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◆読書日記.《日経BP社/編『日経テクノロジー展望2017 世界を変える100の技術』》

※本稿は某SNSに2020年1月26日に投稿したものを加筆修正のうえで掲載しています。


 日経BP社/編『日経テクノロジー展望2017 世界を変える100の技術』読了。

日経テクノロジー展望2017 世界を変える100の技術

 2017年度版のテクノロジー展望である。
 なぜ今2017年度版?と思われる向きもあるかもしれないが、ブクオフで200円で売っていて思わず読みたくなってしまったのだから仕方ない。
 読書にはこういうインスピレーションは重要だ。

 本書のレビューとは言え、一冊に近年話題になっている100種類の技術について詰め込むのだから、細かい技術的な事についての感想は書いていられない。

 内容的には浅く広く、といった形で教科書的に表面的な事をさらりと書き流していると言った印象がある。
 新聞にも良く載っている最新テクノロジー紹介記事と同じくらいの情報量の記事を100トピック集合させたのが本書、といった所だろう。

 しかし、これだけ毎年毎年巨大企業がしのぎを削って新技術の開発に勤しんでいるというのに、我々の生活がさほど「便利で過ごしやすくなった」という実感がわかないのはどうしてなのだろうか?

 日経BP社執行役員の寺山正一氏は本書の「はじめに」で「激動の2017年こそ、技術立国日本の底力を改めて発揮する転機の年になる、とみています」と書いている。

 それは何故なのか?

 今、開発や実用化が進んでいる先端技術の多くは、社会やビジネスの効率を上げるのみならず、人間一人ひとりとその生活に寄り添って、豊かで暮らしやすい社会を実現し、人々をより幸せにする、そうした力と優しさを兼ね備えつつあるからです。
      日経BP社/編『日経テクノロジー展望2017』より引用

 寺山氏はそう書き、新しい技術がいかに「人の生活に寄り添い、豊かで暮らしやすい社会にし、人をより幸せにする」かという事の証明として、本書の100種類の技術を紹介している。

 本書に一貫している姿勢と言うのは、そういうものだと言う事になる。
 これは吉本隆明的な「技術的楽観論」に近い考え方だろう。

 吉本隆明はある座談会で自分のスタンスを「技術的楽観論」だと述べていた。
 技術で発生した問題というのは、更に発展した技術によって解決しうる、というのが彼の「技術的楽観論」となる。

 本書も基本的にはこういった姿勢が強い。
 今開発中の技術が実用化されれば豊かになり、社会的に発展する事は間違いないという姿勢。

 つまり本書は、最近注目されつつある技術を「無思想」に取り上げ「中立的なスタンス」で紹介しているかのような見せ方をしているが、ハッキリと「裏の意図」が一貫して通っているのである。

 これらの技術に関する考察も本書の最終章に座談会形式で掲載されてはいるが、これもテクノロジーに対して楽観的な姿勢だ。

 これらの技術が実現すれば、いいことがあるに決まっている。問題はどこにあるというのか?――この技術を実現させるためにどのような壁があるのか、その壁を越え、そしてそれをビジネスとしても社会福祉としても活かしていくにはどうすれば良いのか、その方法を考えていかねばならない――という所に問題の所在があるのだそうだ。

 だがこれには、ぼくは懐疑的だ。

 座談会の最後の最後にやっと『ITpro』『ITイノベーターズ』編集長の戸川尚樹氏が「テクノロジーを使いこなすのは人。良識というのがキーワードでしょう。それを持っていないと危ない方向に行ってしまいかねません」と言っているが――この「良識」なるものは誰が持たねばならなくて、それはどうやったら持てるというのか?

 科学哲学的なスタンスで話をすれば、この「良識」にどの組織の誰が従ってくれるのか?誰がその「良識」を保証してくれるのか?というのが最も大きな問題だとは言えないだろうか。

 テクノロジーを利用する人物や組織に初めから「良識」を持って対応してくれるなんてことを期待するのは、とんでもない楽観的な見方ではないか。

 例えば、本書でも紹介されている近年の技術トピックの「ドローン」は、早くも軍事利用がされている。
 それ以外にも現在進行形で、あらゆる科学技術が軍事利用されている現状にあって、いったい誰がそれを止めてくれるというのか?
 こういった問題は、本書の執筆陣のような「技術を知っている人」が、まず真っ先に警戒して警鐘を鳴らさなければならない事ではないのか。

 スラヴォイ・ジジェクも言っているように、人類の科学技術が発展すればするほど「人類滅亡のシナリオ」に新たなメニューが追加されていくという事態を、そろそろ誰かが真剣に考えてくれなければならないのではないか?
 例えば核エネルギーなどは未だに人類滅亡の最も可能性の高い危険性を孕んでいると言えよう。「福島第一原発」の教訓は、もう本書では考慮に入れなくて良い過去のテーマになってしまったのか?
 そういった「科学の危険性」は、いったい誰が歯止めをかけてくれるのか?どういう仕組みを誰が用意してくれているのか?

