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デジャヴュは夢の続きか、あるいはただの懐古か?――マトリックス・レザレクションズ

※注意※

 本記事にはマトリックスシリーズのネタバレが含まれます。

 2021年12月17日に公開された、『マトリックス・レザレクションズ』。監督はラナ・ウォシャウスキー。主演はキアヌ。リーブスとキャリー・アン・モスがまさかの続投。数々のリブート作品がずっこけたり哀しい顛末を追う中、この作品はうまく行くのではないか……! そんな期待を胸に秘め、劇場へ足を運んだ方も多いはず。面白かったという方も期待を裏切られたという方もいるでしょうが、単刀直入に言えば私は後者でした。今回はその理由を書き綴っていきます。

本作のあらすじと、巧妙なアイデア

 さて、冒頭に「期待を裏切られた」と書きましたが、私はこの映画、全く楽しめなかったわけではありません。面白い部分も確かにありました。それは脚本の面白さです。

 まずそもそも論、この作品はもともと『マトリックス』、『マトリックス・リローデッド』、『マトリックス・レボリューションズ』の三部作で完結していた作品です。現実世界に違和感を抱く青年・ネオがモーフィアスの手によって世界の真実(=自分が現実だと思っているこの世界=マシンが作り出した仮想空間で、本当の現実世界はマシンが生体電流を得るために人間を栽培しているディストピアであるということ)を知る。そしてネオは「人間と機械の戦争を終わらせる救世主である」と預言者に告げられ、その予言の通り戦いの果てに機械との戦争を終結させることに成功する。これがマトリックス三部作のざっくりとしたあらすじです。この作品はいささか難解でよく考えなければ理屈がわからない面を多数残しながらも、綺麗に終わっているシリーズだったと言えます。そういう意味ではここから続編を作るの……? という不安が最初からありました。あんなに綺麗に終わった作品から、どうやって? しかしそこはさすがウォシャウスキー姉妹。レザレクションズのあらすじは非常にクリエイティブかつ、納得の行くものだったと思います。

 マトリックス・レザレクションズのあらすじは以下のようなものです

 前回のラストで戦争を集結させたネオ。機械は人間を畑にすることをやめた――が、その数年後、電力不足に陥った機械たちの中で内紛が勃発。再び人間畑を作りたい派vs.人との共存を目指す派にわかれた。そして再び人間畑を作りたい派はネオとトリニティの莫大なパワーに目をつけた。「こいつらだけ畑に繋いでおけば、めっちゃ発電できるんじゃね……?」と――。

 そして今作。新キャラの女の子(バッグス)が再びマトリックスに囚われたネオを救い出し、半覚醒状態のネオとバッグスが新バージョンのエージェントたち(というかボットだが、詳細は省略)と戦いながらトリニティ奪還を目指すというのがメインシナリオ。

 新マトリックス内では「マトリックス1〜3」はアンダーソンくんが作った超大ヒットゲームだったことになっていて、彼は自分が作った作品が本当のことだったかのように錯覚してしまっているやばめのクリエイター扱いされており、精神科にも通っている。そこにバッグスとモーフィアスが駆けつけて彼をマトリックスから出す。人間畑から脱出する際、自分の目の前にトリニティーの繋がれたポットを発見したネオはトリニティ奪還のため協力してくれとバッグスたちに協力を求める。そして奪還しにいった先でネオたちを待っていた敵の最新型エージェントは、例の精神科医(=アナリスト)であった。ネオの能力からヒントを得て時間を自在に遅延させる精神科医に苦戦するネオ。しかしなんやかやあってトリニティが救世主として覚醒! アナリストをボコボコのボコ太郎にして粉☆砕! ネオとトリニティはマトリックス内をスーパーマンのように飛び回り、にこやかに空へ消えていくのだった……。(fin)

