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先生が先生になれない世の中で(24)教員を信用しない社会で人を信用する子どもたちが育つのか?

鈴木大裕(教育研究者・土佐町議会議員)

今日の教育現場は、そもそも人を育てる場所としてデザインされていないのだと思う。

先日、「抗うべきは『常識』」(*) で取り上げた校長の学校が、教育委員会による管理訪問を受けた。その際に提示されたという資料を見て、私は愕然とした。そこから見えてきたのは、行政が教員を信用せず、あれダメ、これダメというルールで教員をがんじがらめにしている姿だった。飲酒運転をするな。テストや個人情報の入ったデータを学校から持ち出すな。長時間残業するな。現金を職員室の机の中に入れておくな。体罰や暴言、パワハラやセクハラで生徒の人格を傷つけるな。携帯電話、メール、SNSなどで生徒とやりとりするな。管理職の許可なしに生徒と1対1で話をするな。密室での個別指導など言語道断。児童生徒との身体接触は一切するな、教員による性暴力を未然に防ぐために校内に死角をつくるな......。その資料にはあえて書かれていなかったものの、親との飲み会は当然禁止であり、子どもは男女関係なく必ず「さん」付けで呼ばなくてはならないという。

「これを読んでやる気を出す教員がいるか?」―― 校長は憤っていた。私はとりわけ、管理職の許可なしに生徒と1対1で話してはいけない、というきまりに驚かされた。「一人でも多くの生徒とどれだけ深く対話するか。」そんなことが教員に求められた私の中学校教員時代(2002〜08年)が遠い昔のように感じられる。

管理訪問では、生徒との身体接触に関して、こんなエピソードまで職員らに紹介されたそうだ。ある教員が、一人の生徒を励ますためにそっと肩を叩いた。後日、その生徒の親から、「そんなセクハラするやつは担任からはずせ」との苦情が学校にあったという。そんな状況なのだから、生徒の頭を撫でるのも当然アウトだ。

校長は管理訪問の翌日、職員らにこう語った。「五感を働かせて生徒との信頼関係をつくろう。励ましている人の気持ちもわからないような人間を育てるな。自分たちがなんで教員になったかを忘れないでほしい。」

教育委員会の資料は、「コンプライアンス」の大号令のもとで、いかに自分たちが世間から信用されていないかという印象を教員に植え付ける一方で、彼らに高貴な理想を求める。「教育者としての自覚と誇り」「深い愛情と使命感」「子どもの権利」「生徒との信頼関係」......。どれもその通りなのだが、もはやきれいごとにしか聞こえない。どうしたら教員は教育者としての誇りと使命感を持てるのだろうか? どうしたら生徒との信頼関係を築けるのだろうか? そのためにはどんな環境が必要なのだろうか? そんな問題意識は微塵も感じられない。

同様に、教育委員会の資料は、「教職員の心身の健康の大切さ」や「働き方改革の必要性」を説く一方で、おびただしい数のマニュアルに精通するよう、教員に求める。学校の不審者対応危機管理マニュアル、学校総合防災マニュアル、学校徴収金の管理及び事務取扱いに関する要綱マニュアル、学校における食物アレルギー対応の手引き、児童生徒を性暴力から守るための行動指針、学校で保有する情報資産の取り扱いに関する実施手順、いじめ防止ガイドライン、部活動ガイドライン、などなど。

もちろん、それらに目を通すだけでも膨大な時間がかかるのは言うまでもないが、それでいて「超過勤務が月平均45時間を超えないこと」「教職員のストレス度が全国平均より良好であること」を一方的に求めるのだからむちゃくちゃだ。行政は形を整えるだけで、あとはすべて教員や学校の自己責任。そう考えると、行政の仕事は問題を起こさないことではない。マニュアルを作って、問題が起きた際に自治体の責任が問われないようにするための説明責任さえ果たせれば、それでよいのだ。

管理すること、締め付けることで人は育つのだろうか? 教員を信用しない社会において、果たして人を信用する子どもたちが育つのだろうか? 教員の不祥事をどうしたら防止できるかを考える前に、なぜ教員の不祥事が後を絶たないのかを考えるべきではないだろうか? 昔といったい何が変わってきているのか?

不祥事を防止したいなら、自分を「人生の師」と慕う生徒を教員に持たせることだと私は思う。生徒の想いを背負って生きている教員には、無責任なことはできないから。

管理訪問の最後に、教育委員会のメンバーは口々に生徒たちのことを褒めたそうだ。「先生たちと子どもたちの距離がとても近く感じられた。いい関係づくりができていると思った。」「先生たちと子どもたちの関係がとても温かくて授業を見ていてとても反応がよく前向きな子どもたちの気持ちが伝わってきた。日頃の指導の賜物と感じた。」「自分の意見を発することができる生徒が見られた。」「どの子どもも笑顔で挨拶してくれた。」

校長は心の中でこう呟いていたという。「そうだよ。あんたたちの言うことを真に受けない校長の学校の子どもたちがどう育っているのかよく見てほしい。」

【*】クレスコ2022年12月号の連載記事
先生が先生になれない世の中で(17)教育現場における「構想」と「実行」の分離(6) ~抗うべきは「常識」~

鈴木大裕(すずき・だいゆう)教育研究者/町会議員として、高知県土佐町で教育を通した町おこしに取り組んでいる。16歳で米国に留学。修士号取得後に帰国、公立中で6年半教える。後にフルブライト奨学生としてニューヨークの大学院博士課程へ。著書に『崩壊するアメリカの公教育――日本への警告』(岩波書店)。Twitter:@daiyusuzuki

*この記事は、月刊『クレスコ』2023年7月号からの転載記事です。


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