見出し画像

朗読劇「ジキルvsハイド」を観劇

音楽朗読劇「ジキル vs ハイド」観劇した。

キャストは中澤まさともさん、高橋広樹さん、小原莉子さん。本作品は弁護士のアターソン、メイドのマリー及びにジキルの告白の三人の視点からストーリーが進んでいく。声や音楽で表現する聴覚的なアプローチで、19世紀ロンドンへいざなう朗読劇である。

画像1

(ジキル博士....中澤まさとも/アターソン弁護士....高橋広樹さん/メイドのマリー...小原莉子(敬称略))

ジキルとハイドのあらすじ

物語は主人公ジキル博士の遺書を友人・アターソンに預けたところから話は始まる。遺書には博士の死後、全財産をハイドに預けるように記されていた。実はこのハイドは殺人鬼であり、警察から追われている。

アターソンはハイドとジキルとはどんな関係であるのか探り出す。そして、次第に物語りは予期せぬ方向へ舵を切り始める。

朗読劇のポイントは「善悪二元論」

結論からいうと、ジキル博士はハイドである。つまり、二重人格である。

ジキル博士の方が「善」で、ハイド氏が「悪」を担っている。「悪であるハイド」は博士が平和のための実験によって生み出された人格である。つまり、善人であったジキル博士は悪の心に負けてしまったために生まれたのがハイドである。同一人物の相反する性格であるジキルとハイドはまさしく「善悪二元論」を体現している。善悪二元論を最初に唱えたのはゾロアスター教である。ゾロアスター教は、世界を善神と悪神の戦場とみなしている。教祖であるゾロアスターは、人間世界はすべて善と悪の二元的な戦いであると説いた。

画像3

善悪二元論(ぜんあくにげんろん)とは、世の中の事象を善と悪の二つに分類する事で世界を解釈する認識法。フリードリヒ・ニーチェは善悪の彼岸を提唱し、キリスト教における善神勝利一元論に即した善悪の二元論を批判したとされる(wikipediaより引用)

感想

善人であった博士の「闇落ち」は、グロアスターの善悪二元論的に考えれば心の内にある悪の神に負けたことになる。映画「ジョーカー」にも通じるのだが、悪人は初めから悪人として描かれていない。むしろひたむきに生きる好青年であった。二つの作品の主人公は、社会やその時の状況によって悪が善に勝ち、凶悪な殺人者となっている。’ジキルとハイド’や’ジョーカー’が人気なのは、誰しもが心のうちに善と悪が対立し、見えない葛藤を抱えているという共感が私達にあるからなのではないか。

画像2

おわりに

19世期につくられた「ジキルとハイド」が現代の21世紀でも受け入れられるのは、いつの時代も人間の心の中に善悪の矛盾を抱えて生きてるからなのではないかと思う。ちょっとしたきっかけで私達は簡単に悪へ転落してしまう。人間は決して強くはない。しかし、私達は日々うちなる自己の矛盾と戦い続け、負の気持ちに負けない様にしないといけない。生きていること自体か「日々是修行」(=毎日が修行※)なのだ。人間の善悪について考えさせられる舞台であった。


※写真はページ作成者によって撮影。三枚目の絵はpixabayより借用。







※日々是修行....自己改良による「苦」の消滅。あらゆる苦を生み出すものが「この私」であるなら、心を鍛え智慧を磨いて、私自身を変えることで、苦しみから自由になれるはずとする考え方。(
日々是修行 現代人のための仏教100話 (ちくま新書)」より引用

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?