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『喜びの毒牙』


 酷く寝苦しい夜だった。
 瞳孔が闇に乗じて開き、夜目が利いていくのが分かる…。
 くらくらと視界が揺れた…。
 ねっとりとした夜気が、眼球に纏わり着く嫌な感覚がある。
 ぐっと力を込め目蓋を閉じた。
 涙腺から流れだした液体が眼球を潤し充していく。
 暫くしてゆっくりと眼を開くと、液体の膜に視界が暈け、一筋の涙が眼頭から溢れ落ちた。
 いびつに歪んだ視野が弾け、一瞬だけ闇の濃さが増したようだった。
 夜目が再び戻ると、言い知れぬ不安が頭を擡げる。すると突然、肉体の内側から、さらに意識の奥底から…、
 るる るるる る…と、得体の知れない何かが喉を鳴らし唸る。怒りと畏れと渇望がひとつの畝りとなり重く低く頭蓋に反響する。

 断ぜよ…煩悩を断ぜよ…、時告ぐり満ち満ちてゆけ、然れば我は…あの荒野へ…再びあの荒野へと…。
 次々と浮かぶ言葉が同じ速度で失念していく…、さぁ どうする …その問い掛けに理性の箍が緩む。
 ただベットに横たわった儘…それは深く沈んだ水底から水面へと浮揚する感覚……浮き上がりながらフォーカスが絞られ、瞬間的に焦点が合わさる。口内に広がる痺れと鉄の味に噎せ返ると、歯牙が吃音を谺させた。


 野生の夢を見た。
 それは思い出す筈の無い、悠久の忘却であり、遺伝子のレベルで喚起されるものだ。
 呼び起こされた記憶が怖気を震う。
 産毛がちりちりと逆立ち、皮下の筋肉が隆起と沈降を繰り返す。
 なだらかに胸打つ呼気は、徐々に深く激しさを増し、軈て鼓動は早鐘の如く高鳴り、息さえも絶え絶えとなる。
 全身の皮膚が毛羽立つ感覚を憶えたとき、DNAに刻まれた無垢な本能が顔を覗かせた。

 野生が覚醒した…。

 いま、濁りのない瞳が、果てなき荒野を見渡している。
 捉えるべきは獲物の姿。
 嗅覚が獲物の汗を嗅ぎ分ける。
 久しぶりの狩りだ。
 失敗は許されない。
 撓やかな動きは、獲物に気取られぬように。
 軽やかで俊敏な動きは、獲物を追い詰める為に。
 全身に流るる血と本能が赴く儘に全速力で疾走していく。
 なぶろうか…それとも一瞬で仕留めようか……弄びながら命が消えていく刹那を思いゾクリとしながらも、それを凌駕する飢餓感が沸々と湧き立ち細胞の殆どを支配していく。
 その細胞のひとつひとつが、いま両眼に捉えたモノを獲物だと告げる。
 発した言葉はもはや意味をなさず、咽喉を鳴らしめ、唸り、猛り、そして雄叫びとなった。


「酷く寝苦しい夜だった」
 男の供述はその言葉から始まった。
 肌に張り付いた布の不快な感触で目が醒めたのだという。

 薄手の掛け布団を捲り、籠っていた熱を大気へと逃がし、胸前に手を触れると、皮膚に浮かぶ玉の汗が滑る。
 滴る汗を拭おうと枕元のタオルに右手を伸ばした時だった。
 其処にあるはずの無いものに触れた。
 ドロリと粘る温かな液体…
 夢と現の狭間で拡散していた意識が収束する。
 鮮明な意識……我に返った己れの手は、ヘモグロビンと酸素が結合した赤黒い血液に塗れていた。
 その傍らには、顔の無い眼球が二つ…自分を見つめていた…。


 男の供述は、飽くまでも夢の中での出来事として語られ、ある意味では一貫していた。
 夢を見ていた時に感じていたものは、実在の自分とは乖離した別の何かだという主張…、その時は…交わり喰らい眠る、ただむさぼるだけの存在、それが野生たる所以であり、己れのすべてだった…のだと言う。


 事件の詳細は未だ不明…。
 事件発生は52階建て高層ビル。
 加害者と看做される男が目覚めた部屋は40階の4017号室。
 被害者となった女性の遺体は、52階のペントハウスで発見。
 尚、45階以上は特別室としてカードリーダー付き専用エレベーター以外は停止しない。
 目撃証言無し。
 警備用監視カメラに該当映像無し。
 ホテル壁面に血痕や毛根など多量の付着物有り。
 凡そヒトがヒトである限り、不可能とされる犯罪……、それは後に無意識下の犯罪と呼ばれ物議を醸す事になる。
 現行の法では裁く事のできない、通称「ワイルド・スリープ(野生の眠り)」と呼ばれる事象、不可能犯罪の誕生である。


 鑑識からの報告によると、男の部屋で未認可の実験用薬物を押収。押収薬物は現在、成分を解析中。詳細は追って報告するとのこと。
 尚、ラベルの記載は以下の様なものだったという。

subject:R-UNa TYPE Ⅱ
(被験体:ルナ タイプ Ⅱ)
brain chemical:R Ⅱ Acetylcholine
(脳内物質:アール Ⅱ アセチルコリン)
synthetic drug:INDIMEZIN
(合成薬:インディメジン)

Under the moon.
(満月の下)
A Cruel God Reigns.
(残酷な神が支配する)

 了



※ 本作品のタイトル『歓びの毒牙(よろこびのどくが)』は、フレドリック・ブラウンの小説「通り魔」(The Screaming Mimi)を原作とした、ダリオ・アルジェント監督のデビュー作品であり、1970年制作のイタリア・西ドイツ合作のサスペンス・スリラー映画『L'uccello dalle piume di cristallo(原題)/The Bird With The Crystal Plumage(英題)』の日本語タイトル『歓びの毒牙(よろこびのきば)』から引用させて頂きました。

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