 例えば、新たに追加されるであろう黙示録的な「科学技術」的シナリオは、本書で取り上げなくても良かったのであろうか? 本書でも取り上げられている「ゲノム編集」というのは、それにあたると先程上げたジジェクも指摘している。

 例えば、AIの暴走で人類が壊滅するシナリオを書いたのは『ターミネーター』シリーズだ。

 例えば、VR技術の「危険性」も無視できるものではないのではないか?
 今期のアニメ(※2020年当時)でも『痛いのは嫌なので防御力に極振りしたいと思います。』『インフィニット・デンドロビウム』等、VRゲームを舞台にした話は数多く作られているのだが、このVRの「負の面」に目を向けて真剣に考えた作品がその中に一つでもあったのか、ぼくは疑問だ。
 VR技術を悪用される事に警鐘を鳴らしたフィクションといのは、ぼくは一つしか知らない。この手のVRゲームを国内で最も早くモティーフに取り上げたミステリ岡嶋二人『クラインの壺』(1989年作)だ。これはミステリとしても近未来SFとしても傑作なので、是非とも実際のものをお読みいただきたい。

 VRの怖さというのはどこ辺りにあるのだろうか。
 これまでのTVゲームというのは遊んでいても現実とゲームの中の事を混同するということなどありえない「客観的な遊具」だったのだが、これがVRになると、確実に「道具を使った遊び」から「体験」に近づいていくという所にある。

 VRというのは「人間の知覚を錯覚させる」機能がある。
 その中でも注目されるべき技術は「多感覚統合」と言うやつで、分かり易く言えば「人間と言うのは自分に与えられた複数の知覚を統合して一つのもっともらしい解釈をしてしまう。その感覚の情報が矛盾していても、脳が辻褄合わせをしてしまう」というものだ。
 VRによって視覚を誤魔化す事で触知覚を変化させるという事もできると言われている。
 こういった事で何ができるようになる「恐れ」が考えられるか?――まずは「拷問」に応用される事はないかというのが気になる所ではないか。
 VRによって「痛めつける」という概念が根底から覆ってしまう。
 VRゴーグルさえつけさせれば、例え他人が指一本触れていなくとも対象者を精神的に追い詰めたり、ショックを与えたりと様々に「痛めつける」事ができるのではないか。そうなればアニメ『.hack』シリーズのようにショック死させてしまう方法もありえるのではないか。
 他人から見れば何が行われているのか全く分からなくとも拷問をすることができる。

 それからもっと可能性が高いのが、VRによる「洗脳」だ。
 先述したようにVRは「映像を見る」といった客観的な立場よりもずっと「実際の体験」に近くなるし、そうなるように知覚器官が騙される。
 『クラインの壺』で扱われる恐怖は、これに近い。

 このように、新たな技術が悪用されるということは、これまでに考えられなかった新たなる苦痛や恐怖、危機が生まれ出るという事でもあるのだ。

 この技術を主に利用するのは「良心」など期待できない資本主義的な「企業」だという事には十分注意したい。

 もっと危機を煽りたい分野はあって、例えば医療技術についても「技術によって病気を根絶できる」なんてのは現状、ぼくは全く信じていない。
 例え技術的に「根絶」させられた時代が来たとしても、当分の間その恩恵が与えられるのは、あくまでその医療にアクセスが可能な人間に限られるだろう。

 また、技術が進歩したからといって、その「使い方」に問題があれば、いくら技術自体が素晴らしくても意味がなくなってしまう。
 現にアメリカでは利益のために患者に必要のない診察や検査、投薬や手術を施す「過剰医療」が問題になっている。この問題に対処するには、地道に自分で情報を集めねばならないのだ。

 最近では、介護が必要な老人宅に監視センサーを設置して、大きな怪我をしないようにモニターしたり孤独死しないようにその行動を逐一監視できる装置も出来ているという。
 「人に寄り添う」という事は「対象者のデータをより多く持って分析している」――つまりは「機器によって見られている」という事だ。
 「そのひと個人のパーソナリティにマッチしたサービス」というのは、そのひと個人のあらゆるデータを収集しなければ実現しない。
 現代的テクノロジーというのは、そういった個人のあらゆるデータを巨大なネットワークに把握されてしまうことと同じではなかろうか。

 といった事も含め、ぼく的には科学技術の最も危険な問題であり、最も重点的に根本的に改革を求めたいのは「技術を使う人間の良心の確保」の部分、「科学倫理」の部分であるということ――これをいくら強調しても強調しすぎるということにはならないだろう。


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