 はい、こんな感じなんですが、ぶっちゃけあらすじだけならかなり面白いです、これ。まずネオとトリニティが再びマトリックスに繋がれているところから始めるために、機械の中で内紛があったことにして、人間の味方をする機械もいる、ということにする。これがかなり巧い。預言者やキーメイカーなど、前作でも人間側の味方をしてくれるプログラムは存在しました。今回はそれを表面化させただけなので、まったく伏線のないことをしているわけではない。そして、ただ単にもう一度マトリックスにネオたちが繋がれたとあっては、人間と機械の戦争が終結していなかったことになりますから、下手をすると三部作でのネオたちの活躍が無意味化してしまう。しかし機械の中で内紛があったのならば、味方してくれる機械が出てきた分人間側の状況は好転しているわけですから、三部作でのネオたちの行動には意味があったことになる。前作を無駄にせず上手に新たな緊張状態を作っているので、この脚本は大変巧妙です。

 また、今回のラスボス的な役割をするのが精神科医(=アナリスト)であるというのもとても良い。そもそもマトリックスの世界観は「私たちが現実だと思っているこの世界こそが仮想空間で、嘘のようなディストピア世界こそが本当の現実なのだ」という逆説的な部分が面白いのであって、その前提から見れば妄想症の患者を現実に留める役割である『精神科医』が機械側の手先である、とするのはこの世界観に非常にそぐった発想であると言えます。大変面白い。

セルフオマージュによって輝くデジャヴュ

 また、本作は前三部作のシーンをふんだんにリフレインさせる演出も見所のひとつ。前作の映像をそのまま持ってくることもありますが、意味合いだけを抜き出してオマージュしている部分もあり、そこは「あっ、あのシーンだ!」と楽しめました。特にトリニティーの覚醒シーンで本名と仮の名が逆転するところなどは、「マトリックス」で自らを「アンダーソンくん」と呼ぶスミスに「俺の名前は、ネオだ!」と言い切るネオの構図が見てとれましたね。あのシークエンスはとても格好良い。

 過去作のキャラクターがたくさん登場するのも面白いポイントでしたね。サティーもよかったですが、私が個人的に推したいのはフランス語罵倒おじさん・メロヴィンジアンです。シルクで尻を拭く彼のキャラクター性は当時から大変気に入っていたので、再登場したことが素直に嬉しかった。マトリックス・レザレクションズの面白いところって、全体的にオマージュ的なんです。思わず言いたくなる。「ああ、デジャヴュだ」と。前三部作のファンとしては嬉しい演出がたっぷりでした。しかし、問題なのはまさにこの辺りでもありまして……笑汗。

あまりにも致命的に崩壊してしまったスタイル

 えー、脚本は面白い。発想も良い。オマージュシーンもファンとして嬉しい。だったら何故私は期待を裏切られたのか? それは端的に言って『前作まで保たれていたスタイルの崩壊』です。無印から始まってリローデッドから、レボリューションズへ、脈々と受け継がれていっていたものが、今回は断絶されていた。それが私にとってはこの上なく残念でした。

 新キャラ、バッグスは確かに重要な役割を担っています。マトリックスに囚われたネオを助けだし、トリニティーの救出も手伝う。しかし彼女は言ってみればあくまでお手伝いさん。メインキャラクターはあくまでネオですから、あんまり活躍はしてくれません。そしてストーリーはほぼ全編を通して、半覚醒状態で往年の力を取り戻せないネオが、それでもなんとかトリニティーを奪還しようと頑張る、というシーンで進みます。リローデッドでのナイオビのような、緊張感のあるシーンはバッグスにはない。というかそもそも死者がほとんど出ないので、「この世界は下手をうつとキャラクターが死ぬ」というスリルがないまま話が進んでいくんです。前作にあった緊張感が消えてしまっている。おかげでバッグスたちの頑張りは言ってしまえば屁のつっぱり止まりになってしまい、潤滑油の役割しかできていない。

 そのように考え始めてみると、本作で失われた『スタイル』はあまりに多かった。それは先ほど書いた緊張感であったり、緑がかったようなダークな画面作りであったり、鐘が鳴るような印象の緊張感に溢れたBGMであったり色々ですが、なんと言っても一番は『アクションシーンが格好良くない』んです! 『マトリックス』なのに! これは致命的です。なんでこんなにもっさりしているんでしょう!?

