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◆レビュー.《リサンドロ・アロンソ監督作品『約束の地』》

※本稿は某SNSに2020年3月18日に投稿したものを加筆修正のうえで掲載しています。


 リサンドロ・アロンソ監督作品『約束の地』見ました!

リサンドロ・アロンソ監督作品『約束の地』

 『ロード・オブ・ザ・リング』のヴィゴ・モーテンセンが製作・音楽・主演を務め、『ル・アーブルの靴みがき』のアキ・カウリスマキ監督とタッグを組んでいたティモ・サルミネンが撮影監督を務める8各国合作!カンヌ映画祭批評家連盟賞受賞の話題作です!


<あらすじ>

 舞台は1882年、チリとアルゼンチンにまたがって南米大陸の南端に位置するパタゴニアにて。

 アルゼンチン政府による原住民掃討作戦下のとある荒野の真ん中の野営地には、デンマークから技師のディネンセン大尉が、愛してやまない一人娘を一緒に連れ、野営地の土木作業の指揮を取りに来ていた。

 ある日、娘がディネンセン大尉の従者と一緒に駆け落ちしてしまう。

 大尉は馬を駆って単身、娘の後を追って荒野を駆ける。

 娘を追ううちに、彼女と一緒に駆け落ちしたはずの従者が瀕死の状態で見つかる。

 どうも地元のインディオに襲われたらしい。娘はどこか尋ねても、彼は既に声も出ない状態であった。

 大尉が従者の首をサーベルで切り付けてとどめを刺している間に、地元のインディオに大尉の乗っていた馬を盗まれてしまう。

 この低木と下草しか生えていない茫漠とした大地の真ん中で、彼は娘を追うための足も、野営具をも失ってしまったのだ。

 大尉は見渡す限りの荒野を一人、娘のために延々と彷徨い歩くのだった。

 やがて彼は、岩山の中腹で、水たまりに浸かって蹲っている犬に出会う。

 犬は、まるで大尉を導くように岩山を案内していく。

 犬は、岩の裂け目にできた洞窟に住むある奇妙な老婆の元に大尉を連れて行った。妙な老人だ。

 彼女は大尉に、奇妙なことを言い始める。まるで自分が大尉の「実の娘」でもあるかのように……というお話。


<感想>

 こりゃまた随分と説明を省きに省いた映画だなあ。物語自体は粗筋を見ても分かる通り、実にシンプルに出来ている。
 この物語の三分の二の辺りまでは、ほぼ「駆け落ちした娘を追って荒野を探し回る父親」というシーンばかりだ。

 この作品の多くは南米の荒野で男が彷徨っている映像でしめられている。

 この作品の煽り文句に付けられている「幻想的なロードムービー」という言い方は、確かに的を射ている。
 物語の三分の二はロードムービーであり、ラストの三分の一は、実に謎めいた思わせぶりなセリフと、唐突な場面転換と、これまた何も説明しない、唐突な幕切れ、というものとなっているのだ。

 しかし、本作の舞台の南米パタゴニアというのは、荒涼としていながらも広大な自然が広がっていて美しい。この映画の目的のほぼ半分は、この大地の美しさを存分に楽しむためにあるのだろうと思う。

 また、フィルムも実に個性的だ。四隅が丸くカットされた正方形の35㎜フィルムでの撮影という独特なこだわりの映像。

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 普段、テレビ番組でも映画でも、横長の長方形の画面を見慣れているためか、「正方形の画面」というのは、画面の左右を切り詰められているかのような印象がある。
 それは「カメラのフィルム」というよりかは、むしろ「何か秘密の穴から覗いている」かのような印象があって、なかなか面白い効果があると思う。

 因みに本作の原題は『Jauja(ハウハ)』。これには映画の冒頭のシーンに注釈がついてくる。

「古来『ハウハ』は、豊穣と幸福の地と言われ、多くの者がその地を目指した。そして、世の常であるように、時を経て伝説は膨れ上がっていった。だが確かなことが一つ、その楽園に辿り着いた者はいない」という。

 この「ハウハ」という原題はどうやら「誰一人辿り着く事のできない楽園」といった意味のようだ。
 このタイトルは「どんなに彷徨っても辿り着く事の出来ない愛娘」を追い続けるディネンセン大尉のイメージと微妙に被るものがある。

 だとすれば、本作のテーマは「追っても追っても辿り着けない楽園」だろうか?

