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舞台『マーキュリー・ファー』感想


吉沢亮さん、北村匠海さん。
世代を代表する素晴らしき俳優二人が、今、この時代に再び観られるべき作品を創り上げてくださった。まずはそんな奇跡的な場所に足を運べたことに、感謝したい。

バタフライとは何か。
パーティとは何か、なぜ開催が早められたのか。
エリオットとダレンの過去に何があったのか。
パーティゲストは何のためにやってくるのか。

すべてのピースがかちりと嵌り答えが浮き彫りにされたとき、絶望は臨界点を突破し、爆撃音と銃声が劇場に鳴り響く。
『マーキュリー・ファー』は、人が人を傷つけ争い殺し合う世界を描いた物語でもあれば、人が人を傷つけ殺してでも、守り愛する世界を描いた物語でもある。そして、人間の理性の皮が剥がされた究極の世界に残された、一筋の希望を描いた物語でもあると感じた。

(※ ところでラストシーン、本当に銃声は鳴ったのだろうか?末尾に追記しています)

◆エリオットとダレンの兄弟愛

キレ者で賢い兄のエリオットと、バタフライという薬物のせいで常に記憶が曖昧で支離滅裂な言動をする弟のダレン。
エリオットが足を引っ張るダレンを皮肉を込めて言う「へその緒のよう」という表現には、兄弟の一蓮托生の関係性がよく表されている。エリオットはダレンの言動に時折苛立ちを露わにするものの、彼に無理なことや危ないことはさせない、スピンクスの非難や暴力から庇う、など一貫して弟を守る姿勢を見せており、弟を優しく抱き寄せる仕草には限りない愛情が滲み出ていた。(それにしたってバタフライを食べる/食べさせてもらうシーンの、雛鳥の餌付けみたい、というには色っぽすぎる雰囲気!!)
ダレンの脳はすっかり薬物に侵されているが、その魂は穢れなく純粋無垢そのものといった印象。エル、と兄を呼ぶ北村匠海さんの発声は高く澄んでおり、非常に聴きやすく清潔だ。ダレンという人間のピュアさ、可愛らしさが良く表現されている。これが初舞台とは思えぬ存在感!
そして兄の吉沢亮さんは、滑舌の良い台詞回しと感情を自在に声にのせる演技が流石。伸び伸びとしたダレンと対照的に、エリオットは過去の幸せな記憶に苦しめられながらも、愛する人を守るためにすべてを背負い込み、才覚一つで生きのびようとする男。そのさまがかえって不器用で痛々しく、胸が締め付けられる思いがした。

彼らの生きる街ではある時から、バタフライと呼ばれる薬物が出回るようになる。バタフライを食べるとその種類ごとに異なる明確な幻覚を見ることができ、強い快楽を覚える。街の人間の殆どがこの薬物の虜となり、街は荒廃し、暴力と略奪が蔓延る世界へと一変した。
エリオットとダレンもかつては両親と幸せに暮らしていたが、父親に金槌で殴られたことにより、母親は錯乱、兄は脚を負傷、弟も怪我をして家族は崩壊した。今はスピンクスの元でバタフライを売り、危ない仕事で日々の生計を立てている。
エリオットはこの街で数少ない、バタフライを食べずに正気を保っている人間である。もはやバタフライがどこから来たのかすら誰もが忘れてしまったなか、すべてを記憶し、忘れず、決して狂うことがない。悲惨な現実を常に真正面から受け止め続ける。
地獄では、狂えた方が楽だ。苦しい現実から逃れて楽しい幻想を見れば、地獄でだって生きていける。エリオットがダレンにバタフライを与え続けるのも地獄から目を逸らさせるためだろう。それなのにいったいなにがエリオットを、現実を生きるという苦行へと駆り立てるのかといえば、弟への愛に他ならない。
エリオットがローラに、「消えることを選べるように」自分は狂わないのだと語るシーンには、吉沢さんの演技力も相まって観ている人間の心が否応なく舞台上の世界に引き摺りこまれる強い引力があり、涙が自然に溢れた。
食べると自殺してしまう黒いバタフライの出現がエリオットを追い詰める。弟が酷い死に方をしなくていいように、自分が安らかに死なせてあげられるように、自分は決して狂わないのだという彼なりの愛情を、歪んでいると非難することは容易い。だが弟が人としての尊厳を喪うならばいっそこの腕で抱きしめながら殺してあげたいという切実な想いこそが、彼を苦境の中で生かしているとも言える。ダレンはエリオットがいなければ生きていけないけれど、エリオットもまたダレンがいなければ、正気を保つことなどできはしない。エリオットは本来、強い人間ではないのだ。病院から母と弟を置いて自分だけ逃げてしまった過去がある。それを彼はきっととてもとても悔いていて、今度こそ弟を置いて行かないようにと必死にもがいている。

