ロッテの帽子をしまいなさい」と帽子を隠し、私を抱くようにして帰路に着いたことを覚えている。

 そして12-2とオリオンズが大きくリードして迎えた9回表、ついにライン内にもゴミが入り、有藤がヘルメットをかぶり、いつもの位置ではなく、ショート寄りに守った。レフトの江島巧も同様にセンター寄りに守った。すると、三塁ベンチの稲尾監督は、がら空きの三塁線へのバントを指示した。
 このバントに対して、カネやんが激怒した。
「そんなに勝ちたいか。乞食野郎め!」
「コラァ、サイ(太平洋・稲尾和久監督の愛称)! このどん百姓!」
三塁側の稲尾監督へヤジで抗議する。それでもバントだ。結局、この回太平洋は5点を奪ったが、12ー7でオリオンズが勝利した。

 試合後もカネやんの怒りは収まらない。
「球場の椅子を折って、プラスチック片をブーメランみたいに選手に向けて飛ばしよるんだ。危ないなんてもんじゃないぞ。ビンや空き缶まで飛んでくる。これが野球ファンかい。ワシの求めていたファンはこんなもんじゃない。もし選手に当たってケガでもしたらどないすんのや」
 怒りの矛先はバントを指示した稲尾監督にも向いた。
「命を危険にさらしているというのに、その前に2つもバントしよった。恥ずかしいことを知らん。自分のチームを応援しているファンが騒いでいるのに、そのチームの監督がそっぽを向いている。あきれはてた野郎や」。
 とりあえず、オリオンズは首位に立ったが、カネやんの怒りはそれどころではなかった。

 次の直接対決は6月1日から3日の平和台での4連戦だった。時間が1ヶ月空くことから、落ち着くと思われた。しかし、4連戦の1週間ほど前、太平洋クラブフロントが再び火を点けてしまった。
 「金田監督は九州のファンは田舎者で、マナーを知らないと発言した。我々はこれを容認できません。球団としてロッテ球団に厳重に抗議することにしました」。
 6月1日、平和台球場は31,000人と満員になった。運営に苦しむ太平洋クラブフロントの狙いはこれだった。しかし、場内のファンは、ほぼ太平洋クラブファンである。試合前から殺気立っていた。カネやんは「営業政策上、いろいろキャッチフレーズをつくるのはいいで。でも、あんまり球団の政策が悪すぎる。ワシの言ったことがうまく利用されてしもうた。こんなはずじゃなかった。話がつくられた」とカネやんは苦言を呈した。

 試合は鬼頭洋-近藤重雄-木樽正明の投手リレーで5-2でオリオンズが勝利した。太平洋クラブが劣勢になるとゴミが投げ入れられた。スタンドでは小競り合いが起きていた。
 今度は試合後に事件が発生した。観客が球場を取り巻いた。球場への投石もあった。オリオンズナインが球場から出られなくなり、騒ぎが終わるまで通路に避難していたオリオンズナインは、スタンドからファンがいなくなるとベンチに戻り、金田監督がゴミを集めて火をつけた。
「とにかく情けない。ワシの人生経験でも、こんな不愉快なことはなかった。野球は楽しくやりたいと思っているのに」
 最後は機動隊に守られ、護送車で球場を出たのは、午後11時30分を過ぎていた。

機動隊に囲まれて球場を出るオリオンズナイン

 翌2日はダブルヘッダーを1勝1敗、3日は太平洋クラブの勝利。殺気立った雰囲気は同じだったが、警官の動員を増やし、試合後の動線もがっちりガードすることで騒ぎは大きくならなかった。
 その後、太平洋クラブが首位争いから脱落したこともあり、事態は収束していった。

 この年収束した遺恨だったが、翌1974(昭和49)年、当時の選手によれば「2年目の方がえげつなかったなあ」と話す事態が再び勃発する。それは後編で。

(5)ジプシー・ロッテ「準本拠地・宮城球場」

宮城県営宮城球場当時の正面(写真は1975(昭和50)年頃)

 準本拠地として1973(昭和48)年は25試合を開催することになった宮城球場だが、実はオリオンズとの縁は古い。宮城球場は1952(昭和27)年に開催が予定されていた第7回国民体育大会(宮城県、山形県、福島県の3県共催)のメイン会場として、隣接する陸上競技場とともに1950(昭和25年)に竣工した球場だった。この年は2リーグ制がスタートした年。こけら落としでゲームを行ったのは、毎日オリオンズ対南海ホークス、毎日オリオンズ対大映スターズの変則ダブルヘッダーだった。
 この時、人が殺到して事故が起きている。前夜から人が詰めかけ、夜中には数千人が球場前で徹夜したほどだった。ところが、入場時に将棋倒しが発生し、また、入れない人がフェンスを乗り越えようとしたところ、そのフェンスが倒壊するという事故が重なって発生、死者3名、負傷者30名が出た。
 それでも何とか試合は開催。第1試合の毎日オリオンズ対大映スターズは3-1で、第2試合の毎日対南海ホークス戦は2-1とオリオンズが連勝した。主催者発表の観客数は50,000人だった。こけら落としの試合が毎日と大映だったことに、オリオンズファンにとっては縁を感じる球場だ。

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