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リドリースコット作品で考えるアンドロイドと人間らしさ

⚠︎「ブレードランナー」「ブレードランナー2049」「プロメテウス」「コヴェナント」のネタバレを含みます。未鑑賞の方はお気をつけください。

最初に言っておきますが、これはご大層な考察記事などではありません。
ブレードランナーシリーズ、そしてプロメテウス。
たったこれだけのリドリー作品を観て、もっともらしい言い方でただ考えと感想を書き散らかしたものです。

他のリドリー作品も観ましたが、あくまでアンドロイドが出ているものという括りです。
ご了承ください。
なお、かの有名なエイリアンシリーズにもアンドロイドが登場していることは承知ですが、私自身気持ち悪いものがマジで無理なのでまだ鑑賞できていません。(プロメテウス発狂)
※エイリアンシリーズ全作品観ました!なぜか2日間で耐久の様に観きりました。(2023.9.23)

さて本題です。

今回上記の映画を鑑賞して強く感じたことは
”人間らしくなればなるほど残酷になっていく” ということ。

まあ近頃に限らず、ジュラシックパークやゴジラなど「人間がいかに愚かか」を知らしめる映画やドラマは多数あるのでこの事についても何を今更、と思うかもしれない。

だがリドリースコット作品において、この議題の表現の仕方は常軌を逸している様に私は感じた。

まず「ブレードランナー」でのレプリカントが漂わせるなんとも言えない哀愁と救いようがない世界。

単純な話、仲間の死を悲しむネクサス6型躊躇なく背後から抹殺できるブレードランナー
どちらが人間的だと思うだろうか?

AIやロボットに関連する似たような思想や映画はごまんとある。
それらを通して私たちは勝手に思い込んでいく。

『感情は人間にしかないものだ』

実際そうなのだ、涙を流すロボットはいないし怒れるAIの反乱など存在しない。
穿った捉え方は一旦脇に置き、一般的にいうロボットやアンドロイドの類のイメージはこんなものだろう。
無機質で、感情に起伏がない。

とすれば、先ほどのネクサス6型とそれを追うブレードランナー(人間)の状態は全く逆になってしまっているといえる。
そして映画を観ているとネクサス6型の方に強く感情移入している自分に気づく。私だけに限らず大勢の人がそう感じたのではないだろうか。

自分の寿命を知り、生存本能から生みの親を探し求める。
失くした仲間の仇を討つ。
こんなに人間らしい行動があるだろうか。

一方、上からの指令に従い、任務であるとして問答無用でターゲットを排除するブレードランナー。こちらの方がより機械的、ロボット的ではないか。

もちろん人間であるブレードランナーも罪悪感などはあるが、実際映画でそこはあまり描かれておらずレプリカントの感情の方に焦点が当てられているのでリドリースコットの伝えたい部分というのはそこなのだろう。
と勝手に推測する。(だがこの時のブレードランナーは人間ではなくやはりレプリカントであるらしい。だが6型より人間に近い型なのは確かだろう)

のちの「2049」ではこのブレードランナーですらもレプリカントだが命令を下す立場にあるのは変わらず人間だ。当たり前である。

”人間の方が非道ではないか”
そう強く感じることこそが大切なのだと思うし、そこを強く伝えたい作品なのだとも思う。
映画「ブレードランナー」ではそれが顕著に表されおり、作品全体の薄暗い雰囲気や異様なネオンの煌めく世界観と非常にマッチしていた。
つまりめっちゃ良かった。


そして続く「ブレードランナー2049」への足掛かりとなるショートフィルム三作である。
こちらももちろん、哀しさや切なさ溢れる魅力的な作品である。
特に三作目のサッパーの救出シーンは展開が読めていても、いや読めているからこそとても辛いものがあった。
どこかで見た様なシーンである。
人前で能力を使ってはいけないのに使わなければ救えない…
私の脳裏によぎったのは、「X-MEN:アポカリプス」でのマグニートーの工場でのワンシーンだった。
それ以外にも映画好きの人ならば、さまざまなシーンを思い出しただろう。

これが「ブレードランナー2049」の冒頭に繋がってしまうのかと思うとさらにやるせない。

そしていよいよ続編である「ブレードランナー2049」だが、このショートフィルムも含め監督はリドリースコットではないので一旦またの機会にしようと思う。


長くなるが、正直私が本当に言いたいのはここからである!!!!