"ものすごく愛してる だからお前を掴むんだ
ものすごく愛してる だからお前は悲鳴をあげる
ものすごく愛してる だからもっと蹴ってもっと殴る
ものすごく愛してる だからお前は血を流す"

この台詞は私の想像であるが、元は父親からエリオットやダレンに投げかけられた言葉であるように感じた。父は妻や子ども達がバタフライで狂うことを許さなかった。愛しているからこそ、彼は悲鳴をあげる我が子を掴み、金槌で血が流れるまで殴った。こんな残酷な世界から解放してあげるために。生き残った兄弟は、呪いのような痛みに満ちた愛の言葉を頼りにして、この世を生き抜くこととなったのではないか。(彼らの母である姫もまた、ボケてしまってもその台詞を忘れてはいない。彼女は歌い始める直前、「愛しているから…」と兄弟と同じ言葉を口にする。姫の歌声を兄弟が非常に怯える理由は、姫が彼らの母親であるからだ。彼らにとって母親の今の無残な姿、昔を想起させる姿を目にすることは精神的に非常にダメージが大きいのだろう。だが、この物語は最後に母子の絆もさりげなく描く。部屋から去る姫が、将軍も一緒なのかと問いかけるシーンは、姫自身が母である意識はないものの息子達を気遣う場面であり、それが彼らにとって大きな意味を持つことは想像に容易い)
互いへの愛を、彼らは物語の序盤には優しい抱擁で表現する。しかし物語のクライマックス。ダレンがいつもの合言葉のように「ものすごく愛してる」を繰り返すが、兄からは言葉が返らない。代わりに与えられるのはかつて父親が与えたものと同じ、血と痛みである。
兄の愛を信じて全身で縋りつき、その身を預ける弟は、兄と手を取り合って、諦めずに生き抜こうとしていた。ダレンは北村さんがパンフレットで語るように、劇中で唯一変化し、成長するキャラクターだ。物語の前半では大好きな兄の庇護下にある印象の強いダレンだが、後半では銃を手に取りパーティーゲストを射殺するシーンが象徴的だ。危ないからとエリオットは、ダレンから銃を取り上げる。しかしダレンと親友となったナズは、いざという時には共用で使おうと言って銃を引き出しにしまった。その銃を手に取るという行為は、ある意味では兄からの自立であり成長だろう。終盤にかけては、自分の弱さを曝け出せられ、さらに弟を殺すことで頭がいっぱいになったエリオットと対照的にテキパキと仕事をし、兄を精神的にひっぱろうとする様子も見せた。
ダレンはバタフライの与える酩酊と現実の狭間を行ったり来たりしながら、時折家族との幸せだった過去、世界が荒廃する前の記憶を取り戻していく。そしてダレンの目はこの残酷な退廃した世界のなかでも、最後まで美しい希望を映していたし、兄との未来を諦めてはいなかった。ゆえに彼にとっての愛とは温かな触れ合いであり、優しい抱擁なのだ。冒頭、ダレンがごっこ遊びのなかで「臍の緒みたいにまとわりつきたくなかったんだよ」というが、彼はきっと心の中でずっと、まとわりつくのではなく、助け合って兄と生きていくことを望んでいた。
だが兄が言葉ではなく行動で提示した愛とは、これ以上の地獄を味わわせずにすべてを終わらせて救う愛。冷たい銃口を弟の頭に突きつけ、抱きしめながら殺す愛。賢い彼には、この地獄に出口がないことが哀しいほどにわかっていたのだった。兄と弟、互いを愛していることは同じなのに、愛の種類の違いが切ない。
弟を、これ以上バタフライや残酷な暴力で損なうことなく、弟のままで死なせる。それは立派な暴力であり罪である。決して殺人とは綺麗事にならない。しかし『マーキュリー・ファー』という作品は倫理的に愛を説く作品でもない。究極の環境のなかで、理性を剥ぎ取られた先にある純粋な欲望。その欲望とはエリオットの場合、パーティーゲストのごとき変態性欲などではなく、愛するものを傷つけてでも守りたいというエゴであったという厳然たる事実をただ受け止めて、「愛とはなにか」と悶々とする他ない。

