無への帰郷

 ゆっくりと足を踏みこむ。泥にめり込んでいく長靴を確認しながら、さらに一歩、足を運ぶ。視神経と足の神経を繋ぐように歩いてるうちに、あたりは闇に包まれ、水を含んだ泥の咀嚼音が遠くから聞こえる犬のような遠吠えと共に、男の体に染み込んできて、時間の中を音が進むように、男もまた、先を目指していた。
 目的地と言ってしまえば簡単だった。いつまでもつづく泥濘に足は慣れ、体も慣れ、場合によってそれは疲弊であって、視界が限られていた男の感覚は既に肉体の物になり、意識だけが体に付いていくようにゾロゾロと、また進む。
 ときおり足の痛覚が反応した。小石か、小枝か、貝殻か、骨片か、長靴の隙間から流れ込んだ泥の中に、彼の足を刺激するものがあった。だが、止まることができない。彼の運動はすでに自動化していて、心臓や汗や体温や味や痛みと同様、止めることのできない生理現象と化していた。停止するためには脚を切断するしかないように感じた。

 汗が噴き出している。空気の層が幾十にも重なり、男の体を包んでいる。意識はダラダラと肉体に追いすがり、ペチャ、クチャ、と聞こえてくる泥濘の音が足底を押し返す。

 「これが生活だ」男は考える。おそらく男は疲れていた。疲弊、疲弊とはどんなものか男はわからなくなっていた。頭の中を言葉がぐるぐると回っている。男には自分が何を思考しているのかさえ、もう理解できていない。唯一自己だと思われた意識でさえ、ただの運動になりつつあった。言葉は徐々に速度を増し、その輪郭を掴もうとする前に新たな言葉が現れては消える。意識の四方に透明な壁が現れて、言葉は現れた瞬間にその壁に当たり、反響し、縦横無尽に跳ね返っては、消える。その現象は、もしかしたら孤独に近いものかもしれない。だが、純粋な、魂に近い孤独はもっと静寂を纏っているものだ。もっと穏やかで、静かで、安心して横たわることができる場所だ。この反響する言葉に意味はない。騒音だ。己に置いていかれてしまった抜け殻のような「跡」だけ。男はいまや「痕跡」だった。体も意識も男のものではなく、その形骸だけが震えるように存在を主張している。男はただそれらを眺めている視線となる。

 この視線はなにか。この視線は誰のものか。こうやって人々は神々を生み出したのだろうか。視線の外に何者かが現れては消える。俺は試されている。怯むな。恐れるな。そう願っていると男を支えていた何かが消えた。

 むかし男だった何かは、相変わらず泥の中を進み続けている。まことに滑稽だった。笑うしかなかった。あれは生きている限り進むしかない。終わりはなく、希望もなく、絶望もない場所を、生きているという理由だけで進み続けるのだ。慰めもなく、喜びもなく、些細な欲求を満たしては腹を膨らませまた進む。果てるまで我が身に鞭を打ち、ありもしない場所に辿り着こうと必死だ。

 むかし男だった何かは尚も歩き続ける。視線となった神は彼から目を外し遠くを眺めていた。いくつか狼煙が上がっている。地平線で区切られた空へ吸い込まれるように煙は生きていた。昇っていた。見事に。神はとある話を思い出していた。「蚊の世界は倒立している。彼らの世界は上昇することで奈落の底へ落ちていき、下降することで天に昇るのだ」と。
 神は今まで自らに吐き捨てられた唾のひとつひとつを、透明な金縁の器に入れ、熱し、焦がし、削いで、集めていた。それらは今や彼の畑で肥やしとなっていたが、そこで採れる有機物はやがて熟すとに地上へ落ちて、朽ちた。朽ちる実を待つ者もいれば、それを拾ってさらに地面を耕して地中深くに埋める者もいた。その日、落ちた実は地上を這い歩く男にあたった。

 男は天を見上げて、それから地面に視線を落とした。昔は彼にも罪悪感や喪失感があったのだと考えると神には彼が羨ましく感じた。しかし今地上を蠢いているあの生き物には魂がなかった。虚無とはあれのことだ。むかしある男だった身体。足には獣が食らいついた跡があり、彼の周りには蚊が飛びまわっている。男は落ちていた実を拾い上げてしばらく眺めていたが、すぐにその場にうち捨てて何事もなかったかのように歩いていく。その実は充分な栄養と甘さを与えることができたが、いまだ誰ひとりとしてその実を口に運んだ者はいない。
 
 夜が白々と明け始め、やがて無色の世界に覆われた。無色ということは光がないということであり、無論、黒色ではなく、闇であるということだ。昔男だった身体は動き続けている。神の視線は既に注がれていなかった。慈悲がなくなったその地には実が落ちることもない。あれほど高く昇っていた狼煙も今は見えない。そのはずだ。世界そのものが消えていた。その身体は実存せず、虚空に浮かぶ点となった。その点がいずれは大きく爆ぜ、宇宙を生みだすと言われても誰も信じないように、この話もいずれ忘れられるだろう。
 
 







この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?