「プロメテウス」というより「コヴェナント」の方の話にはなってしまうが、アンドロイドのデヴィッドのことである。

「プロメテウス」ではだいぶ怪しい動きをしつつも、まだ大人しくしていたデヴィッド。この時点でちらほらと、”人造のアンドロイドである”という事実に不満があることが見え隠れし始めている。

続く、映画「コヴェナント」でついに彼は新しい星にて創造主まがいの研究を行なっていた。
研究とはエイリアン、つまり死の物質を持ってしてその星の全ての生命体との融合実験である。もちろん生存者はいない。全滅である。
そして自分と瓜二つの新型アンドロイド、ウォルターと出会い、彼に自分の研究結果を嬉々として語るのだった。
人間に造られたデヴィッドは、生みの親である父の思想を貫こうとしたのか。野望に目覚めたのか。本心は定かではない。
だがとにかくこちらも先ほどのレプリカント同様、強い意思をもった上でのアンドロイドらしからぬ行動である。つまり”人間らしい”。

冒頭に出した怒れるAIの反乱もそうだが、限りなく人間に近い”人間ではないもの”の存在が我々は怖いのだろう。
ましてや生体実験など人間の得意分野といっていい。
それを人間には決してできない領域で、人間の様な思想でやるアンドロイドが怖いのだ。

一方、新型でさらにアップグレードまでされているというウォルターは前の型よりも感情の起伏が抑えられているという。
デヴィッドのように自分の生まれに疑問を持つこともないし、何の裏もなく人を助ける。感情に寄り添った言葉をかけることもできるのだ。
実際に幾度も船員を助ける。たとえそのように造られていると理解はしていても、人間はそれに安心し、かけてくれる言葉や自己犠牲の姿に心を打たれるのだ。
なんて優しい、彼には人の心があるのだ、と。

はて。ここで疑問が浮かんでくる。
”人の心”とは一般的に言えば情がある、というようなことを指す。(私も現に冒頭あたりで、そのような意味でその言葉を使用している)

”人間らしさ”と”人の心”の違いとは何か?

当たり前の解答をすると、
”人間らしい”という言葉は人間には使わない。
”人の心”という言葉は人間に対しても使う。

ここから見えてくるものがあるとすれば、求められているか否かだろう。

当然、レプリカントやアンドロイドといったものに”人間らしさ”が備わっていることはリドリースコット作品をみるに求められていることではないらしい。
ブレードランナーシリーズの世界に、「人間もどき」という差別用語があることもそうだし「身の程を弁えろ」という空気感が強い。特に「ブレードランナー2049」ではそれがわかりやすく出ている。(何度もいうようにこれはリドリーが監督を務めたものではないが)
人間らしく生活する”人間ではないもの”が許せないのだ。

では”人の心”はどうだろうか?
先ほどのウォルターがわかりやすい例で、これはどうやら求められているようだと感じる。しかも人間にも、だ。
さらに、関連した例をあげるとすれば「お前には人の心がないのか!」=サイコパスやロボット、という思考である。
この”人の心”だが、求める対象が人間であるならば真っ当であると感じる。

だがアンドロイドに対して求めてしまった瞬間に、それは人間の愚かな部分が出たと私は感じるのだ。
少なくともリドリースコットの作品を観て、私は強くそう感じた。
なぜならば。
人間がアンドロイドに対して良い印象を抱く時は、自分たちに都合よく機能してくれた時だけだからだ。

そう、ここで再びデヴィッドとウォルターが対比として出てくる。
”人間らしさ”とはつまりデヴィッド。
前述の通り、実際に脅威と化しているのは間違いないが、だからこそ人間らしい感情を持っているのもやはりデヴィッドなのだ。
これをいうとまた話がややこしくなりそうではあるが、リドリースコット作品内で描かれている人間像は性悪説、というのが強く出ているように思う。

そして”人の心”とはウォルター。
実際にあったのかは定かではないが、私たち含め登場人物の人間もウォルターにそれを見出していたような気がする。
求められるのはウォルターのような、自我を出さない従順なアンドロイドなのだ。つくづく人間は勝手である。
多少極端かもしれないが”人の心”を少しでも彼に見出したのならばそれは、彼のことを都合が良いと感じたということなのだから。

リドリースコットはそれほど強い表現を使ってでも人間の愚かさを今一度分かってもらいたかったのではないだろうか。

だがあくまで、人間ではない存在の何が”人間らしさ”たらしめるか。
そのことについてはこのように思う。

「ブレードランナー2049」で彼らなりの”人間らしさ”を求めて集まったレプリカント達や、「ブレードランナー」の”生きたい”とひたすらに願ったネクサス6型達。そして自分に危険が迫ると分かっていても少女を助けずにはいられなかったサッパー。

彼らのそういう思いこそが、私は本当の”人間らしさ”だと考える。










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