アクションの不備は “ 俳優のせい ” ではない

『アクションシーンが格好良くなかった』と書くと、きっとこう言う方がいらっしゃるでしょう。「いや、そりゃあキアヌもキャリーももう結構な年齢なんだから、今まで通りのアクションはできないさ」と。確かにそういう側面はあるでしょう。しかしその前提で考えるならば、むしろ彼らはかなり頑張っていたと思います。特にキャリー=アン・モス! 『ジョン・ウィック』シリーズなどがあったキアヌと違い、彼女のアクション映画出演は下手したら『マトリックス・レボリューションズ』以来ではないでしょうか? もちろん『まさしく当時の動き』はできていなかったかもしれませんが、個人的には主演のふたりはどちらもアッパレだったと思います。アクションがつまらない原因は彼らとは別のところにある。それはどこなのかといえば、逆説的ですが、先ほど絶賛した『脚本』にあります。

設定により封印された『必殺技』

 さて、本作の面白いポイントのひとつに『精神科医』がラスボスであるという点があるのは先ほども書きました。彼にはエグザイルやエージェントたちと同じように、彼にしか使えない固有の能力がありましたね。そう――『バレットタイム』です。彼はマトリックス内に流れる時間を自在に遅くすることができます。そして本人だけが、遅くなったマトリックスの中を元の速さで動くことができる。『ジョジョの奇妙な冒険』に出てくるDIO様のような破格のチート能力! これにはネオも苦戦を強いられます。プログラムによる一切の制約を受けないという(『とある魔術の禁書目録』に出てくる上条くんのような)チート能力を得たスミスの協力がなければ、彼の打倒は達成できていなかったかもしれません。個人的にはこれらはかなり胸熱で、興奮する展開でした。敵との共闘、いいですよね。盛り上がります! しかしこの『精神科医』の能力設定はおそらく、思わぬ波及効果を生んでしまうことになった。つまり、『特殊能力としてのバレットタイム』があるお陰で、『撮影技法としてのバレットタイム』が致命的に使いにくくなってしまったのです!

『バレットタイム』がいかに『マトリックス』を象徴する撮影技法であったか、というのは、作中でも語られていますね。ゲームの続編『マトリックス4』を作るべく開かれた企画会議で、参加したクリエイターのひとりが揚々と語っていました。「マトリックスといえば何かわかるな? そう――バレットタイムさ!」このセリフに原作者のアンダーソンくん(=メタ的にみれば監督のラナ・ウォシャウスキー?)は大変に辟易としていましたが、そんなに辟易とするなら何故マトリックスシリーズにはあんなにも頻繁に、しかもかっちょいいバレットタイムが連発されていたのか!? 誰がなんと言おうと『バレットタイム』は『マトリックス』を『マトリックス』たらしめるのに不可欠な要素でした。それが本作には少ない。圧倒的に足りない。おそらく『精神科医』の能力がバレットタイムであるが故に、下手にバレットタイム撮影を行うと視聴者が混乱すると思ったのでしょう。「いま画面が遅くなっているのは撮影技法なのか、それとも敵の能力なのか?」と。あるいは『精神科医』の能力がきちんと目立つよう、なるべく使用を抑えてインパクトを出したかったとかでしょうか? まあ本当の理由は誰にもわからないのですが、ともかく ”記憶に残るアクション" を私はレザレクションズの中に見出すことができなかった。これが大変に残念だったんです。『マトリックス』を見に行ったのにアクションが目に焼き付かないなんて!

爽快感を破壊した『ボット』

 本作のアクションに決定的な不都合をもたらしたものがもうひとつあります。それは『ボット』です。あの目が真っ黒なアレ。新マトリックス内ではネオとトリニティー以外は全てプログラムによる産物。よって、エージェントのようにわざわざ攻撃プログラムが乗り移る必要もなく、新マトリックス内の住民は住民の姿のまま、ネオたちに襲いかかってきます。まるでゾンビのように! これも文章上で見ればそこまで悪い発想には思えません。しかし、残念ながらこれのお陰で、いままであった爽快感は台無しになってしまった。

 マトリックス前三部作には、各キャラクターに明確な強さのランクがありました。つまり、『一般人 < マトリックスを抜けた人間 < エージェント < ネオやスミス』といった具合です。そして上位のランク者は下位ランクの者に基本的に負けることがなかった。そこには容易く超えることのできない実力差があったのです。これが故に、マトリックスでモーフィアスを救出に向かったネオ&トリニティーは呼吸ひとつ乱すことなく銃で武装した特殊部隊員を蹴散らすことができ、リローデッドでは襲いかかるメロヴィンジアンの手下たちをネオが華麗に圧倒することができた。そこにアクションの爽快感があったのです。

