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無神論者の宗教観

こんにちは。

お徳さん🦅幸せの黒い鴉🚨プロフ読め(@otoku_j)と申します。

表題にもある通り、私は「無神論者」です。
ですが「信仰心」はあります。

一見矛盾しているようですが、矛盾していません。

厳密に言えば「無神論者」ともまた違うのですが、
他に言葉がないのでそう名乗っています。

ここでは、

①何故私が「無神論」へたどり着いたのか。
②何故「無神論者」のくせに「信仰心」があると言っているのか。

これらのことについて触れていきたいと思います。

なお、基本的に「現実世界に存在する宗教」には、
極力触れない方向でいきます。

「宗教論」というのは非常にデリケートなお話ですし、
別に私は「宗教論争」がしたくてこの記事を執筆したわけではありません。

あくまで、ここに記す事柄は、
全て私個人の1つの見解であるということにご留意ください。

もしかしたら、これをお読みになる方で、
或いはご自身の「信仰する宗教」に反することも書くかもしれませんが、
もし不快に感じられるようなら、大変申し訳ございません。
先に謝罪しておきます。

何度も言うように、これはあくまで「私1個人の見解」であって、
誰かの信仰心や特定の宗教を貶める意図は全くございませんので、
どうぞ温かい目で見てやってくださいませ。


なお、宗教学における定義としての「神」と「仏」とは、
厳密には異なりますが、
ここでは「同じもの」として扱います。
実際、私は「本質的にはどちらも同じもの」だと思っていますし。


神様って、そもそもなんなの?

これ、自分の頭で「考える」ということをしたことがありますか?
例え実際にあなたが「神様や仏様」を信仰している、していないにかかわらずです。


まずは「本質」を理解する

初めに「水」をイメージしてください。

これはいわゆる「心」「魂」と呼ばれるもののイメージです。

現代の「脳医学」などによる「心や魂の存在の否定」もここでは無視します。

なお、めんどくさいので、
「心」や「魂」、「精神」などをひっくるめた言葉として、
これ以降は「心魂(しんこん)」と表記していきます。


さて、あなたの「心魂」は「水」です。
イメージできましたか?

続いて「コップ」イメージしてください。
それがあなたの「身体」です。

「水の入ったコップ」
これが「肉体(コップ)」と「心魂(水)」をもった、
「あなたという存在」です。

コップを揺らしたりなど、
「何らかの力」が作用すると、
「中の水」は「揺れる」わけですね。

これが「心の動揺・感動・魂の揺さぶり」です。
良い意味でも悪い意味でも使われますね

もしコップが「割れたり、壊れたり」すれば、
「中の水」は「こぼれてしまう」わけですね。

これが「死」です。

ですが「身体」である「コップ」が壊れても、
「心魂」である「水」は残ると私は考えています。

とは言え、「水(心魂)」は、
「器(身体)」を失ってしまうと、
そのままでは「心魂」としての「存在」を保っていられません。

現実の「水(Water)」と同じように、
「水たまりとなる」
「他の水と融合する」
「蒸発し、雲散霧消する」

のいずれかを辿ると考えます。
上記は「個々のイメージの話」です。


では、続いて「海」イメージしてください。

「海」は、いわば「大きな水たまり」ですね。

結論を言ってしまうと、
この「心魂の海」こそが、
「神様」と呼ばれるものの正体
であると考えます。


心魂は知覚できない

1. 個々の心魂

あなたには「心魂」があるはずです。

そして、あなた以外の「人間」「動物」「植物」にも、
同様に「心魂」があるはずです。

もっと言えば「無生物」にすら「心魂」が宿るものと私は考えています。

具体例を挙げるとするなら、
「付喪神」
などが有名どころですね。

付喪神、つくも神(つくもがみ)とは、日本に伝わる、長い年月を経た道具などに神や精霊(霊魂)などが宿ったものである。現代では九十九神と表記されることもある。
出典:Wikipedia 付喪神 より

これは何も「日本」だけに限らず、
「世界各地」に見られるお話です。

例えば「呪いの○○」といった「モノ(無生物:例えば呪いのダイヤ・絵など)も、
立派な「付喪神」です。


しかし、我々にそういった「心魂」を知覚することは出来ません。
他者や他のモノに宿った心魂はおろか、
「自分自身の心魂」すら、
実際には「直接知覚できているわけではない」のです。


