『脱成長』を読んだ感想

 脱成長、という語は時折目か耳にするのではないだろうか。どうせ猫の寝言みたいなもんだろう、などと思っていたのですが『脱成長』を読む限り、猫の寝言に聞こえていたのかも知れないが、少なくとも当初用いられていた意図としては、ちゃんとした言葉だったんだなぁと反省。

 脱成長というのは、フランス語のdécroissantという語を訳したものになる。翻訳というのは文字そのものを訳することはできるけども、その文脈や言葉の印象などの諸々までもそうはならない。私が「脱成長」という語に感じていたうさん臭さ、あるいは猫の寝言か何かであると思った原因はここにある。
 ここで、一度「脱成長」という言葉を考えてみよう。脱、という語が持つイメージはあったものが無くなる、やっていたものを止める、持ち物などを手放す、といったようなものだろう。
 「成長」という語は、より上に登っていく、といった感じだろう。
 この両者を合わせるとなんとも嫌な含みを持つ語が現われる。これが日本における「脱成長」という語の持つうさん臭さである。なんとなくこの語を使っている主体がそもそもうさん臭いという気がしないでもないけども。    
 元の言語体系における"décroissant"はというと、「脱成長」のような後ろめたさのある語ではないらしい。例えるならば、使ってもいない蛇口からほとばしる水を止めるために栓を閉める、程度のニュアンスだという。

 "décroissant"が指すものはというと、「資本主義的な意味での」成長からの離脱であって、抽象的な意味での成長一般ではない。
 では資本主義的な意味での成長というのがどのようなものなのか。

 それはもちろん、一般的な意味での成長と全く別のものでもないが、同じものでもない。端的にいえば、資本主義における成長というのは、極めて視界が狭い。無視している要素がある。そのように無視されている要素、つまり自然環境、人間そのもの、そうしたものを犠牲にしてまでも資本主義的な意味での成長を追い求めるのを止めようよ、というのが"décroissant"という語が持つ文脈的な意味である。

 実際にどのような理解と処理がなされているのかどうかはともかく、資本主義的な意味での成長というものの個人的な理解は、金銭のやり取りを介さない領域で何が起きても無関心である、といったものになる。さらには、金銭のやり取りがなくとも成立している、あるいは金銭を伴うにしても安価で安全で、万人にとって有益であるような環境を解体・破壊して金銭によるやり取りに組み込もうとさえする。
 何故そうするかと言うと、そうすると儲かるからであって、儲かって得する人間というのは全体の一部でしかない。泥棒か押し売りみたいなものである。
 そうした人物が、自身の利益のために「脱成長!脱成長!」と叫びながら、我々の利益の損失を押し付けているというのも、部分的には多分あろう。こうした文脈での「脱成長」という語の意味とはつまり「我慢しろ」だ。

このために脱成長という語は、本来批判の対象とされている存在に貶められている。

 雑で都合の良い例えになるが、仮に、私がゲーム会社の社長であるとしよう。今作っているゲームは、そこまで売れている訳ではないない利益は、社員にちゃんと給料は払えていて、業務も常識的な範囲に留まっており、社員のモチベーションも高いとして、そのことに満足しているとする。
 しかし、株主からは売上がそこまでではないということを「売上も利益も大してないじゃないか!」などと突っつかれ、社長の座を追われ、代わりの社長が収まったとする。
 後任の社長は、ゲームの売り上げを確かに伸ばした。しかし、それは前任の社長が宗教上の理由から忌避していたガチャと基本プレイ無料の組み合わせを導入することによって達成されたものであり、昔からのファン、その作品のことがずっと好きだったファンは愛想を尽かした・・・とする。そして、ガチャのシステムというのも凶悪で、集金装置としては傑作である。プレイヤーは気分を損ねて、借金をしてまでもガチャを続ける。もちろん、売上は上がるので株主はこれで満足だろう。

 ここで何が無視されているものが何か、というのが脱成長の意図するところである。売上でしか物事が評価できない、あるいはそうした評価を抜きにしては回らない、といった体勢ないし制度への批判が本来の意味となる。という方に読み取れた。本来の意味するところの「脱成長」という語は、我々が思っている以上にトンデモなものではないのだが、我々が思っているところのいわゆる「脱成長」という語はなかなかトンデモに思えるというのがなんともなところだ。

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