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◆読書日記.《『シュルレアリスム読本3 シュルレアリスムの思想(思潮社)』》

※本稿は某SNSに2019年9月19日に投稿したものを加筆修正のうえで掲載しています。

 『シュルレアリスム読本3 シュルレアリスムの思想(思潮社)』読了。

シュルレアリスム読本3 シュルレアリスムの思想

 シュルレアリスム運動に関わる様々な人の手による論文集。

 前半は主にブルトンの思想とシュルレアリスム運動に関わる思想について。
 後半はシュルレアリスムの各ジャンル――音楽や写真、彫刻、演劇等に関わる思想についての論考を掲載している。

 本書の執筆陣はけっこう知らない人ばかりで、見た事のあるのは研究者の塚原史さんとか、芸術家の中西夏之さんくらいなものか。
 あとはブルトン、ダリ、ブランショ、ルネ・ドーマルなどシュルレアリスム運動に直接関わった人物らの翻訳文くらい。アルトーについて書いてる寺山修司も知っている人のうちか。

 本書は以前にもつぶやいた通り学生時代に購入して、ちらほらと気になるテーマだけを拾い読みしていたものだったのだが、こうして今回のように通読するのは初めて。
 通読してみて、ぼくにとってなぜブルトンが気に入らないか、という理由が何となく理解できたように思えた。

 これも以前つぶやいたが、ぼくはシュルレアリスムの「作品」については好きなのだが、その「運動の思想」についてはあまり関心がない。

 ご存知の方も多いと思うが、シュルレアリスム運動というのは、単なる芸術運動ではなく、政治思想や革命思想を含んだ「人間の解放」を目指す総合的な「思想運動」でもあった。

 その中でアンドレ・ブルトンというのはイデオローグ(党派思想家)という位置づけで、作品作りと言うよりかは「活動家」として活発に動いていた、まさに「革命運動/思想運動としてのシュルレアリスムの活動家」としての中心人物だった。
 だから、ぼくはブルトンの作品自体に感動したことはいまだかつてなかった。
 かといって「思想家」としてもイマイチな感じがあって興味が惹かれることもなく、彼は完全に「政治屋さん」としてしか考えてはいなかったのだ。

 今回、本書を読んでみてこのブルトンという男の政治思想や芸術思想を詳しく知ったのだが、やはりさほど興味を惹かれない。
 思うに、ブルトンは活動家としても、トラブルを起こし過ぎたのでは?

 ダリやマグリットといった、未だに世界的に人気の高いシュルレアリストなどは、シュルレアリスム運動に参加しても軒並みブルトンと袂を分かった。

 戦後日本で言えば「岡倉天心/横山大観」的な「理論/実践」としての「実践」型のトップだったマックス・エルンストという才能さえ、ブルトンから離れて行ってしまった。
「芸術運動としてのシュルレアリスム」という観点では、どう見たってエルンストの離反は致命的だったと言わざるを得ないだろう。
 エルンストほど、ブルトンらのオートマティスムの考えを絵画やオブジェの形式に変換し、様々な手法を開拓していった人物はいなかったと思う。

 当初掲げた「シュルレアリスム第一宣言」にてブルトンが前面にプッシュしたオートマティスムの考え方も失敗に終わったと言えるだろう。

 ブランショまでもが「アンドレ・ブルトンは『対談』の中で、自動記述というあのやり方が明白に失敗しているにもかかわらず、その価値を再確認しているが~」云々と断じている。

 本書を読んだ収穫のひとつは、そんなブルトンがシュルレアリスム運動の仲間とともにフランス共産党へ入党した経緯と、ブルトンの革命思想の中身、そして、そのフランス共産党さえも袂を分かち、最終的に離党に至るまでのブルトンの動きの詳細を知ることができたという所だった。

 マルクスやレーニンを読んである程度共産主義思想については理解しているので、本書で説明されているブルトンの革命思想と、フランス共産党の共産主義思想との違いについてというのは、よく理解できた。

 ブルトンは共産主義に反感を抱いたわけではなく、当時勃興してきていた「スターリニズム」に反感を抱いたらしい。

 そもそもの共産主義の考え方は世界革命を成し遂げる事にあったのだが、当時のスターリニズムはマルキシズム思想がスターリン独裁に都合のよい「一国共産主義」に歪められていて、当時のフランス共産党はそのスターリン主義ソ連に都合のよい機関に成り下がっていたという事情があったようだ。

 ブルトンはスターリニズムよりもトロツキズムの永続革命論的な思想のほうに共感を寄せていたようだが、ブルトンのシュルレアリスム思想の核は、本当のところ真正の共産主義的な思想とは違っていたらしい。
 あくまで「世界革命という目的を同じくする者同士」という事で共産主義に名前を連ねただけだったようだ。

 ブルトンのシュルレアリスム思想の核には「内的にも外的にも人間を解放する」という目的があった。

「内的な人間の解放」というのがシュルレアリスムの芸術分野が中心となった活動となり、それがオートマティスムという手法に行き着く。
 論理や理性という人間の枷から解放する手法としてのオートマティスムだったのである。

 そして、「外的な人間の解放」としてブルトンが構想していたことが「革命」だったというわけだ。

 このようにして、外的にも内的にも人間を拘束するあらゆる枷から人間を解放することにシュルレアリスム運動の本当の意味があった。
 ブルトンにとって「芸術」というのは、その中の一分野にすぎなかったのだ。

 ブルトン思想は明らかに、このように内的にも外的にも挫折しているのだ。

 ぼく的には、ブルトンは詩人や芸術家というイメージはない。
 彼はぼくの中では完全に「活動家」だった。
 だからぼくはブルトンにはこれまで良い印象を持っていなかったのだ。

 しかし、ダリやマグリット、エルンスト、デルヴォー等といったシュルレアリスム作品のいまだ揺るがぬ人気と、それに対して忘れ去られた思想家ブルトンという比較をしてみれば、どちらがシュルレアリスムの成功者かというのも、すでに明白だとも言えないだろうか。
 ブルトンがいなくとも、ダリはダリだったろうし、必然的にマグリットもマグリットになっていただろう。


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