あなたは「あなたの心」「具体的に」知覚できていますか?
おそらく「なんとなくあるように思う」と感じている程度ではないでしょうか。

「心の動き」
「思考」

こういったものから、
「あるように感じている」のではないでしょうか。

そんな「自分自身に対してすらアヤフヤ・曖昧」なモノなのに、
「他者」「他物」の「心魂」の存在など、
もっと「曖昧」です。

自分以外の「他者」に、
果たして本当に「心魂が存在している」のかどうかは、
「自分」という「主観」からでは絶対に「ある」とは言い切れません。
証明することも不可能でしょう。
(実際「心や魂の科学的な存在証明」は、未だなされていません。)
「多分あるんだろう」と各々が主観で「推測している」に過ぎないのです。

「人間」などの「動物」には、
「動き(動作・行為・行動)」があるので、
それによって「間接的」に、
「おそらく自分と同じように、他者にも心魂があるであろう」
考えているだけなわけですね。


2. 大いなる心魂

さて、話を戻しましょう。

そういった「器(身体)」に入った「水(心魂)」は、
「器の存在」或いは「器の動き」などによって、
なんとなく「水が入っている」ように「感じることができる」わけです。

では、「器のない水(身体を持たない心魂)」はどうでしょうか。

先に「水=心魂」の「塊り」である「心魂の海」こそが、
「神様」のイメージだと書きましたね。

当然、これもまた直接「知覚」することは、
少なくとも一般的な人間には不可能です

言わずもがなですね。
何故なら、
そもそも「器の動きから中味を想像できる」に過ぎない、
非常に曖昧な「モノ」であるのに、
その「ヒント」となる「器すら持たない」のであれば、
そこに「心魂が存在するかどうか」など、
誰にも解かりようはずがありません。

これまで話してきた「心魂=水」とは、
何度も申し上げます通り、
あくまで「イメージ」の話であり、
実際の「水(Water)の性質」とは異なったモノのことを記しています。

当然ながら「海」としてイメージした、
「器を持たない心魂の大きな塊り」であるところの、
「神様」という存在も、
一般的には「知覚」することが出来ません。

これまた何度も申し上げます通り、
「心魂」とは「直接知覚できる存在ではない」からです。

その点では「人の心魂」「心魂の塊りである神」同一であると言えます。


果たして「心魂」は「本当に」あるのか

それは誰にも解かりません。
私を含め、誰にも「直接知覚することが出来ない」からです。


物理学において、
「力」と呼ばれるものは「4種類」あるのをご存じでしょうか。

①電磁気力
②強い力
③弱い力
④重力

の4種類です。

ここでは物理学や素粒子論などについて語る気はないので、
詳細は割愛しますが、
一般に我々が実生活の中において「知覚する相互作用」とは、
上記の内「①と④だけ」です。

この内、④の「重力(ニュートン力学などの『古典力学』においては『万有引力』と呼ばれていた力)」は、
意外に思われるかもしれませんが、
上記4種類の相互作用の中で「最も弱い力」なのです。

そして、現時点(2019/1/19)では、
「重力」をもたらしている存在(仮説的に『重力子』と名付けられている)は、
未だ「未確認」であり、
一説には、
①重力(重力子)は「別の次元がきている」のではないか。
②故に「弱く、(重力子を)観測できない」のではないか

とも言われています。

これらの話は、
一見脱線話のように思えるかもしれませんが、
実は「『心魂』にも通ずる話なのではないのか?」と個人的には思っています。

要するに、

「心魂」とは「我々の宇宙」には「存在していない」存在なのではないか

と。


結論

1. 心魂はどこに存在しているのか

心魂が存在していると仮定した場合、
我々はその存在を「直接知覚することが出来ない」のは、
先にも再三述べた通りです。

①心魂なんてものは無い(存在しない)
②心魂は有る(存在する)

どう考えるかは人それぞれでしょう。

ですが、私は、

「心魂は存在する『可能性』がある、
そして、そうであれば『別次元に存在している』のではないか」

「現段階」では結論付けています。
先に挙げた「重力」のように。


「結論」というには、あまりにも「曖昧」ですが、
何度も言うようにそもそも「直接知覚できない」曖昧なモノなのですから、
仕方ありません。

ですが「高次元(別次元)」という存在は、
いわゆる「パラレルワールド」の概念のような、
「別世界」ではありません。

この宇宙に「重なり合って存在している」のです。

そう仮定した場合、
「心魂は『高次元に存在している』が、
同時に『我々の次元』に『重なり合って』存在している」

と考えることも出来るわけです。
少なくとも、私はそう考えています。

故に、
「心魂=水」のイメージは、
「別の次元に存在している」
と仮定しています。

我々の「心」「魂」も、
そして冒頭に申し上げた、
「心魂=水」の塊りとしての「海」のイメージである、
「心魂の集合体である神」も、
また「別次元(我々には知覚できない高次元)の存在」である、
と思っているわけです。


