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大島浩 ヒトラーと親交が深かった訳とは?

今回は戦前、ドイツの駐在武官やドイツ大使を務めあのヒトラーと親交が深かったとされる大島浩について紹介する。(※投稿が遅れてすみません!)


1.生涯

1886年、愛知県名古屋市に生まれる。
母校である愛日小学校では経済人の石坂泰三と同級生であった。
1905年に陸軍士官学校を卒業、陸軍大学校も卒業した後
1921年、駐在武官補佐(1934年に駐在武官に昇進)としてベルリンに赴任する。
日独防共協定の締結の立役者となり、駐独日本大使に就任する。
1940年、大島が押し進めた日独伊三国同盟が締結される。
1945年の第二次世界大戦敗戦後、ドイツで逮捕された大島は日本に護送され
A級戦犯として極東国際軍事裁判(東京裁判)にかけられる。
一票差で絞首刑を免れたものの終身刑判決を受ける。
1975年、病死。

2.ヒトラーと親交を深められた訳

謎多き男ヒトラー。日本と同盟を結んでいたことは有名だが、親交があった日本人はあまり知られていない。それが大島浩(逆にそれ以外を私は知らない)。なぜ親交を深めることが出来たのか、これを考えていく。

一つ目は家庭環境にある。父の大島健一が圧倒的ドイツ贔屓だったのだ。
ドイツ語はもちろん週末にドイツ人の家庭に訪問させてドイツに対する親近感を深めた。第一次世界大戦では敵国だったドイツ、元々敵国だったのに急に(親密な)同盟国と、なかなか切り替えるのも大変だった人もいるかも知れない。
もともとドイツ教育を叩き込まれていた大島にとってその面では比較的有利だったのかも知れない。

二つ目は大島の戦略である。
まだ勢力も大きくなかったナチス党に接近し、ヨハヒム・リッペンドロップ(後の外務大臣)との接触に成功する。リッペンドロップと親交を深め、家族ぐるみで仲良くなったそう(うろ覚え)。これがヒトラーの信任を勝ち得る結果となり、二人は徐々に親交を深めることになる。

3.東京裁判での大島の罪

東京裁判での大島の罪は訴因1「一貫共同謀議 太平洋支配のための18年間の東アジア」である。
訴因1のみで終身刑となったということはドイツと協力したどれだけ重いかを物語っている。
しかし私は(この判決について)間違っていると思う。
大島はもともと共同謀議というより単独行動だったからだ。
日本政府はもともとナチス党と距離を置く方針であったのだがそれを大島が引き寄せたのだ。だから大島の行動は共同謀議に該当しないのではないかと考えている。
(これは他の考えもあると思うので、何かあればコメントに書いてください!)


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