◆演技、は希望のメタファー 地獄に差す一筋の光 

作者フィリップ・リドリーはイラク戦争を起こした自国への強い批判の意味を込めて本作を書いたと言われており、作中には「戦争」を想起させる数多のワードが仕込まれている。第二次世界大戦を連想させる核爆弾、ベトナム戦争を連想させるナパーム弾、そしてバタフライは、かつてイギリスによって中国にばら撒かれたアヘンのメタファーだ。
「もしも無差別に攻撃されているのが自分の国だったら」
その感覚を、本作が書かれた2005年当初には日本人は理解し得なかったろうと演出の白井氏は語るが、では現在の日本ではどうか。
ミャンマーや香港では目を覆うような惨状が広がり、北朝鮮からは次々とミサイルが放たれる。新型コロナウイルスが日常を奪い、多くの人間の命が無差別に、理不尽に奪われる事件も後をたたない。
国家、宗教、思想、性別、立場。たったそれだけの違いがわかり合うことを困難にし、我々人間は永遠に殺し合い、憎しみは連鎖し、戦争は終わることがない。それゆえ、ダレンが「ミノタウロスが、頭が牛の人間なら話し合えたのではないか。ミノタウロスも迷宮から一緒に出れたのではないか」と無邪気にいうシーンが非常に印象に残った。どんなに自分と異なる存在でも同じ人間ならば、話し合える。平和への一歩を踏み出せるはずだ…