2. 心魂の性質=水の流れ

「心魂そのもの」は、
原則「器無し」では「我々の宇宙」留まっている事は出来ないと考えます。
…ま、実際には「留まっていられる」のかもしれませんが、
少なくとも我々に知覚することは出来ないので、
本当のところは不明です。
あくまで「仮定」であり「個人の見解」です。
故に「可能性がある」と表現しています。


さて、我々「個人」の「心魂」が、
「器(身体)」を「失くした状態(死に至った状態)」になった時、
その「水」たる「心魂」は「分散」するように思えます。

その一部「水たまり」のように「一時的にどこかに留まる」可能性もあります。
ですが、それもやがては「蒸発」する「かもしれません」

或いは「川」のように、他の「水」と融合し、
やがては「海」に到達するの「かもしれません」

そして、この「心魂の川」は、
或いは「心魂の海に繋がっている」とも「考えることが出来ます」

加えて、これは何も「器を失った状態(死)」に限らず、
まだ「器がある状態(生きている状態)」においても、
「コップ」の中の「水(心魂)」は、
あなたの「心魂の動き」により、
量の大小に差はあれど「川へ注ぐ」ことが出来るとも思っています。

この「心魂を川へ注ぐ行為」こそが、
いわゆる「信仰心」と呼ばれるものなのではないでしょうか


3. 心魂の集合体である「神」の性質

多くの「心魂」「信仰心」によって注がれた「心魂の川」は、
やがて「大きな大河」となり、
その行き着く先の「海」も、
より「広大」になっていきます。

そして、この「心魂の川」は、
現実の川とは違い「逆流」することもあると考えます。

これが、いわゆる「神様のお力添え」というやつです。

数多の「心魂」が集まってくる「広大な海=強大な神」であれば、
或いは
「心魂の海たる『神』から、
その『心魂』の一部を受け取る」
ことも出来るのかもしれません

逆に「心魂が少ない海」であれば、
徐々に「海」は収縮していくのではないでしょうか。


世界中のたくさんの人々が、
共に「同一」「心魂の海(その人々が共通に信仰する神)」へと繋がる「心魂の川」に、
常に大小さまざまな形で「心魂を注いでいる(信仰している)」のであれば、
その広さは「広大」であることでしょうし、
これからも「更に広大」に、
そして「更に強大なもの」になっていくことでしょう。

或いは、人数自体は少数であったとしても、
「1人あたりが多くの心魂を川に注いでいる」のであれば、
またそれも、それなりに「広大」であり、
また今後も「広大・強大」になっていく
とも言えるのかもしれません。

逆に「誰からも心魂が注がれない川」であれば、
その先の「海」はやがて縮小し、
個人の「心魂」のように、
どこかに「吸収・融合」されてしまうものなのかもしれません


そう考えると、以下は個人的な見解ですが、
例えば「海から心魂を頂いた(神頼みして神の恩恵を得られた)」感じたのであれば、
「川に心魂を注ぎ返す」のも必要であると考えます。

「貰ってばかりで返さない」のでは、
その「心魂の海」収縮していく一方になってしまうことでしょう。

これがいわゆる「神頼み」「御礼参り」といった関係に相当すると思っています。

従って、どんな神様を信仰するのも自由ですが、
例えばあなたが何らかの願いを込めて「神頼み」したなら、
出来る限りの「御返礼」もするべきだと私は思います。

例え「見えない存在」「知覚できない存在」が相手だとしても、
そういった「お返し」という行為をすることは、
「現実世界における対人関係」と同様の、
「礼儀」
であると言えると思います。

ましてや「知覚できない相手である」からこそ、尚更です。
が、相手は「知覚できない存在」であるのもまた確か。
その辺が疎かになりがちですが、
相手は「高次元の存在」です。
そして「心魂の川」に「時空は関係ない」とも思っています。

ですので、わざわざその「神頼みしに行った場所」へ、
「直接」御返礼に行かずとも、
「感謝の気持ち」を「心に思う」だけでも、
「心魂の川」へ「あなたの心魂の一部」を注ぐことは、
充分に可能であるとも思っています。


4. 良い事ばかりじゃない

また、水は「不純物」が混じれば汚れますね
最悪「汚水」となってしまいます。

これは「人」もそうですし、
「神」も、またそうなのだと思います。
同じ「水(心魂)」を持つモノ同士として、
「綺麗な心魂」を注げば「綺麗な純水」となっていき、
逆に「汚い心魂」を注げば「汚水」となっていってしまうように思えます。

