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桜、また咲く。

「卒業おめでとう」と送る人が言う。送られる人は『これまでありがとうござました』と頭を下げる。礼が本気なら、それは深く重い。コンビニで釣りを受け取る「ありがとう」とは次元が違う。通り過ぎたそばから忘れ去られていく車窓からの1シーンと一緒にしまえないくらい、未来に響く。

 そういえば人生における直球の卒業てぇのは、前半にそのほとんどが集中している。後半になると隠喩の変化球へと変化し、しかも2つしか残されていない。おまけにそのいずれもが、始まるための終わりじゃないってぇのが癪にさわる。

 かつて桜は入学時の歓迎アーチだった。今では新緑の葉桜にとって代わらてしまったが、ぴかぴかの1年生には開花の花びらがよく似合っていた。現代の桜は入学式を卒業してしまっている。

 卒業の卒の字には、終わりという意味がある。人は学を積んで卒業し、区切りをつけて(終えて)は、成長し始めていくものだが、学んで切り開いた先に、明暗それぞれの足跡を残してしまった。便利で快適の波には、皺寄せを被る被害者がいた。泣き寝入りするような被害者ではなかった。当人たる大自然は顔をしかめ、袂をふるうと氷河が溶け始めた。
 愚行はあとになってしか気づけない。誰も進む先に断崖絶壁が待ち受けているとは想像だにしていなかった。

 人は修めるたびに賢くなっていく。だが同時に消せないしこりを膨らませていく。若かりしころの直球卒業時、志に満ち、曇りのない眼差しで明るい未来をのぞめたのは、負荷をまだ抱え込んでいなかったからだ。社会に出て世知辛さが体に染み入ると、行く手には多かれ少なかれ暗雲が立ち込めていることが見えてくる。

 卒業とは、広義で言えば、終えて、始めること。開花は入学式から卒業してしまったけれども、桜は転んでもただでは起きなかった。今では済ました顔で卒業式に顔を出す。その変わり身の早さといったら。桜には終わっても始まりがあった。まるで直球の卒業式だ。
 対して変化球の卒業には、大事なものが欠けている。人生の業を修め終えても、その先に始まりの戸口はない。
 英語は気楽だ。人生に卒業というメタファーをあてる習慣があるのかどうかは知らないが、卒業式・卒業を Commencement ・ Graduation と表す。Commencement は始まりであり、Graduation は段階の途中にあることを表している。いずれも「これからの未来」を明示するに終始し、そこに「終わり」のニュアンスはない。

 自戒を込めて世の社会人に問う。早晩、訪れるものと諦めてはいけない。散るには覚悟が浅すぎる。開花時期がずれたとて、桜は散ってもまた咲くものと決まっている。

 誰だ? その桜にも寿命があるなんて不謹慎なことを言うヤツは。

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