エリオットとダレンはかつて、偽物の拳銃を持ち、ごっこ遊びのなかで殺し合いをしていた。かつての彼らにとって、死や戦争はフィクションでしかなく、彼らが世界の残酷さからしっかりと守られていた証拠である。またパーティーゲストが退廃した世界の中だというのになお録音を流して戦場の臨場感を演出し、軍人になり切って遊んでいるのは、彼が暴力や略奪から守られた上層階級の人間であるからだろう。
しかしパーティーにおいてエリオットやダレンが演じさせられた「将軍」役には、夢も希望もない。エリオットの本当のなりたいものは考古学者というロマンに溢れる職業であり、さらに彼らがパーティーで本当に演じるつもりだったのは「宇宙の探検家」だったことを知ると、なおさらその落差がつらい。(たしかに、全身を覆う白い防護服とガスマスクは宇宙服に似ていなくもない。残酷な仕事に手を染めるとわかっていたエリオットが、せめて弟の心を救うために夢のある役を演じさせようとしたのかと思うと、つらい)
私はダレンの「僕たちが生きていける、優しくてあったかい星を探しに行こう、この宇宙には何億何兆と星がある どこかにひとつくらい安全な場所があるはずだ」というセリフが美しくて切なくて、好きで好きでたまらなくて涙が出る。
昼間のパーティー準備から始まった物語は、クライマックスを迎える頃にはついに陽が落ち、黄昏の刻が訪れる。残照の消え、闇に覆われた部屋は一見すると、彼らが救われる道はもはやなくなったことを意味するメタファーのようにも思える。だが、闇夜にも光はあるのだ。夜空に浮かぶ幾千幾万もの星々は、彼らが夢見ることを許された唯一の、一筋の希望の光なのではないだろうか。(北村さんの『きらきら星』の歌声のせつない美しさが余計に、ズンと堪える〜〜)
救いは、たとえこの地球上には存在しなくとも、たとえ過酷な現実に縛り付けられた彼らが到達することができない場所にあっても、それでも必ずどこかには存在する。もしも彼らが宇宙の探検家になれたなら(探検家を演じられたなら)、この終末を迎える町から飛び出して、どこか平和な星でみんな幸せに生きることができるだろう。すべては、もしもの話だ。しかしそのもしも、を夢想することで救われる心がある。
「演じるっていいよね、少し楽になれる」とは序盤のダレンのセリフである。そもそも演技とは、自分ではない他の誰かになることであり、自分が生きる世界とは別の世界に生きることである。私達は演技を通して、現実に囚われることのない何者にでもなれるし、無限の可能性を信じたっていい。兄とごっこ遊びに興じた頃から変わることのなく無邪気で純粋なダレンが、探検家を演じる夢想を通して、破滅へと向かうしかない自分たちの人生にも救いを探せたのだから。
「演じる」という行為のもつ救い。「演じる」ことで持ち続けられる希望。私個人としては、兄弟が「演じる」ことで救いを与えられ、希望を持ち続けられたことと、吉沢さんと北村さんが兄弟を「演じる」ことを通して、苦難の現実を生きる私達に一筋の救いを伝えてくれることとが、二重写しになっているような気がしている。
『マーキュリー・ファー』初演の頃となにも変わらぬ、悲しいことのたくさん起こる世界に、今、愛の物語である『マーキュリー・ファー』再演を届ける意味はある。どうか大千秋楽まで誰一人かけることなく、すべての公演が無事に上演されますように。


(2022.1.30観劇)


◆余談

精神的に追い詰められる吉沢さんのシンドイ演技、だ〜いすき!


◆追記

初回観劇時、街が空爆に遭うかのような爆撃音とともに、銃声を確かに聞いた気がした。よってエリオットはダレンを殺してしまったことは疑いようもないと思っていた。

しかし二回目。前回より前方の席に座ることができ、エリオットの表情に注視しているうちに、なんと銃声の鳴らないまま舞台は幕が降りてしまったのである。

「あれ?!エリオット、殺しそこねた?」

と戸惑ったものの、私があんまり吉沢さんの顔を見ることに集中しすぎていたために聞き逃したのだろうかとその時は思った。

その後、Twitterなどで「最後の演出が変更されている」という感想をいくつか拝見し、まさか…本当に銃声は鳴っていないのでは…と思い始めるに至った。どの方もネタバレ配慮のためか、変更内容を詳しく書かれてはおられなかったので、もしかしたら私の勘違いかもしれない。そもそも最初から銃声は鳴ってなかったのかもしれないし。

が、エリオットがダレンを殺さない日があってもおかしくない、と私は思う。そのくらい、二日目に観たエリオットの表情は、ちょっと忘れられないくらい凄まじい葛藤のなかにあった。愛しているから、殺すのか、生かすのか。食いしばった口元からは、本当は殺したくなんかない、という悲鳴が漏れ出そうに感じた。

エリオットという人間は、本当はどこにでもいる普通の心優しい男の子で、愛のために弟を殺すなんてことを、割り切ってやり遂げられる人間ではない。手をくだせない(ある意味での)弱さ、もまたエリオットの本質であるとも感じる。かつて弟を殺すことを思いついたその日から最後の最後まで、彼の心は揺れている。父親と同じ方法で愛する弟を守り抜くのか、それともダレンの言うように二人で手を取り合って生き延びる術を探すのか。

どちらの選択を取るにせよ、エリオットの胸に去来する想いは、"ダレン、殺して/生かして ごめん でも愛してる"なのだろう。

(2022.2.19追記)

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