 そう考えると、本作のメイン・キャラクターはいずれも、ディネンセン大尉と同じように大切な人との別れを経験している事に気が付く。

 父親は、愛する一人娘に駆け落ちという形で逃げられ、一人荒野を彷徨う事となる。

 娘と駆け落ちした若い従者は、愛の営みのあと女に逃げられ、ひとりで死ぬ運命にあった。

 娘は新たな男と結婚して洞窟の中に家庭を持つが、男はやがて蛇に噛まれて死んでしまう。

 娘は晩年、時空の彼方で父と再会し、母はどうなったのか尋ねる。「ずっと知りたかった」と。

 母は、娘を生んだあと姿を消してしまったのだという。

 父も、娘も、従者も、妻も夫も、みな全て愛する家族と離れ離れになっていたのだ。

 ……いつの日か、大尉の娘は時空を超えて現代に転生していた。あるいは、これは全て夢だったか。

 彼女がベッドから降りて庭に行くと、彼女が過去生の時に友達だった「犬」を飼っていた。
 娘は過去生において父に「犬を飼うとしたら"私の傍を離れない犬"がいいわ」とおねがいしたものだった。
 過去生から傍を離れないのはこの友達である犬のみだったか……。

 だが、彼女がその犬を森に散歩に連れ出すと、やはり最後はその犬も娘を置いて森の奥へと走り去って行ってしまった。

 けっきょく「家族は消え去る運命にある、長い時とともに」。

 ラスト・シーンで娘は、過去生から現生にまで自分に着いて来ていた唯一のもの……兵隊の人形を自ら池に放り投げ、自ら「愛する者」との決別を告げるのだった。

 ……かくして娘への愛と執着をなくすことのできないディネンセン大尉のみが南米の荒野に一人取り残され、呆然と一人膝を落とし「分からない」と呟くのだ。

 愛する者は全て、この人生という果てしなく広大で荒れ果てた大地にのまれて姿を消してしまう。

 娘は、父から逃げ、一緒に駆け落ちした従者とも別れ、愛する夫とも死に別れ、時空を超えた現生まで着いてきてくれた犬にまで去られてしまう。

 みな自分の前からいなくなっていく。愛する者を追っても、辿り着けないのだ。

 愛する者を必死に追っていったとしても、最終的には荒野のど真ん中で一人絶望するしかない。

 愛する者とは、いつか必ず別れが来るものだ。そういうものだ。だが、それが運命で「それで良い」としか言いようがない。

 やはりあの謎の老婆の正体は、全ての愛する者たちとの別れを経験した女の晩年の悟りきった姿なのか。

 荒野に老婆の問いかけが響き渡る

 「「「「人生を動かし前進させるものは何か」」」」

 ディネンセン大尉は膝から崩れ落ちながら呟く。「分からない」と。

 愛する者の待つ「約束の地」は何処?
 「分からない」。

 ハウハは何処?
 「分からない」。

 どこを探しても荒野だけ。

 「約束の地」は、誰にも辿り着けない幻でしかないのか。

 この物語の時系列と因果関係を整理すると、やっとこんな感じのテーマが浮かび上がってくる。

 全編に渡って現れているものは、美しくも荒涼たる南米パタゴニアの光景であり、ままならなくて悟りにも諦めにも似た乾いた感情を浮かべる登場人物たちの時空を超えた人間模様。
 変な映画だったってのは確かだなあ。


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