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清い探偵。

「倍だそう。いや3倍の300万円だ。これならいいだろう」

 俺は探偵をしている。世の中は広いもので、社会には探偵大学校なるものがあって、俺はそこを2年で卒業した。成績優秀。もっとも同級生は6人しかおらず、ほかの連中はテレビの影響で憧れからか、下心からか、あるいは滑り止めにも引っ掛からなかった落ちこぼれしかいなかったが。
 正規に学べば4年の苦行も、地獄の沙汰も金次第。白湯を水で薄めたようなぬるい授業に貴重な4年を費やしたくはなかった。できるだけ早く俺は社会復帰したかった。
 校長に5000円札を握らせると、「君の場合はいちど社会人を経験しているしポテンシャルは高いからねえ。特別だよ」と快諾してくれたのだった。

 毎時の授業はテンポがぬるかったけれど、単位取るのに授業をめいっぱい詰め込んだ。まるで倍速で生きてるみたいだったぜ。おかげで忙しい2年は充実していた。
 今どきの大学生には欠かせないキャンパスライフはなし。スタディ・ライフ・バランスの偏りなんてなんのその。俺に同期の仲間は価値観的に不要だったし、人間の幅を広げる経験を学舎で積む必要もなかった。社会経験は十分に積んでいたし、遊んでくれる女ならいくらかいる。

 学徒には大卒のラベルを背中に張ってもらえればそれでよしという者もいた。学業途中に探偵という裏舞台で生きることに抵抗を少しでも感じた者は、大卒を武器に表舞台の企業を狙おうとする。学びの最終段階でカタギへの路線変更を急カーブでステアリングを大きく切るみたいにしてタイヤならぬスピリットを軋ませながら曲がろうとするなんざ、自殺行為そのもので、ハンドルを切るほうも切るほうだが、そいつを受け入れるほうも受け入れるほうだな、なんて呑気に構えていたら、案の定、最後のツメで鞍替えしようとするうわついた輩は門前に辿り着く以前、書類選考であっけなく落とされていた。
 まあ俺はもともと他人に興味はないし、俺の知ったこっちゃないから、風の噂を耳にすれば来るもの拒まずで受け入れるが、それ以外の情報はあえて知ろうとは思わない。

 学校で学ぶものは多々あった。尾行の裏技や発信機の入手ルート、ロープの結び方の使い分けの必要性、護身用プロテクターの作り方、法律とソレをはみ出た場合の罰則と対処法もしくは軽減する方法、探偵に優しい弁護士の見分け方など、独学では知り得ぬ知識を得られたのは大収穫だった。

 卒業式には出なかった。卒業証書を授与されるだと? 探偵に資格など存在しない。国家無資格の職業だ。名乗ればその日から探偵になれる。そんな自己申告性の職業がどのようにすれば卒業証書と結びつくのか、どう考えても理解しえぬ。自己満足? 空回り? 考えればそのぶん虚しくなる深掘りなど意味はなかった。それでもくれるというから(それも押しつけるようにして)、仕方がないから着払いで送ってもらうことにした。

 無事卒業して事務所を構えたその日、探偵記念日と日記に書き込んだ。

 仕事はぽちぽちと入ってきた。毛利小五郎ほど暇ではなかったけれど、毛利小五郎ほど大事件にも巻き込まれることもない。大半が浮気調査で、中にはたまにどこで誰に聞いたのか、SM依頼なんてのも混じってきた。
 探偵事務所はSMクラブじゃねえ。とはいうものの、頼まれれば食うに困った輩が依頼を受けちゃうことがあるそうだ。なるほどねえ、真実の探究とは奥が深い。

 俺はそれはしない。確かにロープの結び方は心得ている。
 ん? なるほど、こういうところに嗜好者は目をつけ依頼してくるわけかと、今さらながら探偵の潜在能力に気づく。

「いや、金の問題じゃないんだよね」と俺は即答で拒絶した。いくら金を積まれても、それが300万円じゃなく301万円まで値を釣り上げられても、離縁の口実に妻の浮気を仕掛ける仕事は絶対に受けない。それは探偵の仕事じゃない。詐欺師の騙しそのものじゃないか。
「夢見の悪い仕事はしないようにしているんでね」
 裏舞台で生きると決めはしたけど、それは裏世界で生きるのとは違う。尾行で服を汚すことはあるにせよ、それは汚れ役とは違う。泥と汗にまみれても、心は錦であらねばならぬ。それが俺の生きる道。そう決めてんでぇ。
「志っていうやつ? 生き方として、裏舞台からでもお天道様に顔向けできる生き方を貫くつもりなのでね」

 依頼主は301万円なんてケチくさいことは言わない。もう100万円上乗せするから受けてくれと迫ってきたが、問答無用、ひと悶着あったがその後、半ば強引にお引き取り願った。

 依頼主は秘密を最小限にとどめておきたかったらしい。だから俺ひとりへの依頼にこだわった。俺は自分の主義主張を1ミリでもブラしたくはなかったし、職業柄、ほかの誰にも話しやしないよ、安心しな。

 金に困っていないわけじゃない。探偵は割といつだって金策に走っている。本業よりもこまめで頻繁に走っている。
 まるでひとりパシリだなと自虐的に思うことがある。それって、ダークなジョークそのものだった。

 俺は探偵さ。土曜日夕方30分番組のスポンサーがついている高校生探偵と違って、金欠に苦しむ苦学生ならぬ一匹狼の苦探偵なのさ。



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