 しかし今作はどうでしょう? ボットは確かに、単体ではそこまで強くはない。ですが数が圧倒的に多すぎる。倒しても倒してもキリがない。バッグスたちもネオたちもめちゃめちゃ苦戦します。めちゃめちゃ苦労しながら逃げます。そこにあるのはただただ、閉塞感と窮屈さ。お陰でアクションは華麗ではなくなりました。サングラスをつけたかっちょいい服装のみなさんが、瞳が真っ黒な一般人に苦しめられる映像が延々流れる映画になってしまった。これは本当に『マトリックス』なのでしょうか? 私は何を見ていたのでしょうか?

デジャヴュは夢の続きか、あるいはただの懐古か?

 さて、『本作ではいままでのシリーズにあったスタイルが崩壊している』ということについて書いてきました。しかしそれだけであれば問題ではないのです。代わりになるような新たなスタイルがそこに用意されていたのであれば、それは崩壊ではなく破壊と再生。新たに作り直したものがあるのなら、それは文字通りの意味でレザレクション(復活)となる。ただ、あくまで個人的見解ですが、そうはなっていない。そういう意図がないか、あるいはマイナスの意味で成功してしまっている。ここで問題となるのは中盤に書いたあの要素――つまり、『セルフオマージュ』と『デジャヴュ』です。

 本作は前三部作のシーンをふんだんにリフレインさせる演出も見所のひとつである、と私は書きました。前作の映像をそのまま持ってくることもありますが、意味合いだけを抜き出してオマージュしている部分もあり、そこは楽しめたと。ただこれは、スタイルの破壊と再生を狙っているのなら、その狙いから逆行してしまっている。過去作のシーンが加工されて、あるいはそのまま画面に登場するたび、私は嬉しい気持ちになりました。「あっ、いまのはあのシーンだ!」「あ、このキャラこんなところで出てくるんだ!」ですがそれ以外のシーンには『その面白さ』はない。『過去作のスタイル』を踏襲した『新たなシーン』は味わうことができない。私は何を楽しんでいるのだろうか、と映画を見ながら首を捻りました。これではまるで同窓会です。歳をとった昔の級友、クラスのヒーローだった青年や女性と、懐かしい昔話をして楽しむ。私はとても虚しかった。

 先に書いた通り、この映画の面白いシーンは大半がセルフオマージュ、裏を返せば、この映画ならではの面白いシーンはほとんどありませんでした。あったのは溢れんばかりのノスタルジーに次ぐノスタルジー。ひたすらに面白いデジャヴュの塊。これは果たして『続編』と言えるのでしょうか? これではせいぜいが『懐古編』です。ファンメイドムービーや、マトリックス風ミュージックビデオなどだったらこれで100点満点を出してもいい。きっと私は絶賛していたでしょう。ですがこれを作ったのは本家本元、ラナ・ウォシャウスキー。同じように見るわけにはまいりません。

 そこには何か、狙いがあったのかもしれません。あえて『過去の映像をそのまま見せる』という形式を多用し、逆に踏襲されてきたスタイルを破棄することによって、過去作のリブートや古き良き作品にばかり目を向けて新しいものを見ない懐古主義者たちへ、警鐘を鳴らすのが目的だったのかもしれない。違和感を突きつけたかったのかもしれない。ですがそれはそれ、これはこれ。『マトリックスレザレクションズ』は単体作品ではなくシリーズものです。スタイルを踏襲しないならば、シリーズでやる意味があるのかどうか? 私にはわかりません。(シリーズものであえてやるから意味がある、という考えもあり得ますが、もうそこまでくるとイタチごっこでキリがありませんね)とにもかくにも、以上が私が『期待を裏切られた』と感じた理由です。皆さんはいかがでしたか? 『マトリックスレザレクションズ』、楽しめましたか? それともがっかりしましたか? この記事があなたの感想を整理したり、何かの考えを進める一助になっていましたら幸いです。

以上、渡柏きなこでした!

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