先生が先生になれない世の中で(23)先生は未来に触れることができるから
先生はつくられるもの。そんなことを考えさせられる美しい映画がある『ブータン 山の教室』(2019年)だ。
教師である主人公ウゲンは、携帯とヘッドフォンを放さない「今どき」の青年。ブータンでは教師の社会的地位は高く、おばあちゃんも「教師は国のために仕える栄誉ある職業だ」と言ってくれるのに、ウゲンはまったくやる気がない。それどころか、教師なんかすぐに辞めて、オーストラリアに行って歌手になることを夢見ている。見かねた上司は、ブータンで最も僻地と言われる「ルナナ」の学校に、ウゲンを期限つきで送り込む。人口56人、標高4800mの天空の村だ。
バスに長いこと揺られ、ルナナ最寄りの町に到着すると、ウゲンはミチェンという若者に出迎えられる。村長の代理で来たと言う。村長が僕のことを知っているのかと驚くウゲンに、ミチェンは笑って答える。「もちろん知ってます。村じゅうが楽しみにしている。」
よくわからないまま、夕食を振る舞ってもらうのだが、食事が出てきてもウゲンはずっと携帯をさわっている。ミチェンが話しかけても、返事もろくにしない。翌朝、延々と山を登る6日間の過酷な旅路が始まるのだが、ウゲンは会話もせず、ヘッドフォンを放さない。荷物を持ってもらい、川を渡る時には手を貸してもらい、途中の山荘では一人だけ竹の器で食事を出されるウゲン。一方、彼の「先生」らしくない言動には、案内役であるミチェンの表情にも戸惑いが見られる。
ルナナまで歩いて2時間という所までようやく辿り着いた時、ウゲンは丘の上に並ぶ人々を見つける。「あれは?」と尋ねるウゲンにミチェンは笑顔で言う。「村じゅう総出で先生を迎えに来ました。」
すぐ帰るつもりでいたのに、あまりの歓迎ぶりに困惑するウゲン。村じゅうの人々が静かに見守る中で村長とお茶をいただくウゲンの顔には、気まずさが隠せない。「先生、村の子どもたちに教育を与えてください。村の仕事はヤク飼いや冬虫夏草を集めることですが、学問があれば別の道もある。」そう懇願する村長に、ウゲンは返す言葉も見つからない。
ルナナは、携帯電話も通じなければ電気もガスも通っていない。「教室」も粗末な小屋で、黒板すらない。愕然とするウゲンに村長は静かに語りかける。「ご覧のとおり何もありません。でも子どもたちは勉強したいと願い、先生の到着を喜んでおります。」
翌朝、町に帰るつもりだったウゲンを、クラス委員のペムザムが起こしにくる。9歳くらいの女の子だ。授業の開始時間を過ぎているから心配して見にきたのだと言う。後でわかることだが、ペムザムの家庭は崩壊している。父親は一日中酒を飲んで賭け事ばかりし、母親はヤクを連れて村を去ってしまった。今はおばあさんに育てられている。それでも、ペムザムの透き通るような目、無垢な笑顔、礼儀正しさには、逆境の中でも光を求め続ける生命の強さと、見る者の心を洗うような純粋さがある。
しぶしぶ教室に行ったウゲンを、村の子どもたちは目を輝かせて迎える。しょうがないので、ウゲンは子どもたちに自己紹介するように言う。将来は「歌手になりたい」というペムザム。一番小さなペマは、大きくなったら国王に仕えたいと言う。みんなよりひとまわり大きいサンゲがなりたいのは、先生だ。ウゲンが理由を聞くと、ウゲンの目を見つめながらこう答える。
「先生は未来に触れることができるからです。」
後日、それは村長の口癖であることをウゲンは知る。「村長はいつも言います。先生には敬意を払いなさい。未来に触れることのできる人だ。」そう言うミチェンに、ウゲンは苦笑いして答える。「教職課程では教わらなかったな。」
無邪気で好奇心旺盛な子どもたちに慕われ、村民に大切にされ、大自然の中でヤクと共に謙虚に生きる人々の姿を見る中で、ウゲンの心は少しずつ教えることに向かい始める。前の教師が残した教材の中から使えそうなものを探し、教壇を整え、炭で壁に数式を書く。翌日の授業の準備をし、町にいる友人から教材、ボール、ギターなどを取り寄せ、炭で自家製の黒板を作ってもらい、ついには風除けに貼られていた自分の部屋の伝統紙まで使って授業をするようになる。そうして、ウゲンはいつしか「村に欠かせない存在」になっていく。
フィクションの映画ではあるものの、ルナナは実在し、映画に登場するのも実際の村人たちだ。ペムザムも実名で、実際の家庭も崩壊しているそうだ。監督のパオ・チョニン・ドルジ氏が、ブータン中を旅した時に出会った人々や聞いた話が映画のベースになっているという。
子ども、保護者、そして地域に「先生」は育てられる。そしてそれは、どこの国でも、いつの時代でも、きっと変わることはない。
*この記事は、月刊『クレスコ』2023年3月号からの転載記事です。
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