見出し画像

「細部に宿るのね、神」と思いながら音楽を聴いていたり、本を読んでいたりする。

某年2月15日。

 自分は熱心な仏教徒ではないのだけれど、他宗教の良さを力説されればされるほど、仏教に立ち返ってしまうのだった。おそらくそれは理屈として仏教が良いと判断しているのではなく、自分がそのような地盤、文化圏で生きてきたからだと思う。文化として一宗教の教えを大事にしたい、守りたいと願っているのだろう。

 しかし、異なる宗教について力説されると物悲しくなるのはなぜだろう。人と人との分かり合えなさは、すでに感じていたことなのに、なぜか断絶を強調されているように思えてしまってならない。遠い異国の地の宗教のように感じてしまうものについては、どこか他人事のように思えるし、懐疑的になってしまう。

 例えば、人間は神の前においてのみ平等である。という感覚が自分にはない。理屈としては分かるかもしれない。人を超越した神から見れば人間は平等である。それはそうだ。
 ただ、何かあったときに「人は神の前では平等だからな」なんて思えない。そもそも自分には神はいないのだ。思えるわけがない。

 仏様とは、仏陀のことであり、悟りを開いた人を指す(と思う)。神ではない。だから、神の分からなさに苦しんでしまう。昔から神についてはよく分からなかったし、馴染めなかった。(神道的な意味だとしても)。宗教画に描いてあるような縁遠いもの、分からないものという感じだった。仏様という概念は幼いころからあった。分からないけれど、手を合わせていた。わりと身近な存在だった。何かにつけて仏壇に座らされ、ナンマイダーと唱えていた。毎日手を合わせているわけではなかったけれど、
「仏様が見ている」という感覚はなんとなくあった。神ではない。

 最近葬儀を初めて経験したら、仏様の存在が近くに感じられるようになった。上手く説明できないけれど、仏教が自分の中で腑に落ちた。自分が死んでも大丈夫、みたいなほっとする感覚があった。これが人のつくった死の恐怖に打ち克つための宗教なのか、すごいなとも思った。(ちょっとメタ的だけど)だからなおのこと、神が分からなくなった。

 信仰とは別に他宗教についても勉強はしたいと思う。理解したいと思う。神を知りたいと思う。
 でも私は神がどんなに優れていても、仏様が良い。ずっと連れ添ってきた仲のような感じだから。お別れするには遅すぎるぐらい考え方も染みついているだろう。

 ただ、一つだけいいなと思うのは、仏様は細部には宿らないけれど、神は細部に宿るらしい。その感じはなんとなくわかるし良いと思う。僅かな違いが大事だとあの人も言っていた。それはその通りだ。

 「細部に宿るのね、神」と思いながら音楽を聴いていたり、本を読んでいたりする。多分私と神の出会いはそこから始まりそこに終わる気がしている。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?