冒頭で例に出した「付喪神」「呪いの○○」といったもの。
これも「邪念・邪心」といった「汚れた心魂を注いだ結果」であると思っています。

当然ながら、これは「物体」に限った話ではなく、
個々の「心魂」そのものも、
そしてその「心魂を注ぐ川」の先にある、
「海(神)の心魂」「汚してしまう原因」になりうると考えています。
「邪神」「荒神」などと呼ばれているモノは、
まさにこういった「汚れた心魂の塊り」なのでしょう。

故に、「心魂」も「綺麗なモノ」を贈りたいですね。
その相手が「人」「動物」であっても、
物言わぬ「物体(無生物)」であっても、
そして「神様」という存在であったとしても。


5. 結論の結論「神」と呼ばれる存在について

「神は存在するのか?」
といった命題には、
様々な宗教、宗派によって多種多様な見解があり、
時に「論争」にもなります。

まあその辺りはおいといて、
私個人の見解としては、

「我々と同じ次元の宇宙に、我々と同じように存在する」としてしまった時点で、
もはやそれは「神」とは言えないと思うのです。

逆に言えば、

「我々と同じ次元には存在せず、
『低次元の人間』たる我々には、
決して『手が届かない高次元の存在』である」

からこその

「神」

であるのでしょう。

我々と同じ「目線」の「低次元」「引きずり下ろした」段階で、
それはもはや「神の本質」を失っていると考えます。

故に、

「この次元に神は存在しない」

と私は結論付けました。

従って、私は「無神論者」です。

もっと厳密に言えば、
「神はこの『宇宙には存在する』が、
『我々の次元には存在しない』存在である」
「故に『神』である」

と考えているので、
一般的に言われる「無神論者」とも、
また少々「ずれている思想」であるとも言えるかもしれません。

しかし、私の考えでは、

「神と呼ばれる存在は、
この宇宙に重なり合った、
我々の次元よりも『高い次元』には存在している『可能性』がある」


とも思っていますので、

「無神論者ではあるが信仰心はある」


という思想に落ち着いたわけなのです。


また「○○の神」といったように、
人間が「神を仕分ける(区別し、別々に考える)」時点で、
その行為そのものが、

「我々人間と同じ、
低次元のレベルにまで、
神を引きずり下ろす行為であり、
神を『神たらしめない』行為である」

とも思っています。

故に「神」とは、
「我々と同等に、低次元の世界では語れない存在」であり、
であるが故に「神」であると考えるに至ったというわけなのです。

これが私の「無神論者の宗教観と信仰心」です。


最後に

冒頭にも申し上げました通り、
これはあくまで「私1個人の見解」に過ぎません。

これを読んでくださっている、
「あなたの信仰心」
「あなたの神に対する考え方・思想」

などを、
決して否定するものではありません。

共感するのも自由。
反発するのも自由です。

ただ、私は「神とは何なのか?」という命題について思考し
現時点でたどり着いた「結論」が上記のものであるというだけです。

或いは今後、
私自身、ここに書いたような「思想」が変わっていく可能性も否めません。
もしかしたら数年後には「全く真逆のことを言っている」可能性もありますw


この問題に「答え」はないのです。
少なくとも、
「神と同じ『高次元』の領域にたどり着ける」
ようにならない限りは。

実際「神と同じ領域の存在である」と、
「この次元宇宙内で語っている方々」も現実世界にはいらっしゃいますが、
私はハッキリ言って、そういう方々を全く信用していません。


…まあそれはとして、私自身も含め、
「現時点での考え・答え」固執し、
「妄信する」ことこそが、
何よりも危険な行為であるとも思います。

常に「考えていくべき」であるし、
何か新しい考えにたどり着き、
本当に「良い・正しい」と結論付けたなら、
前の考えは投げ捨てて、
常に「変化」させていい。

私はそう思っています。


これは何も「宗教観」だけに限った話ではありません。

「一つの考えに固執し、妄信し、思考停止する」ことこそが、
最も「危険」なことなのです。

死ぬまで「学び続けること」。
生涯「研鑽し続けること」。

安易に鵜呑みにせず、
安易に妄信せず、
「自分の頭で考える」
ことを放棄しないでください。

そのためには、
「常にアンテナを張り、多角的な視野を持つ」
ことが何よりも大切であると考えます。

これも1つの「情報」です。

どう捉えるか、
どう考えるかは、
あなた次第です。

ここまで読んで頂き、
ありがとうございました。

ご意見・ご質問などございましたら、
こちらの記事にコメント頂くか、
或いはお徳さん🦅幸せの黒い鴉🚨プロフ読め(@otoku_j)まで、
お気軽にどうぞ。

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