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好きと得意、嫌いと苦手は違う

「口数少ないね。」と言われることがある。

決してその場がつまらないとか、疲れているとか、そういう訳ではないのだが、いい年こいて話があまり得意ではない。

ひとり旅は好きだし、ひとり飲みも好きだし、なにより人が好きだし、知らない人と話すのも好きだ。だがしかし得意ではないのだ。

思えば子どもの頃から話が苦手なのは変わっていない。

作文は好きだったけど、スピーチは苦手だった。

地獄の「3分間スピーチ」というものを初めて知り、ぱぱっと1分間で済またら、地獄の4分間になった。

おとなはなんていじわるなんだ、と心の底から思った。

失敗から学ぶことはあるけれど、あの頃の自分にアドバイスできるなら言ってやりたい。

最初からおとなしく3分間喋っておけ。

おとなになった今でも、いろんな場面で「あぁ言えばよかったな」「これも言えばよかったな」と思うことは多々ある。

自分は話すことより、書くことが得意なのだと気づいた。
文章の方が思いを伝えやすいのだ、と。

小学生の頃「エルマーの冒険」という本にどハマりしていた時期があった。
そんな時にピンポイントで、エルマーの冒険に登場する動物たちとのオリジナル冒険ストーリーを書きましょう。最低でも作文用紙2枚以上、あとはご自由に、という国語の授業があった。

僕の右手は大暴走。

次から次へと冒険のアイディアがわんさか出てくる。

僕はエルマーであり、大先生だった。

2枚をやっと書き上げている周りの友人を尻目に、大先生の原稿は20枚以上にも及んだ。
完全オリジナルストーリーの超大作だ。

そんな大作を提出しに行くと、先生はため息交じりにこう言ったのだ。

「こんなに書いたのか。読むの大変そうだなぁ。」

悪気はなかったのかもしれない。
いや、無意識に出てしまっていたのかもしれない。

どちらにせよ、先生の絶妙なあの表情とセリフは、ピカピカの小学3年生のピュアな心を傷つけたのである。

欲しかった言葉とは180度違う言葉を受け止めきれず、ショックだったのと同時に、先生には絶対読ませてやらない、と意地になった。

真っ黒になった右手の側面で、空手チョップくらいお見舞いしてやればよかったのに。

渡した原稿をすぐさま返してもらい、まっさらな原稿用紙を2枚持って席に着く。
当てつけのように、流行っていた海賊アニメをまるパクリしたストーリーを書き、ふてくされながら提出したのである。

そう、ただただ悔しかったのだ

泣きながら帰った大先生は、母親を最初の読者に選んだ。

どこにも赤ペンの入っていないシワシワの作文用紙を見て、なにかを察したのだろう。

母親は大先生の処女作を、これでもかというくらいに褒めちぎってくれた。

それ以降、母親以外に読者はいないのだけれど。

先日実家の片付けをしていたら、大先生の処女作が出現したおかげで、眠っていた記憶が蘇ってしまった。

なぜ母親という生き物は、こういったものを捨てずにコレクションしているのだろうか。

ほろ苦い懐かしさに浸りながら熱々のコーヒーを飲み、誤字脱字の多い少し色褪せた原稿を読んでみた。

…な、なんだこれは。クッソつまんない。

意味不明という言葉がこんなにぴったりの作品はこの世に存在するのだろうか。たくさん書けばいいって訳じゃないよ、大先生。最高の駄作だった。

先生、ありがとう。お母さん、ありがとう。

苦虫を嚙み潰したような表情とはこのことか。
きっと自分は今そんな顔をしている。知らんけど。

もう誰の目にも触れないことを願い、思い出と共に押し入れの奥にそっとしまった。

いろいろ寄り道はしたものの、僕はいま、懲りずに書くことを仕事に選び、歩き始めてしまった。

書くことが好きだから。

もしかすると押し入れという暗闇に葬り去ったあの処女作が、僕のライターとしての原点だったのかもしれない。

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