見出し画像

先生が先生になれない世の中で(19)教育現場における「構想」と「実行」の分離(8)~生命の営みの中で教育をとらえ直す~

鈴木大裕(教育研究者・土佐町議会議員)

私たちが生きる資本主義社会の根幹には、「自然と人間の分離」があった(*1)。そして、それは人間の子育てにも影響し、「自然と教育の分離」をもたらした。世界規模の気候変動など、地球が悲鳴をあげる中、自然と教育の結合が求められている。それこそが、大田堯が言う、生命の営みの中で教育をとらえ直すことなのだろう。

それでは、大田が訴えた「命を大切にする教育とは」いったいどんな教育なのだろうか。命あるものなら誰しも、学ばなくては生きていけない。そして、それは「ちがう、かかわる、かわる」のくり返しなのだと大田は言う。
命あるものなら、ただ一つとして同じものはない。外見や性格だけの話ではない。育った環境や経験が違えば、当然考え方や意見も変わってくる。自分とは異なる他者と出会い、さまざまな刺激を受け、世界に一人だけの「私」に気づくのだ。そして、自分の頭で考え、他者の意見に耳を傾け、かかわる中で折り合いをつけていく。それが学ぶということであり、生きるということなのだ。

学校には、それぞれの人生を背負った、さまざまな子どもたちが集ってくる。教室には、その教室独自の生態系が生まれる。教員が一人ひとりの違いにていねいに寄り添い、かかわる中で、そこに集った子どもたちの多様性を祝福する。それが学校のあるべき姿なのではないだろうか。もちろん、生徒がひしめく教室でそれをおこなうのは至難の技だ。だから、若く経験の浅い教師でも一人ひとりの違いにていねいに寄り添い、響き合えるような、そんな深い人間関係を可能にする教育環境整備が必要なのだ。それが行政の役割だろう。

命を大切にする教育と言うとき、「命」は自分以外の命をも意味する。自然を知らなくてはならない。自分たちが、地域の自然にどう生かされているか。自分たちの祖先が、地域の自然にどう生かされてきたか。町はどのように発展し、その過程で何が消えていったのか。人類はどのように進化し、その過程で何を得て、何を失ったのか。自然界では動物たちがどのように共存しているのか。自然との調和をめざす教育でなければならない。「人間だけに都合のいい世界(*2)」ではダメなのだ。

生きることは食べることだ。命を大切にするならば、私たちの生命を支える食べ物に重きが置かれるのは当然だろう。自分たちが口にするものが、どのようにしてつくられているかを学ぶだけでは足りない。教員は、子どもたちと自然の中を歩き、食べ物を採取したらいい。食べられるもの、食べられないものを子どもたちに教えるのだ。昔の子どもたちが川や山を歩きまわり、どうやってタンパク源を確保していたか。どうやって食べていたか。そうする中で、子どもたちの味覚、嗅覚、聴覚、視覚などを養い、一人前にしていくのだ。

私たちの祖先は、かつてゴリラと同じ、森の中に生きていた。山極寿一は、森の中というのは、「決して同じことが繰り返されない(*3)」、「予測ができない世界(*4)」だと言う。視界の悪い森の中では、何が突然目の前に飛び出してくるかわからない。予測ができないのだから、「正解」も存在しない。頼れるのは、自らの感性だけだ。

それと比べ、人間がつくった橋や子どもたちが過ごす教室などは、山極の言葉を借りれば、「起こるべきことを人間が予想して作ったもの」であり、「そこにいる自分は予測されて」いるのだ(*5)。管理された環境では、正解・不正解というものが生まれ、感性よりも論理が重視されるようになる。体育、美術、音楽、技術、家庭科など、子どもの感性を育む教科が脇に追いやられている学校の現状が、まさにそれを物語っている。山極は、「言葉ができてしまって、論理が優先し始めた(*6)」と指摘する。言葉を持たない動物たちと共存し、植物たちと調和しようとするならば、論理よりも感性を研ぎ澄ますことが重要になってくる。

もちろんそれは、人間が言葉を捨てるということでも、文明を手放すということでもない。それは、「人間が原初の森の精神にもどる」ことであり、「人間だけに都合のいい世界」を真に持続可能な世界へとつくり変えることだ(*7)。大田は、新しい、「科学知を乗り超えた生命主体と生命主体とのかかわり合いの知恵(*8)」が求められていると言う。そんな知恵を育み、生命と生命が響き合う学校(*9)であってほしいと、心から願う。

【*1】鈴木大裕(2022)「新自由主義批判を超えて」、『クレスコ』no. 262、2023年1月号。
【*2】山極寿一・小川洋子(2021)『ゴリラの森、言葉の海』新潮文庫、290ページ。
【*3】同*2、246ページ。
【*4】同*2、253ページ。
【*5】同*2、249ページ。
【*6】同*2、254ページ。
【*7】同*2、290ページ。
【*8】大田堯(2000)『歩きながら考える生命・人間・子育て』一ツ橋書房、51ページ。
【*9】大田堯・山本昌知(2016)『ひとなる――ちがう、かかわる、かわる』藤原書店。

鈴木大裕(すずき・だいゆう)教育研究者/町会議員として、高知県土佐町で教育を通した町おこしに取り組んでいる。16歳で米国に留学。修士号取得後に帰国、公立中で6年半教える。後にフルブライト奨学生としてニューヨークの大学院博士課程へ。著書に『崩壊するアメリカの公教育――日本への警告』(岩波書店)。Twitter:@daiyusuzuki

*この記事は、月刊『クレスコ』2023年2月号からの転載記事です。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?